第三幕 新たなる絆(Ⅲ) ~老獪の狂翁ジェファス

 そして翌朝。


 昨日屋敷に戻ってからどうにか気持ちを落ち着けたアーデルハイドは、きっと誤解させてしまったと思い、落ち着いてミリアムと話をしようと登城したが、


「で、出ていった……だと!?」


 すぐにマリウスに執務室に呼ばれ、そこで驚愕の報せを受ける。マリウスは彼にしては珍しく苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。


「ああ、今朝看病役の女官が客室を覗いた時にはもう、もぬけの殻だったらしい。寝衣が丁寧に折り畳まれていたそうだ。恐らく昨夜の内に出ていったんだろうね」


「……ッ! な、何故だ……我等では頼りないと思われたのか!?」


 衝撃を受けたアーデルハイドは思わず声を荒げてマリウスに詰め寄る。


「落ち着いて、アーデルハイド。……畳まれた寝衣の上にこの書き置きが残っていた」


「……!」


 マリウスが差し出した羊皮紙を受け取ったアーデルハイドは、素早く書いてある内容に目を通す。そして読み終わるとワナワナと震えだした。それは……紛うことなき怒り・・の感情によるものであった。


「あの……馬鹿者め! 自分が償うなどと……! 一体いつ私が償いなど望んだ!?」


 羊皮紙を握りつぶしながら激情のままに叫ぶ。マリウスは難しい顔でかぶりを振った。


「ごめん。君の事情を話した僕の失敗だ。まさかこれ程思い詰めるなんて……」


 確かに律儀な性格だとは思っていたが、ここまでとは予想出来なかった。思い立ったらすぐに行動する猪突的な行動力もあるようだ。その素晴らしい直情さが悪い方向に働いてしまったケースだ。


「マリウス殿の責任ではない。あの子が馬鹿なのだ! 私の事情は、あの子には何の責も無い事であろう!?」


「本当にそうだね。……昨日エロイーズと少し話したんだけど、ミリアムの祖父について該当しそうな人物を知っていたよ」


 ジェファス・フェビル・ウィールクス。


 過去には帝国の高官だったのは確からしく、ミリアムの言っていた通り、二年ほど前にその内政の知識と老獪さをモルドバ公イゴールに買われ、彼のもとに転籍していた。


「そやつで間違いなさそうだな」


「ああ、モルドバまで行けば、屋敷の場所はすぐに解るだろう。……どうする?」


「決まっている! すぐに追いかけて連れ戻すのだ! 今ならまだ間に合うはずだ。そして目一杯叱ってやる!」


 アーデルハイドは即答した。ディムロスからモルドバまではそこまで離れていないが、それでも少女の脚では夜通し駆けたとしてもまだ到着していないだろう。


 だが余り悠長にしている時間がない事も確かだ。マリウスが再び頷いた。


「ふふ、そうこなくちゃね! 勿論僕も一緒に行くよ。僕のミスでもあるし、間違いなく例の刺客と対峙する事になるだろうからね」


「……!」

 あの刺客の事を完全に忘れていたアーデルハイドは、その存在を思い出して気を引き締めて頷いた。


「済まない、マリウス殿。心強い限りだ。では急ごう!」



 そして2人はヴィオレッタに事情を話して後事を任せると、彼女からは兵を連れて行くよう勧められたが、今回は潜入に近い形となるので余り大勢でゾロゾロ行動する訳には行かない。それに兵を連れて行くと領主のイゴール公を刺激してしまう可能性もあるので、今回は2人だけでの出立とさせてもらった。


 心配げなヴィオレッタとエロイーズに見送られて、マリウスとアーデルハイドの2人は馬に跨がり一路モルドバに向けて出発していった。



****



 トランキア州の州都モルドバ。


 南の辺境と言われる同州において、州都だけあり最も繁栄している都市であり、人口は約8万人に上ると言われている。ディムロスの現在の人口が1万人を少し超えた程度である事を考えると、その大きさが実感できる。


 尤も、例えばフランカ州の州都ヴィエンヌは約40万人と言われているので、いずれにせよ田舎、辺境である事に変わりはないのだが……


 現在は帝国から公の位と郡刺史の役職を賜っている、モルドバ公イゴール・エミル・グリンフェルドが治めている。


 イゴールは比較的野心の強い領主のようで、帝国の求心力低下に伴い乱世が来る事を見越して自身の軍団をいち早く確保し、また地盤強化の為の内政にも積極的だ。


 その為、主に帝国に仕えていた官吏から有能な人材に接触し、自身の幕下へと誘いを掛けていた。


 過去に帝国の内務要職を歴任したジェファス・フェビル・ウィールクスも、その誘いを受けてイゴール軍へと転籍した人物であった。


 ジェファスはその実績と能力からかなりの高待遇で引き抜かれたらしく、モルドバの一等地に大きな邸宅を構えていた。


 そのジェファスの屋敷に現在、意外な来客があった。



「ひょっひょっひょ……まさかお前の方から出向いてくるとはのぅ。どういう風の吹き回しじゃ?」


 ジェファスの私室。かなり広い間取りだが、今は部屋には小柄な2人の人物の姿だけがあった。即ち、屋敷の主たるジェファスと、その孫娘・・たるミリアムの2人だ。


 ジェファスは年齢相応に白くなった髪と髭、そして顔に刻まれた皺に老いを感じさせながらも、その目だけは炯々と輝いて、何とも言えぬ不均衡さを醸し出していた。


 それは一種異様な光景ではあった。


 祖父のジェファスは上質の絹服に身を包んでゆったりと大きな椅子に腰掛け、上等な酒の入った杯を片手にミリアムを睥睨している。


 対して孫娘のミリアムはまるで乞食同然の薄汚れたボロボロの姿で、腰掛ける席もなく立ったままであった。


 余りにも対極的な両者の姿。子や特に孫を慈しむのは帝国の、いや、人としての本能であるはずだった。しかしジェファスからは、その本能は欠片も感じ取る事は出来なかった。


 しかし祖父がどういう人物かを充分すぎる程に解っているミリアムは、特に違和感を覚える事もなく、その場で片膝を立てて礼の姿勢を取った。


「……お祖父じい様。私は父とは違います。父から逃げるように言われて無我夢中で逃げていましたが、そもそも私にはお祖父様を告発する気など無いのです」


 感情の籠もらない言葉。しかしジェファスは興味深そうに眉を上げる。ミリアムは機械的に言葉を続ける。


「いえ、それどころかむしろお祖父様に協力させて頂きたく思っています。それ故にこうして舞い戻った次第にございます」


「ほぉ……ミリアは父と違って賢いのぉ?」


 面白そうな表情のまま、孫娘を愛称で呼ばわるジェファス。白い髭を撫で付けて考え込むような仕草を取る。 


「ふむ……そういう事であれば、お前を許し迎え入れようではないか。これからは儂の為にしっかりと働くのじゃぞ?」


 孫娘に対して今までその生命を狙っていた事や、ミリアムの両親を殺害した事などに対する謝罪や後悔は一切なく、当たり前のようにそう命令してのけるジェファス。


 しかし祖父がどういう人物かを嫌という程に理解しているミリアムはそれに何ら不満な様子を見せる事もなく、深々と頭を下げる。


「勿論でございます。ありがとうございます、お祖父様。……ところでお祖父様に是非お見せしたい物があります。あのマリウスという太守の元から盗んできた物です」


「ほぉ……転んでも只では起きんという訳か。頼もしいのぉ。それで、一体何を盗ってきたというんじゃ?」


 ジェファスが興味深そうに身を乗り出す。手招きを受けてミリアムが立ち上がって祖父の前まで歩いてくる。そして……



「はい…………このでございますっ!」



 懐に隠し持っていた短剣を抜き放ち、一気にジェファスに突き掛かる!


 彼女が元々護身用に帯びていた小剣は、この屋敷に入る際に取り上げられるだろう事が解っていたので、ディムロスの宮城を抜け出す際に懐に隠し持っておけるサイズの短剣を一本失敬していたのであった。


 祖父には武芸の心得は無いはずだ。ここまで接近を許した時点でミリアムの暗殺計画は成功したも同然であった。


 彼女の脳裏に、驚愕に青ざめていたアーデルハイドの顔が過る。そしてマリウスから聞いた彼女の過去の話も……


(……今、全ての罪を贖います!)


 祖父を殺した後はそのまま自害するつもりだった。それで罪深い血筋は完全に絶たれる。文字通りの決死の一撃は、狙い過たずジェファスの胸に吸い込まれ――


「ふんっ!」

「……ッ!」


 ――る寸前で、ガキィッ! という金属音と共に無情にも阻まれた。思わぬ妨害にミリアムはたたらを踏んで後退する。


 驚愕に目を見開いた彼女の見据える先には……黒ずくめの衣装に、顔の下半分を覆う黒い覆面を被った男の姿が。その手には黒塗りの長刀が握られていた。それでミリアムの一撃を弾いたのだ。


「お、お前は……!?」


 ジェファスの命令でミリアムの両親を殺し、彼女自身も手に掛けようと追跡してきた恐ろしい暗殺者。


 一体いつ現れたのか、彼女には全く分からなかった。それほどの早業であった。


「ひょっひょっひょ……。こんな事じゃろうと思ったわい! 密かに護衛として忍ばせておいたんじゃよ」


 耳障りなジェファスの嘲笑。この老獪の策士には幼い少女の企みなど最初からお見通しであったのだ。解った上で敢えて遊んでいたのだ。


「そ、そんな……」


 ミリアムは絶望で目の前が真っ暗になる。この暗殺者の強さは身をもって知っていた。つまりこれでもう彼女が祖父を殺す事は不可能となった。いや、それどころか……


「ひょっひょっ……では、後は任せるぞ、タナトゥスよ」


「……ふっ!」

「……! うわぁっ!」


 暗殺者――タナトゥスが黒塗りの刃を一閃すると、ミリアムの手から短剣が一瞬で弾き飛ばされてしまった。彼女には剣閃も碌に見えない程の速さであった。


「あ……あぁ……」


 ミリアムはその勢いに押されるようにその場に尻餅を着いてしまう。終わりだ。祖父を暗殺するどころか、ただ自分が犬死するだけに終わった。


 余りの無念と悔しさ、そして恐怖に、ミリアムの眦から涙がこぼれ落ちる。


(ア、アーデルハイド様、申し訳ありませんでした。この上はせめて罪深い血筋の私が死ぬ事でせめてもの償いとさせて頂きます……)


 自分が死ねば、少なくとも血筋は途絶える。それくらいしか彼女には贖う方法が無かった。


 タナトゥスの刃が容赦なくミリアムを貫かんと迫る。彼女は観念して目を閉じた。そして……その音を聞いた。



 ――ヒュンッ!



 鋭い、矢の飛来音・・・・・


「む……!」


 タナトゥスは素早く見切って、その刃で矢を弾く。そして矢が飛んできた方向に注意を向ける。


「え……?」


 ミリアムもまた目を開けてその方向を振り向いた。そしてその目が驚愕に大きく見開かれる。信じられなかった。何故なら……彼女・・はここにいる事が絶対にあり得ない人物だったから……!



「ふぅ……間一髪だったな。あの時と同じだな」



 弓を放ると剣を抜いてミリアムとタナトゥスの間に割り込む人物。赤い髪に真紅の鎧を纏った麗武人。ディムロスでミリアムの命を救ってくれた人――


「ア、アーデルハイド、様……?」


 それは間違いなく、マリウス軍の女将軍アーデルハイド・ニーナ・ヴァイマールであった!

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