第十一幕 妖花詭計(Ⅴ) ~毒花
「は……はっ……はぁ……はぁ……」
大きく息を吐きながらギュスタヴが逃げ去っていった間道の先を見つめるオルタンス。やがてようやく実感が湧いたのか、信じられない物を見るような目で剣を握った自分の手を眺めた。
そしてそんな彼女に静かに歩み寄ってくる足音が……
「オルタンス。出来たじゃない」
ヴィオレッタだ。妖艶な微笑みを浮かべてオルタンスの肩にその繊手を置く。オルタンスはそう言われて初めて自分が為した事を実感したようだ。あれだけ恐怖していた『鬼』相手に、立ちすくむ事無く戦い、遂には撃退したのだ。
「あ……わ、私……。とにかく皆さんを守らなければと無我夢中で……」
「ええ、そのお陰で私達は助かった。ありがとう、オルタンス。あなたが来てくれなければ私達は全員死んでいたわ」
「……!」
礼を言われたオルタンスは何故か身体を震わせた。それから若干顔を赤くして目を逸らした。
「そ、そんな事……私一人ではとても……。キーアさんが援護してくれたお陰です。こちらこそありがとうございました」
「ふふ、いいのよ。言ったでしょう?
「は、はい、そうですね……」
ヴィオレッタの言葉を噛み締めるように何かを考え込んでいたオルタンスは、やがて顔を上げてヴィオレッタと正面から向き合った。その目には先程までは無かった決意が宿っているようだった。
「……ヴィオレッタさん。あの……し、仕官のお話なんですが……まだ有効でしょうか?」
「……! ええ、勿論だけど……まさか?」
「はい。私などで良ければ……是非受けさせて頂きたいと思います」
「……っ!」
ヴィオレッタは内心の感情が表に出ないようにするのに最大限の努力を要した。そして何食わぬ顔で驚いた
「私達は勿論大歓迎だけど……本当にいいの?」
「は、はい。今まで父を殺す事だけを考えて修行してきましたが、こうやって誰かを守る為に戦うのも悪くないと思えたんです。父やその所属する国はヴィオレッタさん達の敵なんですよね? なら皆さんやその国の民を、父たちの魔の手から守る事も私の使命ではないかと思えたんです。それに皆さんと一緒にいれば再び父と戦う機会もあるでしょうし……」
そう言って少し照れくさそうに頬を掻くオルタンス。ヴィオレッタは彼女の両肩に手を置いて大きく頷いた。
「良く……決断してくれたわ。本当にありがとう、オルタンス。私達はあなたを歓迎するわ。これから宜しくね?」
「……っ! は、はい! こちらこそ宜しくお願いします!」
頬を赤くして若干涙ぐむオルタンス。受け入れてもらって、『仲間』が出来た事が嬉しいようだ。彼女の10年余の孤独な生活は今終わりを告げたのだ。
それまで黙って見ていたファティマが手を叩く。
「決断してくれて私も嬉しいわ、オルタンス。さて、そうと決まったら一回家に戻って必要な荷物を纏めたりしてもらわないとね。キーア、悪いけど彼女を手伝ってあげて。私達は体力がないからここで待ってるわ」
ギュスタヴが戻って来る心配は無いだろうし、この間道に出る賊の類いはオルタンスが定期的に
「わ、解りました。それじゃ行きましょうか、オルタンスさん」
「宜しくお願いします、キーアさん。先程は援護してくれてありがとうございました」
オルタンスが頭を下げるとキーアはびっくりしたように手を振った。
「い、いえ、私なんてあれくらいが精一杯で……。オルタンスさんこそ同じ女性なのにあんなにお強くて本当に驚きました! 国に戻ったら是非稽古を付けて下さい!」
どうやらキーアはすっかりオルタンスの強さに魅せられて心服してしまったようだ。元来穏やかな性質の二人の女武人はすぐに意気投合したらしく、話を弾ませながらオルタンスの庵に向かって間道を歩き去っていった。
「…………行ったわよ。で? どういう事か説明してもらえるんでしょうね?」
オルタンス達の姿が完全に見えなくなった頃合いを見計らって、ファティマが鋭い視線で振り向いた。ヴィオレッタを睨み据え、厳しい詰問口調だ。彼女の中には既に確信があった。
果たしてヴィオレッタは首肯した。
「お察しの通りよ。ギュスタヴが現れたのは偶然じゃない。ガレス軍が、というよりミハエルが我が国に多数の間諜を放っている事は解っていた。だがら敢えてその間諜の耳に入るように噂を流したのよ。オルタンスの所在、そしてそれを私が直々に勧誘しようとしているという噂をね」
オルタンスの抹殺とマリウスへの復讐を目論んでいるギュスタヴは、その両方を満たす事の出来るこの情報に飛びつくと踏んでいたのだ。そしてその目論見は見事に的中した。
ファティマが眉を吊り上げる。
「あ、あなた正気!? 一歩間違えれば全員殺されていたのよ!? オルタンスが救援に来てくれる保証なんてどこにも無かった!」
「……私達には悠長にしている時間はないと言ったのはあなたでしょう? そしてオルタンスには
「……っ! だ、だからって、こんな……!」
「それに結局彼女は来てくれた。私は
「あ、あなたは……どうしてそこまでして……?」
非常に危うい賭けだった。確かにオルタンスの戦力は魅力的だが、その為に自分の命まで賭けるなど尋常ではない。
ヴィオレッタは悲し気な表情でかぶりを振った。
「……私は、私達はマリウスに対して、決して償う事の出来ない代償を支払わせてしまった。私達自身の弱さと愚かさがあの事態を招いたのよ」
「……!」
利き腕を失うという不倶を負ったにも関わらず、それを何ら気にしていないようにいつも通り超然と振舞うマリウス。それによってマリウス軍全体が大きな動揺に見舞われる事もなく持ち直す事が出来たのは事実だ。
だがヴィオレッタだけは知っていた。
まだマリウスが右腕を失って間もない頃、宮城に用事があって深夜偶然マリウスの私室の近くを通った時、かすかな叫び声、呻き声、そして……泣き声のような声が聞こえてきたのだ。
まさかと思いながらも、そっと私室の扉の隙間から中を覗いたヴィオレッタは驚愕に硬直した。
マリウスが泣いていた。嘆いていた。そして苛立ち、癇癪を起こし、荒れ狂っていた。着替えにさえ難儀する己の身体に怒り、暴れていたのだ。そしてやり場のない怒りにうずくまり再び嘆き苦しむ。
そこには苦難にも折れない超然とした君主の姿は無く、ただの己の不倶を嘆き悲しむ弱い1人の人間がいた。否、あれだけ強健で自信に満ち溢れていたマリウスだ。幼い時から様々な武芸を学び修めてきたマリウスだ。
不倶となった怒り、悲しみ、悔しさは常人の何倍も大きいはずだ。何とも思わないはずなどないのだ。ただ君主として己を律し、民や臣下を不安にさせないよう人前では超然と振舞っていただけなのだ。
事実ヴィオレッタが覗いている事にも気付かない程の狂乱ぶりであった。
それだけではない。以後そういう目でマリウスの事を気に掛けていたヴィオレッタは、彼が度々深夜に宮城を抜け出して練兵場の隅で左腕のみでの剣術の訓練、そしてブラムドを連れてきての乗馬の訓練などを一心不乱に行っている現場を何度か目撃していた。恐らくほぼ毎夜のように繰り返しているのではないかと思われた。
汗にまみれながら不自由な身体で何度もバランスを崩して転倒しながらも必死に黙々と、そして人知れず修行を続けるマリウスの姿を遠目に見守るヴィオレッタの目から、いつしか涙が溢れていた。
そしてマリウスに気付かれないようそっとその場を離れた彼女は、自らの身命を賭してでも自分達が空けてしまった損失を埋める事を誓ったのだ。何をしてもマリウスが五体満足に戻る事は無いが、それがせめてもの彼女の償いであった。
「……そしてその為なら自分の命は勿論、私やキーアの命も賭けられたって訳ね」
ファティマが感情を押し殺したような声で問う。ヴィオレッタは躊躇う事なく再び首肯した。
「ええ、そうよ。私はマリウスの為なら、自分の命を含めた他の全てを利用して犠牲にする事も厭わないわ。それが私の決意よ」
事前にファティマ達に教えていたら確実に反対されるし、強引に進めたとしてもどこかに不自然さが滲み出てしまっていただろう。それでは駄目なのだ。
オルタンスに僅かな違和感も抱かせない為には、自分達が演技ではなく
「…………」
ファティマはグッと拳を握り締める。策略の必要性は理解できる。オルタンス勧誘の重要性も。ヴィオレッタ達がマリウスに対して負い目を感じている事も理解していた。
だが頭では解っていても、自分の
「……歯を食いしばりなさい」
静かに告げて、握ったままだった拳でヴィオレッタの頬を全力で殴りつけた!
「……っ」
殴られたヴィオレッタは衝撃で地面に倒れ込む。ファティマは息を吐いて振り抜いた拳を収めた。
「感情は納得できない。でも頭ではあなたの策の有用性は理解できる。だから……今ので勘弁してあげるわ。……今回だけはね」
そう言ってファティマはオルタンス達が歩いて行った方角を眺めて嘆息した。
「それと心配しなくてもあの子達には言わないわよ。……言える訳が無いわ」
「……ありがとう、ファティマ」
ファティマが手を差し出してきたので、それを取って立ち上がるヴィオレッタ。その頬はすぐに腫れてくるだろうが、今後の作戦の事で喧嘩になったとでも言っておけば誤魔化せるだろう。
「ふぅ……。さて、それじゃあの子達が戻ってくるまでの間、オルタンスの戦力を考慮した上での作戦でも考えておきましょうか」
「ええ、そうね……。また忙しくなるわね」
こうしてヴィオレッタの策略によって、最強の女剣士オルタンスが戦列に加わる事となった。オルタンスはその圧倒的な武力で、瞬く間にマリウス軍の中で頭角を現していく。
そしてヴィオレッタもまた、その悲壮な決意と共に増々軍師として精力的に働き、遂にはイゴール軍との再同盟までも成し遂げたのであった……
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