第2話 1年前:文化祭プロローグ

 赤とんぼが飛び、律のしらべを強く感じるようになった10月半ば、市立黒田中学校の校舎の3階にある3年2組の教室に、私と琴音はいた。

「ねぇ。折角の文化祭なんだし、琴音はなんかやりたいことないの?」

 琴音は窓際の1番後ろの座席で肘をついて外を眺めていた。

「ない」

そっけなく答える琴音に、私は苦笑いで返した。

「もう。朝から私の行きたいところしか行ってないじゃない」

 窓から見える運動場では、何やらイベントが行われている。どこの部活が主催しているか知らないけど、それなりに盛り上がっているのはわかる。

「それでいいわよ。私はこういうこと、楽しめない性格だし」

 つまらなそうに外を見つめる琴音を、私はつい揶揄いたくなってしまった。

「でも、文化祭なら琴音でも楽しめるでしょ?」

 琴音は肘をついたまま、目線だけこちらに向けた。

「琴音でもって、どういう意味かしら?」

 私はニヤニヤ笑いながら、琴音を揶揄った。

「学校のイベントといえば、体育祭か文化祭でしょ?

 琴音がどうして、体育祭を楽しめるのよ?」

「……確かに無理ね」

「今年の体育祭じゃ、入場行進の練習で骨折してたし」

 琴音は顔を赤らめながら、私を睨みつけた。

 琴音は普段、クールでなんでもひとりでできてしまう。成績は常に、全国トップクラスだし、ハーバードへの飛び級入学すら可能と専ら噂されている。

 しかし、運動となれば別の話で、バレーをやれば顔面レシーブは当たり前。バスケじゃ両手の指を全て突き指。走れば5歩でアキレス腱断裂と、運動音痴の極みにいる。スペランカーよりすぐゲームオーバーかもしれない。

「どうやったら入場行進で足捻って骨折できるの?奇跡?」

「……そんな昔の話は忘れたわ」

「都合のいい頭だね」

 琴音はひとつ咳払いをして、いつものクールな表情に戻った。

「で?人のことを挑発しておいて、何が言いたいのかしら?」

「琴音は何でもかんでも楽しめる性格じゃないんだから、楽しめそうなものは楽しんだら?って言いたい」

 琴音はクールな表情を崩さなかった。

「余計なお世話。私はここで、本でも読んで過ごすわ」

 そう言って琴音は、ポケットから『相対性理論』と書かれた文庫本を取り出した。このままじゃ、本気で琴音はここで一日中過ごすことになる。それはあまりに悲しいんじゃないか。

「じゃあさ、美術部行かない?絵好きでしょ?

 あれとかさ。あの、なんちゃらさんが描いた『難破船』って絵」

 琴音は呆れた顔で言った。

「ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーね」

「それ」

「確かに絵画は好きだけれど……」

「沙耶も絵を描いて売ってるはずだし」

 沙耶というのは、1年生の時にクラスメイトだった美術部の部長だ。琴音の数少ない友人のひとりでもある。

「そうだったわね。沙耶もいるなら、行きましょうか」

「やった」

 琴音は文庫本をポケットに仕舞い、やっと重い腰を上げた。

 小走りで美術室に向かおうとする私に、琴音が苦言を呈した。

「走らないでよ」

「はいはい。琴音が怪我したらいけないもんね」

「……お気遣いどうも」

 琴音はゆっくり席を立った。

「……雨が降り出したわね」

「え?」

 窓を見ると、小粒の雨がいくつか張り付いていた。全く、よく見ている。

「これくらいなら、傘もいらなそうだね」

「そうね」

 このくらいの雨なら、運動場でのイベントは中止しなくてもいいだろう。

 重たい雲をよそに、私たちの足取りは軽かった。

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