国病浄化大作戦
第十二幕 才媛の憂鬱
セルビア郡の
マリウス軍の内務担当大臣でもあるエロイーズだ。ディムロス県内のあらゆる陳情が寄せられ、またディムロスの街を首都の名に相応しい威容にする為に様々な政策を実行する彼女の元には日々膨大な量の仕事が山積みとなっている。
しかし普段の彼女はそんな仕事の山にもうんざりした顔一つ見せずに、まるで戦場で敵を斬り裂く剣士のように素早く的確に、そしてどこか楽しそうに次々と処理してしまう。
そう……
「…………」
エロイーズは懸命に目の前の仕事に集中しようとする。しかしともすればすぐに気もそぞろになり、仕事の手が止まり思案に耽ってしまう。その度にその白磁の面は憂慮に沈み、そのたおやかな口からは悩ましい吐息が溜息となって漏れ出る。
ここ最近はずっとこんな調子だ。原因ははっきりと分かっている。
ソニアのような武芸の腕もない。アーデルハイドのような用兵能力もない。そしてヴィオレッタのような軍略の才能もない。他の同志達のように戦でマリウスの役に立つ事ができない。
ディムロスだけに留まっている内は良かったが、やはり勢力を拡大させていくに当たっては戦や外政の能力が物を言う。そのいずれもが欠けているエロイーズは完全に情勢の変化に取り残されつつあった。
目の前の陳情書を眺める。自分がこんな物にかかずらってる間に、他の同志達は軍備や訓練、作戦の会議だったりとガレス軍との戦に向けての準備を着々と整えている。大きな戦が控えていると解っているのに、自分に出来る事は何もないのだ。それが堪らなく口惜しくもどかしかった。
そもそも政務にした所で自分が直接管轄しているのはこのディムロス県のみであり、ギエルやハルファルでは既に独自に官吏を雇用して政務を回している。官吏自体の数も黎明期に比べて充実してきており、極端な事を言うとエロイーズが抜けたとしても国が回らないという事がないのだ。
――替わりはいくらでもいる、歯車の一つになりつつあった。
「……っ!」
その事実を意識すると彼女は激烈な恐怖を感じる。まるで自分が今にも崩れ落ちそうな砂上の楼閣の上に立っているような恐怖だ。
そして何よりも直接的にマリウスの役に立てていないという現状が、彼女を自己嫌悪に陥らせていた。
国が発展すればいずれはこのような状況になっていくと頭では解っていたはずなのに、どこか軽く考えていた。実感が伴っていなかった。いざその状況に直面した時の覚悟が足りていなかった。
なまじ幼い頃から神童と持て囃され、長じてからも苦労した経験がなく順風満帆に歩んできたエロイーズは、このような悩みを抱く事自体慣れておらず、未だ自力で立ち直る事が出来ずにいた。
もう何度目になるか解らない溜息を吐いて筆を置く。仕事の能率は既に最低レベルであった。気付けば既に窓の外は日が沈み始めていた。
「……ふぅ。駄目ですね。今日はここまでにしましょう」
気もそぞろなまま仕事を続けて何か失策などした日には、それこそ本当にマリウスに失望されてしまう。いつもよりやや早いが仕事を切り上げる事にして、執務室の整理を始めた。
****
(……マリウス様に正直に打ち明けて相談すれば、それはあの方は絶対に私を必要だと仰って下さるでしょうが……それに甘えてしまう訳には)
自分の屋敷に帰ってきたエロイーズ。手早く食事と入浴を済ませた後は、自室に籠ってひたすら当てのない想念に沈んでいた。
(私が自分で乗り越えなければ意味がない……それは解っているのですが)
しかしどうすれば乗り越えられるのか解らない。マリウスにも、そして勿論他の者にもこんな事は相談できない。
堂々巡りの思考に陥り掛けていた時だった。家令から意外な来客を告げられた。
「え……リリアーヌが? 珍しいですね。すぐに応接間へ通して下さい」
家令に指示して、自身は身支度を整えてから応接間へ向かう。
「あ……せ、先生! 済みません、こんな夜分に……」
部屋に入ると既にリリアーヌが落ち着かなさげにソファに座って待っていた。エロイーズの顔を見ると慌てて立ち上がって頭を下げた。相変わらずその美貌に似つかわしくないオドオドした態度だ。エロイーズは苦笑しながら座るように勧めた。
「いえ、構いませんよ。むしろもっと気軽に訪ねてきてくれてもいいのですよ? でも私は構いませんが、あなたはこんな時間にまさか1人でここまで来たのですか?」
リリアーヌと向き合ってソファに腰掛けながら尋ねる。彼女は現在、父親のエウスタキオ卿がディムロスに持っている別宅を住まいとしていた。使用人なども全て父親が手配してくれたようだ。
だがいくらこの辺りが治安のよい高級住宅街とはいえ、リリアーヌのような美少女が夜道を1人で歩いていては何が起きるか保証は出来ない。
「あ……そ、それは……衛兵の方が送って下さって……」
迎えまでやってくれるそうで、今も屋敷の玄関広間に控えているらしい。
リリアーヌはこのような外見なので当然の事ながら宮城に出入りする官吏や衛兵などからの人気は極めて高く、特に衛兵の間では真偽は不明だが、『リリアーヌ親衛隊』なるものが結成されているとまことしやかに噂されていた。
一官吏の私用での外出に衛兵が専属で送迎に付く事など通常はあり得ないので、案外噂は真実かも知れないとエロイーズは思った。
「おほん! それで……わざわざ訪ねてきたからには何か用事があったのでしょう?」
咳払いして話題を切り替えるとリリアーヌは慌てて居住まいを正した。
「あ、は、はい……実は……」
彼女は恐縮しながらも用件を切り出した。
「新興宗教ですって……?」
リリアーヌの話はつっかえつっかえで要領を得ず、エロイーズの方からも質問して上手く誘導してやる事でようやく概要を把握できた。
要点をまとめると、彼女にはこのディムロスにサラという名前の友達がいるらしいのだが、最近そのサラの両親が何やら怪しげな宗教に嵌ってしまい、家財道具を売り払ってまで金を工面してその宗教に収めているのだそうだ。
サラが何を言っても聞く耳を持たず、それどころか日々様子がおかしくなってきているのだという。怖くなったサラは友人であり仕官もしているリリアーヌに相談した。
相談を受けたリリアーヌが調べてみた所、主にサラの家のような中流家庭を中心に他にも同じような事態になっている家がかなり沢山ある事が解った。
これは只事ではないと感じたリリアーヌは、急いでエロイーズに相談する為にこうして夜分にも関わらず屋敷を訪ねた、というのが事のあらましであるようだった。
「は、はい。何だかどの家もただならない感じで、私も怖くなってしまって……」
「…………」
砂漠の向こうのパルージャ帝国や海を隔てたシャンバラには神仏を崇める習慣があるらしいが、この中原では神という存在は余り信じられていない。
ただ例えば戦勝を祈願したり、誰かが亡くなった時にはそれを弔う為の葬儀などの儀式は行われる。墓や墓地もきちんと存在している。ではこれらは何に祈っているかというと、父祖の英霊に対してである。
人間は必ず誰かから生まれるものであり、父祖が存在しない人間はいない。自分という存在をこの世に誕生させてくれた者に対しての敬意を抱き、今生でも自分を見守り加護を与えてくれるように祈るのだ。そして死した時はその者の魂が父祖の列に加えられ、今を生きる自分達を見守ってくれるよう祈るのだ。それが中原の基本的な宗教観であった。
だが稀に中原においても神という存在を説き、その
ただの無害な宗教であれば良いのだが、こうした新興宗教は大半が信者を騙して利益を吸い上げ食い物にする事を目的とした邪な集団であり、当然ながら為政者からは歓迎されない場合が殆どだ。
特にこのような明日の見えない戦乱の世では、そうした新興宗教が発生しやすい土壌ではあった。ディムロスにもそれが発生したとなれば由々しき問題である。
「なるほど……話は分かりました。確かにそれは由々しき事態かも知れませんね。しかし……それなら通常は君主であるマリウス様か、そうでなくともこの街の治安を担当するキーア様に相談するのが普通だと思いますが、何故私の所に?」
それは純粋な疑問だった。確かに自分はリリアーヌの直属の上司だが、正直自分が余り気軽に物事を相談したりしやすい人間ではないという自覚はあった。その点キーアなどは優しく誰に対しても人当たりが良いので、リリアーヌでも訴えを相談するのにそう抵抗はないはずだ。
つい先程まで自分の立ち位置で悩んでいた事もあって、そんな疑問が出てしまった。それに対してリリアーヌは……
「そ、それは、あの……やっぱり、国内の……特にこの街の事であれば、やっぱり先生にご相談するのが一番頼りになると思って……」
「……っ! 私が……頼りに?」
エロイーズが目を見開く。本心から驚いたのだ。するとその様子を見たリリアーヌが不安そうな表情になる。
「は、はい。あの……やっぱりご迷惑でしたでしょうか……?」
「……! いえ、そんな事はありません。そう思って頂いて嬉しいですよ、リリアーヌ」
エロイーズは柔らかい微笑みを浮かべる。しかしすぐにその表情が厳しく引き締められた。
「この街を脅かす不穏分子を放置する事は出来ませんからね。他の皆様は戦の準備などで忙しい時期です。この問題、皆の手を煩わせる事無く私が解決してみせましょう」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、先生!」
リリアーヌがその美貌を更に輝かせて頭を下げる。
「ふふ、いいのですよ。では直接話を聞きたいので、早速明日にでもその友人の少女をこの屋敷に連れてきてもらえますか? 余り人目に付かない方が良いと思いますので、時間は今と同じくらいとしましょうか」
この時間ならエロイーズも政務を終えて帰宅している時間帯なので問題はないだろう。
「わ、解りました。宜しくお願い致します!」
リリアーヌは勿論異存はないようで勢い込んで頷いた。
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