第八幕 オルタンス・アザール
それから一時間余……。一行は遂に目的の場所に到達していた。
「着いたわ……ここのはずよ」
ファティマの案内で辿り着いたその場所には、切り開かれた小さな敷地に庵のような建物が建っていた。周りは木ばかりだが庵や敷地は手入れされているようで、草木に浸食されてはいなかった。
敷地には小さな井戸、日照が少なくても育つ作物の畑。狩りで仕留めたと思われる草食動物の血抜きされて干された死体が吊るされている。どうやら自給自足に近い生活を送っているようだ。洗濯された衣類なども干されている。
「さて……居るといいけど。ここまで来て入れ違いというのは勘弁してほしいからね」
「大丈夫だと思うわ。集めた情報では殆ど庵に引き籠っていて、この敷地から出る事さえ稀らしいし」
ヴィオレッタの呟きに答えるファティマ。その割には人の気配がしないが、もしかしたら寝ているのかも知れない。
3人が敷地の中に踏み込み庵に近付こうとした時だった。
「……私に何か用?」
「――――っ!?」
突如真後ろ、至近距離で聞こえた声に3人はギョッとして振り向いた。誰一人その気配に気付かなかった。キーアですらもだ。
そこに1人の若い女性が佇んでいた。
背はかなり高い。恐らくアマゾナスの女戦士ジュナイナよりやや低いくらいで、体格も良かった。エロイーズと同じフランカ人らしい金髪はしかし無造作に伸ばされ背中に垂れていた。その手には動物の解体用だろうか、鉈のような刃物が握られている。
「い、いつの間に……!?」
キーアが冷や汗を掻いて呻く。文人肌のヴィオレッタ達は気配に気付かなかったのも仕方ないが、武官であり彼女達の護衛を任されているキーアとしてはそうも言っていられない。
武芸の腕は女性としては間違いなく強く、まともに戦えばソニアにだって負けないという密かな自信はあったし、不本意とはいえ元盗賊として気配を殺す術にも自信があった。それはつまり他人の気配を読む能力にも長けているという事だ。
そんな自分が格別油断していた訳でもないのに、完全に背後を取られても全く気付かなかったのだ。相手が同性なだけに、精神的な衝撃はより大きかった。
しかしその女性はそんなキーアの様子に無感動な視線を向け、手に持っていた鉈を見えるように動かす。
「……あなた方がここに近付いてきた時点から見張っていた。もし私がその気ならあなた方は全員死んでいた」
「くっ……!」
自身の動揺を見透かしたような追い討ちの言葉に、キーアは歯噛みして剣を抜いた。密かなプライドを傷つけられた屈辱とヴィオレッタ達を守らねばという使命感が合わさり、闘気となって放出される。
その闘気に反応して女性の方も鉈を持ち上げる。俄かに一触即発の空気に陥りかけるが――
「キーア、剣を下ろしなさい」
静かな声がその空気を破る。ヴィオレッタだ。
「ヴィ、ヴィオレッタ様……」
「戦えばあなたは確実に負けるわ。自分でも解っているでしょう?」
「……っ」
キーアは鎧を身に着け愛用の剣を抜いて臨戦態勢だ。対して女性の方は平服姿で武器も動物解体用の小さな鉈だけ。それでも尚キーアに勝ち目が無いとヴィオレッタは断じているのだ。そして彼女の言う通り、キーア自身が内心で勝ち目がない事を悟ってしまっていた。この条件下で、この一瞬の対峙の間で、だ。
それは……
「連れが失礼したわ。こちらにあなたと争う意思は一切ない事は保証するから、あなたもそれを下ろして貰えないかしら?」
キーアに剣を下ろさせたヴィオレッタが女性の方を向く。
「…………」
女性は特に警戒するでもなく無造作に鉈を下ろした。その無造作ぶりはある意味自信の表れと言えるだろうか。仮にヴィオレッタ達が害意を抱いていても簡単に返り討ちに出来るという自信の。
「ありがとう。私はトランキア州のセルビア公マリウスの配下ヴィオレッタ・アンチェロッティ。こう見えても軍師なの」
「……! マリウス……聞いた事はある。臣下が女性ばかりの変わり種の君主だと……。ディムロス伯と聞いていたけど……セルビア公?」
このような僻地で暮らしていたら情報が遅れるのは仕方ない事だ。むしろマリウスの事を知っていただけでも驚きだ。
「つい最近昇進したのよ。今日はあなたに話があって来たの。家に上がらせてもらう事は可能かしら?」
「……どうぞ」
客人を家に上げる事は案外すんなりと了承した。特に人嫌いという訳ではないらしい。にも関わらず若い身空で、こんな場所に1人で隠れ住んでいる理由は……
(ふむ……これはちょっと手間取るかも知れないわね)
女性の家に案内されながら、そんな確信を抱くヴィオレッタであった。
****
外見通りのこじんまりとした庵の居間で、ヴィオレッタ達3人と女性が向き合って座っていた。女性は自分から名乗る気配がなかったので、ヴィオレッタの方から確認する。
「話の前に……まず間違いないと思うけど、念の為確認させて。あなたの名前はオルタンス・
「ええ……」
女性――オルタンスはコクッと頷いた。まずそれを確認しないと始まらない。ヴィオレッタは早速本題を切り出した。
「先程言った通り、私はマリウス公に仕える軍師。今日はあなたを我が軍に勧誘する為にやってきたの」
「…………」
オルタンスは反応しない。庭でヴィオレッタが名乗った時点で用件は察していたのだろう。ヴィオレッタは構わず続ける。
「このキーアはこれでもかなりの使い手よ。彼女にも気配を悟らせなかったあなたの腕……こんな所で腐らせておくには余りにも惜しいわ。是非とも我が軍でその力を振るって欲しいの。勿論その腕に見合った待遇を約束するわ。月俸は3000ジューロから。どうかしら?」
3000ジューロといえば、中央寄りの物価が高めの州でも切り詰めれば2か月は暮らせる額。このトランキア州なら3か月は固い。推挙し立ての新任武将への俸禄としては文字通り破格の待遇だ。ヴィオレッタの本気度合いが窺える。ファティマとキーアが驚いて彼女を見ていた。
将兵の俸禄を決める権限はマリウスとエロイーズにあるのだが、マリウスであればオルタンスと直接会えば初任給3000ジューロでも安いとさえ言うだろうと確信していた。
問題はエロイーズの方で、あの会議以降なんとなく気まずくて互いに敬遠し合っている状況だが、そんな事を言っている場合ではないので何としても納得させるつもりだ。
そんなヴィオレッタの本気の申し入れに対してオルタンスは――
「……お断りします」
首を横に振った。3000ジューロでもまだ足りない、自分の腕をもっと高く売り込みたいから……ではない。待遇云々の問題ではない。ヴィオレッタは即座に見抜いた。というより最初から予想していた。
「……ここから出る事で
「――っ!?」
オルタンスが目を見開いた。彼女が初めて感情を露わにした瞬間だった。
「な、なぜ……」
「当然推挙に当たってこちらのファティマに色々調べてもらったわ。それだけじゃなくあなたの父親……ギュスタヴ・ボドワン・アザールは、私達にとっては相容れない敵の1人なの」
「……!!」
オルタンスは増々ギョッとしてヴィオレッタ達を見渡した。
「て、敵……父が? い、いえ、それは解る。でもそれなら何故私を……?」
娘であれば尚の事、父親の人となりを知っているのだろう。父親と誰かが敵対している事については疑問を抱いていない。
しかしそうなるとヴィオレッタ達にとって自分は『敵の娘』という事になる。何故そんな立場の自分を勧誘しようとしているのか……それが疑問なのだろう。
「……悪いけどあなたの
「……!」
何もかも見透かされている……。その衝撃にオルタンスが慄く。かつて同じような経験をしたキーアが若干居たたまれなそうに俯いた。
だが既に全部知られていると思う事で却って気が楽になったのか、取り繕う事無くヴィオレッタの言葉を認めるオルタンス。
「……あの男は母が私を生んでから子供が出来ない身体になった事を知ると、まだ幼かった私に狂ったように地獄の修行を科すようになった」
オルタンスは遠い過去を思い返すような目になる。だがその脳裏に浮かんでいるのは、決して懐かしい家族との団欒などではないだろう。マリウスやソニア達から聞いたギュスタヴの人となりを考えれば、それはただ一言『地獄』と形容するだけではとても足りない、恐ろしい過酷な日々であった事は想像に難くない。
「でも……私があの男の期待通り育たないと解ると、あいつは私を『失敗作』と呼ばわって何の躊躇いもなく殺そうとした!」
「……!」
今度はヴィオレッタ達が目を見開く番だった。流石にそこまでの内実は調査できなかったのだ。オルタンスの眦から涙が一筋零れ落ちた。
「その時、母が私を庇ってくれて……私は命からがら逃げ延びる事が出来たけど、代わりに母が奴に殺されてしまった!」
「……っ! く、狂ってる……」
キーアが青ざめて口を手で覆う。武人の父と病弱な母。そして娘の身ながら父親から武芸の手ほどきを受けて……と、字面だけであれば同じような環境だったキーア。だが父親との関係性は正反対と言って良いほど異なっている。自分の両親に置き換えて想像してしまったのだろう。
「私は奴が憎い……。逃げ延び隠れ住んだ後も、奴を殺す事だけを考え必死に自分を鍛え続けた。でも……でも、駄目! どうしても駄目なの! 奴と戦う……いえ、奴と再び会うと考えただけで手が、足が震えて……!」
オルタンスが両手で自分を搔き抱くようにする。それは恐怖から逃れるような仕草だった。
幼い頃からあのギュスタヴに虐待されて育ったのだ。ギュスタヴに対する恐怖は最早本能に根ざしたレベルなのかも知れない。彼女なりにそれを克服しようと努力したのだろう。だが結局それは失敗に終わった。
「……いつかは乗り越えなければならない物よ。私達ならその機会を提供できる。そして勿論その時あなたは1人じゃない。仲間があなたを援護するわ」
不用意な慰めの言葉は敢えて掛けない。彼女に必要なのはそれではない。だがオルタンスは激しくかぶりを振った。
「お願い……もう帰って。私には無理だから」
ここで余り追い詰めるのは得策ではない。ヴィオレッタは
「解ったわ。今日の所は帰るわ。でもこれだけは憶えておいて。時間だけでは解決しない物もある。
「……!」
オルタンスはピクッと震えたが、結局その場ではそれ以上反応する事はなかった……
****
「……ふむ。これはちょっと時間が掛かるかも知れないわねぇ」
レブラスの森の間道を帰りながら、ヴィオレッタが呟く。
「でも余り悠長な事もしてられないわよ? ガレス軍との戦も迫って来てるし、そんな時期に軍師たるあなたがそんな長期間、国を空けてもいられないでしょう?」
ファティマの諫言。それは事実であった。モルドバとの同盟交渉も含めてヴィオレッタが預かる案件は多岐に渡る。彼女が国を空ける期間が長引けば長引く程その
だがそれでも……
「解ってるわ。でも
「……! それは、まあ……」
ファティマもそれは認めざるを得ない。それも恐らくはキーアは勿論、ソニアも比較にならない強さだ。それはあのガレス軍の名だたる強者達とも互角に戦えるのではないか、と思わせる程のレベルで。
「彼女が我が軍に加わってくれれば、マリウスの抜けた穴を完全とは言えないまでも埋める事が出来る。その意味でこれは極めて重大な最優先任務なのよ」
「……あれ程の女剣士が野にいたなんてね」
ファティマが唸る。女性であれ程の使い手など、中原全体をくまなく捜しても他には絶対見つかるまいと断言できる。あれはギュスタヴの血と
「でもあなたの言う通り、余り時間を掛けていられないというのも事実よ。さりとてオルタンス自身の心の整理に任せていたら、1年も2年も掛かってしまいかねない。そしてそんな時間は私達には無い…………」
「ヴィオレッタ?」
ファティマの訝し気な声に、ヴィオレッタは妖しく微笑む。
「ええ、ごめんなさい。私にちょっと
そして3人はレブラスの森を抜けて馬に乗ると、一路ハルファルまで駆け去って行くのであった。
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