藍色とオレンジ

空付 碧

第1話

 僕が忘れていた事実を思い出したのは、とある水族館へいった時だ。

 僕は水族館が嫌いだった。暗い照明の中に、水槽が通路の両側で並んでいる。視界に入る水の割合が多くて、地上にいるというのにどこか息苦しい。人間が作った施設にも関わらず、陸上の生き物であることを責め立てられている気分になる。

 子どもが駆けて行った。右手に曲がった大水槽の方だ。僕は子どもの付き添いだったから、あとからついていった。一段と暗くなったあとから、ぬっと水槽が現れる。

 大水槽は夜空を抽出したような、濃くも静かな色をしていた。大型の魚類が自分が注目されていると感じずに優雅に泳いでいる。縦長い水槽の中にジンベイザメが二匹いた。

 僕は震えてしまった。僕の水族館嫌いの由来がジンベイザメだと思い出したのだ。

 僕は、夏にジンベイザメに飲まれそうになったことがあった。


 僕が学生時代に通った大学は、理科を全般に習う場所だった。植物の色の抽出や薬草学、細胞の働きの研究から水藻が与える水質環境の検査、鉱物の硬度の研究と火山活動の調査をし、天体観測と微生物の活動研究、畑での農作物の栽培、そして魚類の研究と飼育だった。

 僕は穀物を専門とした研究室に所属していた。試験管に、穀物の種子をすり潰したものと薬品を入れ加熱し、栄養素の含有量を書き込む作業が主だった。

「ミゾミくん。ちょっといいかな」

 研究室の教授に呼び出されて僕は一瞬息を飲んだ。呼び出しとは大抵、悪いことが多い。

「君は水産科の授業は取っていないのか?」

「はい、細胞生物学と薬草学を受けているだけです」

「君の成績だと、もう一つ授業を取っておいた方がいい。就職にも有利だし知識の幅も広がる」

「そうですか…?」

 受ける授業に制限はなかった。誰でも自由に好きな授業を受けていい。けれど僕はもともと植物にしか興味がなかった。これまで受けた授業もカエルの生体実験が精一杯だったのだ。

「もっと視野を広げなさい」

 僕はしぶしぶ頷いた。


 学舎は円柱形をしていた。

 真ん中に講堂を置き、周りにぐるりと研究室と教室が配置されている。螺旋状に上がっていく構造は、慣れるまでどこに目的地があるか混乱を招いた。

 水産科は2階と3階の北西に位置していた。ここは廊下にも水の入った水槽が並び、珍しい魚類から両生類の類まで多くの生き物を保持していた。

 一部は設備が整えられ、一般公開もしている。中でも北北西に位置する大水槽は圧巻だった。1階から3階まで階を全て使い、巨大水槽を埋め込んで大型の稚魚が飼育していた。あまりに高い壁が、この頃から少し怖かった。

 僕は餌入れのバケツを避けながら、水産特有の臭いを感じつつ教室を探していた。右へ行けばペンギンの声がし、左へ行けばヤドカリの貝が積んである。迷路のように先が読めない。


 僕は焦り始めた。そろそろ始業の鐘が鳴るのに、ちっともたどり着けないのだ。知り合いもいない学科で、僕は施設の見取り図を探す。学生の笑い声が追い打ちをかけた。

 ヤケになって歩いていた時、すれ違った学生とぶつかった。苛立つと余計なことしか起きない。僕は大きくよろけてしまい、立て直そうと足を下げた。

 ところが、あると思っていた地面が突然消えた。がくんと視界が下がり、驚きで息を吸った一瞬で空気が消える。ザバンと耳元で音がして、急な圧迫感が全身を襲った。

 溺れると思った。上へと踠くたびに気泡が浮かぶ。足がつかない、大きなプールだと認識した時、ひどく大きな藍色の巨体が目の前に見えた。

 肝が潰れた。食われると思った。現に、目の前の魚は黒い穴を開いていく。水流が前へと起こる。僕は吸い寄せられていき、さらにもがいた。酸素が足りない。死ぬのかと思った。


 そうだ、どうせ死ぬなら、こんな奇怪な死に方もありだ。ジンベイザメに飲まれて暗闇で終わるのも、ベッドの上で宙を見ているのもどちらも悪くない。ただずっと潮の匂いに包まれてるのは慣れるのかと不安にはなった。諦めて体の力が抜けた時、腕を掴まれてぐんと引き上げられた。

「何をやってるんですか」

 水を吐いて咳き込む僕に、学生が囲んでいる。

「夏休みのお子さんが見つけてくれたからよかったけど、非常識ですよ」

 担架が来るまで安静にしていなければならないらしい。どうして大水槽に落ちたのか、僕にも周囲の見ていた人間も分からなかったが、チクチクと説教は続く。

「魚たちもストレスがかかりましたし、死んだらあなたは責任が取れるんですか?」

 僕の死は僕が責任を取るのだろうか。僕は口が回らなかった。


「大丈夫ですよ」

 急に違う声がして、説教していた学生が見た先に、白髪に白いヒゲを蓄えた背広の似合う教授が立っていた。

 そうだ、僕はこの人の講義を受けるためにここで溺れ死にかけた。

「ジンベイザメは頭がいいので、貴方を飲み込む気はなかったでしょう。驚いて息を飲んだんですね」

「教授、それなら尚更ジンベイザメのケアを」

「大丈夫、そこまで弱くはないですよ」

 僕は薄くなる意識の中で思った。

 この人たちとは、もう二度と、関わりたくない。


「ミズ、おっきいさかな!!」

 僕は子どもの手を引いて、帰ろうと言った。

「まだクマノミ見てない」

「来週おじさんが来るから、また連れてきてもらいなさい」

「あのね、アザラシのご飯とかあるし」

「早くここから出たいんだ」

「どうしたの?暗いの怖いの?」

「そう。思い出したんだけど、僕は水族館より植物園の方が好きだったんだ」

 僕の訴えに気づいた子どもは、ぎゅっと手を握って出口を目指した。麦わら帽子を見ていると、少しは気が紛れた。


「じゃあしょうがないから、植物園行こうね」

「うん、でも、ちょっと休みたいな」

「入口に椅子があったよ。そこまで行こう」

 僕はあの時のように溺れかけていた。ぐらぐら頭が揺れて、ちゃんと歩けているかもわからない。

 来た道を迷いなく歩くずんずん歩く、子どもの手だけが頼りだった。徐々に明るくなっていき、角を曲がるとぱっと明るい光に包まれた。

 目が慣れる頃に、敷地一面に咲いた向日葵の黄色が飛び込んでくる。ザバンと、僕は輝かしい太陽に大きく息を吸いこんだ。

「お水買うね」

「ありがとう」

 キラキラと鬱蒼とした記憶が照らし出されて焼かれて消えていく。

 ベンチで息をついて、やっぱり僕はジンベイザメに飲まれて死ぬより、ひまわり畑に埋もれて死ぬほうがいいと、空を仰いだのだった。

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藍色とオレンジ 空付 碧 @learine

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