第三十一幕 暗殺者撃退作戦


 会議の結論から言えば、リュドミラの提案した囮作戦が採用された。西軍は陽が明けると通常通り行軍を再開した。そして県境を越えてスロベニア郡キュバエナの県内に踏み入った。そのまま進軍を続け、やがて夜を迎えて再び夜営地を設営する。


 哨戒兵は前回よりもかなり厚くしてある。タナトゥスだけでなくガレス軍による夜襲の警戒もあるので防備が厚くなっているのは極めて自然な事だ。


 そして更にヴィオレッタの天幕の入り口には愛用の鎧兜に身を包んで完全武装のオルタンスが控える。前回の夜営でタナトゥスの襲撃を受けた身としては当然の措置だろう。


 ここまでやればタナトゥスが不審を抱く事はまずない。事実ソニアの軍に付かず離れずの距離を保って尾行していたタナトゥスは、再び夜営地に潜入していた。


 警備を厚くしていたにも関わらず、この生粋の暗殺者は巡回の僅かな間隙を縫って超人的な身のこなしと隠密で潜入に成功していた。



「…………」


 再びターゲットであるヴィオレッタを狙うタナトゥス。彼女が警護に当たっているオルタンスに声を掛けてから自身の天幕に引っ込んだ事は目視で確認している。後はあの邪魔なオルタンスさえいなくなれば仕事を完遂できる。


 あのギュスタヴの娘というだけあって、女の癖にかなりの強さであった。少なくとも敵地に単身で潜入している状態で、進んであの女と斬り結ぶ気はない。


 ほんの僅かな隙でいい。人間である以上必ず催すはずで、小用で僅かに席を外した時で構わない。その隙に天幕に侵入するのだ。


 ミハエルからは一度誘拐に失敗したら次は殺していいと言われていた。寝ている女の喉を斬り裂くだけだ。数秒も掛からない。後はオルタンスが戻ってくる前に素早く離脱するだけだ。


 軍師を失った敵軍は大きく動揺して士気が下がる事は間違いない。タナトゥスの任務はその後も付かず離れずにつきまとって輜重部隊を狙うなど、敵を後方から攪乱する事であった。



 敵兵の巡回の目を掻い潜りながら辛抱強く潜伏を続けるタナトゥス。暗殺任務では丸一日以上ターゲットの隙を狙って潜伏を続けた事もある。この程度の忍耐比べはお手の物だ。


 やがて待ち望んでいた瞬間が訪れた。天幕の前で警護していたオルタンスが周囲を気にするような挙動を取ったかと思うと、天幕から離れて小走りに排便スペースのある一角に向けて走り去った。


 本当に催したのか、それともタナトゥスをおびき寄せる罠のつもりか。それは分からないが、オルタンスは確実に離れた場所に走り去ったのは確かだ。あそこから急いで駆け戻ったとしても、その時には既に彼の刀がヴィオレッタの喉を斬り裂いている。後は一目散に逃げればいいだけだ。


 タナトゥスは地を這うような低い姿勢で、矢のように素早く通りを横切るとヴィオレッタの天幕の中に音も無く滑り込んだ。


「…………」


 寝台にはこちらに背を向けるような形で敷物を被った女が寝ていた。ヴィオレッタだ。タナトゥスは一切鞘走りの音を立てずに黒塗りの刀を抜いた。そして女の枕元まで忍び寄る。


 前回は拉致を優先していたので何もしなかったが今回は最初から暗殺が目的だ。タナトゥスは躊躇う事無く刃をヴィオレッタの首筋に走らせようとして……



 ――敷物が舞った。



「……っ!?」


 同時に寝ていた女がタナトゥスの凶刃を躱して、驚異的な身のこなしで飛び起きた。


 あり得ない現象だ。ヴィオレッタはあくまで軍師であり多少護身の心得はあっても、タナトゥスのような達人相手では問題にならないレベルのはずだ。事実前回は容易く拉致寸前まで行った。そう、あのオルタンスに邪魔さえされなければ……


 そう思った時、飛び起きた女が剣を一閃させてきた・・・・・・・・・。まるでタナトゥスを一撃で仕留めんとするかのような鋭い斬撃だ。文人肌の軍師には到底放てないような剛撃。タナトゥスは顔を引きつらせて、辛うじてその斬撃を回避した。同時にその剣閃に覚えがある事に気付いた。


「貴様……まさか」


「上手く掛かりましたね。流石はヴィオレッタ様です」


「……!!」



 妖艶な女軍師とは明らかに異なる力強い女声。そこにはヴィオレッタの衣装を身にまとったオルタンスが、黒髪の鬘・・・・を脱ぎ捨てて剣を構えていた!



「ちぃ……!」

 事態を悟ったタナトゥスは舌打ちして身を翻すと天幕から飛び出した。暗殺は失敗だ。こうなったら離脱を優先して、後は付かず離れずの距離を維持して後方攪乱に終始した方が得策だ。だが……


「そんなに慌ててどこへ行こうというのかしら?」

「……っ!」


 天幕はいつの間にか大勢の兵士に包囲されていた。全員槍や弓を構えて臨戦態勢だ。彼等を指揮しているのは……オルタンスの鎧兜を身にまとったヴィオレッタであった!


「折角来たんだから、おもてなしを受けていきなさい」


 ヴィオレッタが合図すると包囲していた兵士達から矢が放たれた。文字通り四方八方から迫る矢をそれでも超人的な体術と刀によって捌き切ったタナトゥスだが、


「ふっ!!」


 その隙に後ろから追いすがってきたオルタンスが再び剣を一閃。初撃は辛うじて躱したが、兵士達から放たれる矢にも対処していた為に体勢が崩れる。そこに間髪入れずにオルタンスのもう一方の剣が煌めく。


「かっ……!!」


 鮮血が飛び散った。胴体を斜めに斬り裂かれたタナトゥスが呻く。寸前で身を躱した為に致命傷とはならなかったが、かなりの深手だ。


「おのれぇぇ!」

「……!」


 冷静な暗殺者としての仮面が剥がれたタナトゥスは、文字通り血を吐くような勢いで怒号を上げながら刀を振るってオルタンスを牽制する。それと同時に腰に手をやると、何か小さい玉のような物を取り出した。それを地面に叩きつけるとそこから瞬間的に大量の白煙が立ち昇り、タナトゥス達だけでなく周囲の兵士達まで包み込む。咄嗟の事で混乱する兵士達。


「……っ! ヴィオレッタ様!」


 この隙にヴィオレッタが害される可能性を考慮して、オルタンスは彼女の守護を優先する。やがて煙が晴れた時、そこにはタナトゥスの姿は影も形もなくなっていた。 




「……逃げられたわね。今のは緊急時の脱出手段だったようね」


 ヴィオレッタが若干悔しそうな口調で呟く。仮にも敵陣に単身で潜入しようというのだから、そういう手段を用意していたとしてもおかしくはない。


「……まあいいわ。かなりの深手を負わせられたし、少なくともこの戦の間はもう奴の心配はしなくてよさそうね。流石ね、オルタンス。良くやってくれたわ」


「あ、ありがとうございます。ヴィオレッタ様の作戦の成果です」


 ヴィオレッタの労いに顔を赤くして謙遜するオルタンス。ヴィオレッタは悪戯っぽく目を細める。


「うふふ……でも体格がいいお陰か、そういう格好・・・・・・も案外似合うじゃない、オルタンス?」


「え? …………あっ! こ、これは、その……!」


 今の2人はタナトゥスの目を欺く為に互いの衣装を交換している状態であった。即ちオルタンスは平素の彼女からは考えられないような煽情的な露出度の高い服装となっていたのだ。太ももの付け根まで切り上げられたスリットから露出した生足や剥き出しの胸元や二の腕が艶めかしい。


 ヴィオレッタの言う通り、体格の良いオルタンスにはそうした煽情的な姿も非常に見栄えが良かった。ただし似合っている事と本人がそれを良しとするかは別の話だ。 


 普段の隙の無い地味な平服姿か戦時の鎧兜姿しか知らない兵士達は、そのギャップも相まって全員の目が、彼女の太ももや胸元などに吸い寄せられていた。


「う、うぅ! み、見ないで下さいぃぃ……!」


 それに気付いたオルタンスは更に顔だけでなく耳まで紅潮させて、慌てて天幕の中へと避難するのであった……




 こうしてヴィオレッタ達西軍は、対ガレス軍の緒戦とも言える暗殺者の脅威を無事に取り除く事に成功した。だがタナトゥス1人を撃退したのみであり、当然ガレス軍の北上部隊は未だに無傷のままだ。


 マリウス軍対ガレス軍。トランキア州の覇権を掛けた戦が本格的に開始されようとしていた……

 

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