妖花詭計
第七幕 変化の予兆
恐ろしい形相で自分を見下ろす『鬼』がいた。
「さあ、何をしている。さっさと殺せ! 殺すのだ!」
『鬼』が自分に向けて怒鳴る。
戦争で親を失った孤児……。今の中原には同じ境遇の子供は掃いて捨てる程いるだろう塵芥の如き存在。でも、それでもれっきとした一人の人間だった。一つの命だった。
『鬼』はそれを絶てと自分に言う。怯えた目で自分を見つめる少年。その目には、幼い顔にはありありと死への恐怖が浮かんでいた。少年は死にたくないのだ。
当たり前だ。死にたい人間など誰もいない。でも、今から自分はこの少年に死を与えなければならないのだ。『鬼』がそれを強要している。
やらなければまた『鬼』は彼女を折檻するだろう。それこそ死んだ方がマシだと思えるような虐待を。まだ成人もしていない彼女の身体には無数の痛ましい傷痕が走っていた。全て『鬼』によって与えられた
「……っ」
罰の恐怖を思い起こした彼女は罰を受けたくない一心で、持っていた剣を構えて震える少年に歩み寄る。少年の顔が恐怖に歪む。それを見た彼女も呼吸が乱れ動悸が激しくなる。何度も唾を飲み込む。
殺す? 誰を? 目の前の少年をだ。誰が? 自分がだ。
剣を振り上げた姿勢で固まってしまう。身体が瘧のように震える。どうしてもその剣を振り下ろす事が出来なかった。だがそれは大きな『隙』となってしまう。
「う、う、うわあぁぁぁっ!!」
「……っ!」
死の恐怖から錯乱した少年がうずくまった姿勢から跳ね上がるようにして、固まる彼女に体当たりを仕掛けてきた。精神的余裕が一切なかった彼女は、本来
「あ……!」
持っていた剣を少年に奪われていた。生存本能から狂乱した少年は無我夢中で剣を振り上げた。
「うわあぁぁぁっ!!」
「……っ」
叫びと共に剣を振り下ろす少年。やはり技術的に躱したり反撃する事は容易だったにも関わらず、彼女は少年の狂乱と憎悪に当てられて身体が硬直してしまい、思わずギュッと目を瞑った。
――ザシュッ!!
剣が肉に食い込む生々しい音。しかし彼女は痛みを感じなかった。今の音は彼女の身体から発生したものではなく……
恐る恐る目を開けた彼女の視界に写り込んだものは、身体を斬り裂かれ血を吐きながら崩れ落ちる少年と、少年の血に塗れた剣を手に凄まじい形相で自分を睨み付ける『鬼』の姿であった。
「あ……あ……」
「おのれ……ここまで腑抜けとは……。惰弱な母親の血が濃く出過ぎたか……。もういい。貴様は『失敗作』だ。使えぬ
「……!!」
ただでさえ恐ろしい顔を憤怒に歪めた『鬼』は、彼女にとってまさに地獄の極卒そのものであった。そしてその極卒が遂に彼女に殺意を向けた。とうとうこの時が来たのだ。
恐怖の余り失禁した彼女はへたり込んだまま、ただ自分に向かって凶刃を振り上げる『鬼』の姿を呆然と眺めていた。
だが『鬼』の刃が振り下ろされる瞬間、1つの影が彼女と『鬼』の間に割り込み、そして…………
****
「――――はっ!!」
「はっ! はっ! はぁっ! はぁっ! はぁっ!」
激しい動悸で息が切れる。身体中汗まみれだった。彼女は周囲を見渡す。見慣れた自分の家の中。夢であった事を悟って、ホゥ……と息を吐いた。
ここ数年はようやくあの忌まわしい記憶を忘れかけていたというのに、最近になって再び悪夢を見るようになった。
(何故……今になってまた……?)
漠然とした不安を感じる。何かの変化の前触れなのか。自分はまた『鬼』と関わる事になるのではないか……そんな予感が日に日に増していた。
「……っ」
彼女は寝台の上で自分の身体をギュッと掻き抱く。それは恐怖故の動作であった。もしまた『鬼』の顔を見たら、果たして自分は
自問自答する彼女はしばらくの間、寝台の上から動けなかった……
****
レブラス森林地帯。トランキア州とフランカ州を東西に隔てる中間地点に存在する広大な森の総称だ。アマゾナスの樹海ほどではないが相当な広さの森林で、不用意に分け入れば容易く方向感覚を失い遭難する事になる。
この森が広がっている為トランキア州とフランカ州の行き来は専ら、森が途切れる北のケルチュとピュトロワを結ぶ街道を経由してという形となっている。
だが細々ながら森を横断するルートもごく少数存在している。獣道に近いような細い間道がいくつもまるで網の目のように森を横断しているのだ。
勿論正規の開発によって作られた道ではない。様々な理由で深い森に分け入る人間は後を絶たない。戦に敗れた落ち武者、犯罪によって官憲に追われる身となった者、禁制品を密輸する行商人の密輸ルート等々……。
いずれにせよまともな人間であれば迂回して北の街道を通っていくであろう、深い森の間道を遭難、獣や犯罪者との遭遇などの危険を冒してまで好んで通る者などまずいない。
そう……そこに分け入る
レブラスの森の間道を進む3人の人間がいた。生い茂った森の木々は日差しを遮り、日中にも関わらず間道は薄暗い日陰をあちこちに作っていた。
3人はそんな陰鬱とした森の間道には似つかわしくない華やかな容姿の……女性達であった。
「ふぅ……大分歩いてるけどまだ着かないのかしら? こんな森の只中に……まだ若い身空で世捨て人にでもなるつもりかしら?」
3人の内の1人が汗を拭いながら発言する。3人の中でも特に鬱蒼とした森に似つかわしくない、都会的で妖艶な美女……ヴィオレッタである。
「ねぇ、ヴィオレッタ……何もあなたが直接こんな所まで赴かなくても、私に任せてくれれば……」
そんな彼女に物憂げな視線を向けるのは……やはりある意味では木々の生い茂る森には似つかわしくない砂漠人の女性ファティマだ。
時に自らの足で情報収集を行う事も多い彼女はヴィオレッタに比べて悪路も歩き慣れており、まだ余裕はありそうでヴィオレッタに心配げな視線を向けるのも頷ける。
だがヴィオレッタは心配ないとばかりに手をヒラヒラと振る。
「大丈夫よ。
「まあ、確かにあなたが直接説得した方が確実ではあるでしょうけど……。こんな所じゃどんな危険があるか解らないし……」
このレブラスの森には危険な獣や野盗などが潜んでいる事もある。そんな心配にヴィオレッタは肩を竦める。
「それも大丈夫よ。だからこそ護衛としてキーアに同行してもらってるんだから。あなたならその辺の野盗なんか目じゃないわよね、キーア?」
水を向けられたもう1人の女性……キーアが頷いた。
「は、はい。お2人の身は私が絶対にお守りします」
確かに彼女であればそこいらの野盗や落ち武者程度なら問題なく撃退できる。ファティマは溜息を吐いて頭を掻いた。
「ハァ……解ったわ。でも、くれぐれも注意してね?」
「解ってるわよ、心配性ねぇ、もう」
それでも尚心配げなファティマの様子に苦笑するヴィオレッタ。だがファティマが心配するのも無理はない。ヴィオレッタは今やマリウス軍全体を統括する立場で、言ってみれば『要』とも言える存在。彼女に何かあれば国全体の一大事である。
戦争で敵と戦うのは軍師の立場上避けられないとしても、それ以外では出来れば危険に身を置いて欲しくないと思うのは、マリウス軍に所属する者からしてみれば当然であった。
だがヴィオレッタ自身が己の立場を自覚していないはずはない。その状況を解っていても、尚自分が直接出向く必要があったのだ。それだけの
ヴィオレッタはマリウス軍の中でも君主のマリウスを除けば誰よりも、現状の戦力に危機感を抱いていた。ただマリウス軍の性質上、戦力強化が容易ではない事も誰よりも良く理解していた。
その為情報収集の得意なファティマに依頼して、
集まる情報の殆どは一考にも値しないようなガセばかりだったが、一点だけヴィオレッタの注意を引いた情報があった。ファティマに頼んで更にその情報を細かく精査していった彼女は、自らが直接推挙に赴く事を決めた。その理由は……
「とても興味深いわね…………まさか、あのギュスタヴの
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