第三十幕 後顧の憂い
「……と、いう訳よ。危うくミハエルの元に連れ去られる所だったわ」
自身の天幕に主だった将を集めて緊急会議を開くヴィオレッタ。事情を聞き終えた皆が絶句したり難しい顔で唸ったりしていた。
決して気を抜いていた訳ではなかった。万が一の夜襲などを警戒して哨戒の兵士の数も増やしていた。その警備を容易くすり抜けて陣の中央にいるヴィオレッタの元に到達し、あまつさえ彼女を拉致寸前まで行っていた。その事実が皆の心に重くのし掛かる。
「……由々しき事態だね。勿論オルタンス殿の働きで最悪の事態を免れた事は喜ぶべき所だけど、
ビルギットが眉間に皺を寄せて唸る。やはり彼女は一早く問題点を正確に把握していたようだ。反対にソニアは首を傾げていた。
「由々しき事態? どういう事だい? あいつは逃げ去ったんだろ? きっとオルタンスの腕前に恐れを為して、もうちょっかいは出してこないだろうさ」
問題の本質を理解していないソニアにヴィオレッタが溜息を吐く。
「そう……逃げ去った。つまりはまだどこかに
「潜伏? って事は、つまり…………あっ!」
ソニアが何かに気付いて目を瞠った。ヴィオレッタは頷く。
「そういう事。私達は次にいつ侵入してくるかも解らないあの男を常に警戒させられる羽目になってしまったわ」
「……!」
何と言っても哨戒の兵が警備している陣に容易く侵入してきた相手だ。相当に防備を厚くして夜営中も夜通し警戒し続けていなければならない。だがそんな事を行軍中ずっと続けていたら戦う前から疲労困憊だ。
さらに厄介な事にタナトゥスの腕前は達人級だ。ヴィオレッタ以外の武将たちに対しても個別に暗殺などを狙ってきたら極めて厄介だ。奴が本気になって襲ってきたら、まともに対処できるのはオルタンスのみだ。彼女は不眠不休でタナトゥスの襲撃に備えていなければならなくなる。
そしてこれは行軍中の問題であり、実際にガレス軍と相対して戦闘になった時には別の問題が浮上する。
敵国に攻め入るという事はつまり、兵站を維持する為の輜重部隊が必要になるという事だ。ガレス軍との交戦中に、タナトゥスによってこの輜重部隊を狙われる危険性が非常に高い。兵糧に大きな被害が出れば戦いどころではなくなる。
自分達もこれまでの戦で敵の輜重部隊を狙う作戦は何度か実行していた。先だってのハルファル軍からの防衛戦では、キーアが単身で潜伏して敵の輜重部隊を常に後ろから脅かして士気を挫く戦法をとった。
今回はまさに自分達が脅かされる側となってしまったのだ。しかもタナトゥスはキーアとは比較にならない達人であり、その侵入や工作を防ぐには相当数の兵を輜重部隊に割かなければならなくなる。もしくは敵軍と交戦している最中に、最強戦力であるオルタンスを常に後方の輜重部隊の警備に立たせておくか。
どちらにしても肝心のガレス軍と戦う為の貴重な戦力を、いつ襲ってくるかも解らないタナトゥス1人の為に拘束される事になってしまう。
勿論進軍を停止して国境の砦に籠れば輜重部隊の心配はしなくて良くなる。自分達の目的が単に敵軍の防衛であるならそれでもいい。だがこの西軍は敵を素早く撃破して敵国に攻め入る為の部隊だ。その為に東軍の戦力を犠牲にしてまで精鋭をこちらに集中させているのだ。それが砦に籠って防衛に徹していては本末転倒だ。今こうしている間にも手薄な東側のダンチラ街道をもう一方の敵軍が進軍しているのだ。砦に引き籠るという選択肢は取れない。
(くそ……ミハエル……! お前はどこまで……!)
ガレス軍と本格的な戦闘に入る前の段階で、タナトゥス1人に翻弄されている現状にヴィオレッタは歯噛みした。
タナトゥスの背後にいるのは間違いなくミハエルだ。元々の雇い主であるジェファスは所詮政治屋であり、このような大胆な運用はまず出来ないだろう。
ミハエルはタナトゥスの能力を最大限効果的に活用している。恐らく最初からヴィオレッタの拉致に失敗したケースも想定して作戦を立てていたのだろう。それが今の状況という訳だ。
「……何とかしてこの後顧の憂いを取り除いておきたい所だね。でないと私達も戦に集中できない」
ビルギットが腕組みしたまま発言する。そう。それが現状の最優先課題だ。
「そうね……。殺すか捕えるか、それが出来なくても最悪手傷を負わせるだけでもいい。そうすれば国や君主への忠誠心は皆無だから、勝手に退散してしまうはずよ」
口で言うだけなら容易いが、それの如何に困難な事か。ヴィオレッタは勿論、ビルギットもソニア達も単身で襲われたら太刀打ちできない。ソニア達3人組の連携なら対抗できるかも知れないが、相手がわざわざ3人揃っている所へ襲ってくるはずがない。またそれぞれ部隊を率いているので、常に3人一緒にいる訳にもいかない。
場の全員の視線がオルタンスに集中する。タナトゥスと独力で渡り合えるのは彼女だけだ。彼女がこの撃退作戦の肝となる。
「でも……どうやって彼女を奴にぶつけるんですか? 相手も既に彼女の事は警戒しているでしょうし……」
ジュナイナの疑問。リュドミラがそれを受けて挙手する。
「ちょっと危険だけどヴィオレッタ殿に囮になってもらうというのは? 奴があなたを狙って現れた所を隠れていたオルタンス殿が急襲すれば……」
確かにヴィオレッタが奴の最優先対象である事は想像に難くないので、一見有効に思えるが……
「いや、無理でしょ。相手は獣じゃないんだし、あからさまな囮じゃすぐに見抜かれると思うよ。それに奴が誘拐よりも確実な暗殺を優先させた場合、リスクが大きすぎる」
ビルギットがかぶりを振る。奴が侵入しやすいように防備を薄くなどすれば確実に怪しまれる。ましてやヴィオレッタが誘拐されかけた状況にも関わらず再び1人になるというのは明らかに不自然だ。
それによしんば引っ掛かったとしても、オルタンスがどこかに隠れている方法だと、タナトゥスが最初からヴィオレッタを殺すつもりだった場合に守り切れない可能性が高い。
「でも、じゃあどうするんだい? いくらオルタンスでも鎧着たまま夜通し突っ立てるのはキツいだろうし、何とかしてこっちから仕掛けないと……」
「……!」
唸るようなソニアの言葉にヴィオレッタはハッとして顔を上げる。
「待って、ソニア。今、何て言った?」
いきなり話を振られたソニアが慌てて向き直る。
「え? い、今かい? ええと……何とかしてこっちから仕掛けないと……」
「違う! その前よ!」
「そ、その前? ……いくらオルタンスでも鎧着たまま夜通し突っ立って……」
「それよ!」
ヴィオレッタは床几を叩いた。同時に先程ジュナイナが言っていた、『相手も既に彼女の事は警戒している』という言葉も脳裏に浮かび上がる。彼女は深い笑みを浮かべた。
「ヴィ、ヴィオレッタ?」
「ふふ……思いついたわ。私の安全を確保しつつ、確実にオルタンスを奴にぶつける方法を」
「え!?」
全員の驚愕の視線が彼女に集中する。ヴィオレッタは作戦の説明を始めた。現状ではこれが最善の計画のはずだ。彼女にはその確信があった。
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