序章 ~08~

 彼は少年が手に持っている小さな布袋……トリシアの財布を簡単にうばうと彼を放した。少年は尻餅をついたが、素早く立ち上がって逃げていった。

「に、逃がしていいの!?」

「ん? 逃がしちゃダメだったか?」

 不思議そうにこちらを見てくるラグにトリシアは唖然あぜんとした。こういう時は役人やくにんに突き出すものではないのだろうか。

 子供でも、盗みを働くことは良いとはしていない。トリシアとて、気がとがめるが……だからといって見逃すのも違う気がする。

 ラグはトリシアのほうへと視線をり、きょとんとした表情で続けた。

「スリくらい、どこにでもいる」

「そ、そりゃ……そうかもだけど……」

「オレの財布を代わりにやっておいた」

「ええっ!」

 仰天ぎょうてんしてるトリシアに、ラグは首をかしげた。

「冗談だ」

「な、なんだ……冗談なのね。ラグならやりそうって思っちゃったわ……」

「まさか。そこまでしたら、あの子供のため、ならない」

 にっこりと微笑むラグはトリシアの荷物を軽々と奪って持ち上げた。

「あっ! な、なにを……!」

「持つ」

「いいです! 荷物持ちをさせるつもりはないから!」

「いい。今、とっても気分、いい」

 笑みを浮かべる彼は、ふいに真剣な表情になった。

「『水辺の花』とはここで契約破棄、するんだろう?」

「……そうなります」

「代わりにどこに頼む?」

「同じ賃金で、とりあえず帝都までの護衛をしてくれるところと交渉することになるでしょうね」

 帝都に着いて、改めてまた別の傭兵ギルドを探さねばならない。大きな商談になるから、さすがにこの街では無理だ。

「『渡り鳥』はどうなのですか?」

「さあ? みんな、勝手にやってる。協調性ないから」

 どうでもいいと言わんばかりのラグは歩き出した。そっと、いている片手でトリシアの手をつないだ。

 さりげない動作だったが、トリシアの鼓動こどうねた。なぜ、という思いで見上げると、彼は平然としている。

(あ……そっか。人込みだから、かしら)

 前を歩いてくれるラグは、人にぶつからないように配慮はいりょしてくれているのだろう。

 傭兵ギルド『渡り鳥』は確かに腕のいい者が集まるとは聞いたが、チームを組んで行動する、というのは聞いたことがない。ラグが一人でうろついているのを考えても、徒党を組みそうにはなかった。

(今頃、誰かがギルドの紹介者のところに行ってるんだろうけど……)

 ハプニングのせいで、買い物をほとんど一手に引き受けることになったわけだが、することもないのでべつにいい。

 通りかかった小さな教会を見て、トリシアは昔を思い出す。

 貧しい食事と、最低限に必要な寝床。たいしていい思い出などなかった。

 トリシアの視線に気づき、ラグはそちらを見た。

「イデムの教会か」

「聖女イデムのことは、セイオンでも有名ですか?」

 帝国のおもな宗教として広まっているイデム教ではあったが、セイオンという遠い島の民族たちはどう思っているのだろう?

 ラグは困ったような顔をする。

「全然知られてない。セイオン、古代神こだいしんまつる」

「古代神? イデムのように、実在した人物ではなく?」

 架空の存在をあがめるということが珍しく、トリシアはラグをのぞき込むようにして尋ねた。

 彼はびっくりしたようで頬を赤らめ、すぐに顔をらす。

「古代の戦いの神。セイオンの民、戦いの神ドュラハの末裔まつえいとされてる」

「神の、末裔?」

 そんな突拍子とっぴょうしもない!

 驚愕きょうがくするトリシアに、ラグは苦笑してみせた。

「この話すると、帝国人、みんな驚く」

「だって……えっと」

 困惑するトリシアに彼は笑う。

「認められてないから気にしない。そう言われてるだけ、島民は、それほど深く考えてない」

「そ、そうなの?」

「そう」

 うなずくラグが軽く手を引いた。いつの間にか止まっていた歩みを再開させた。


 のきつらねている屋台の通りを過ぎると、ちょうどなにやら人々が野次馬でもするように人垣ひとがきを作っていた。

「……なんでも帝都のすごい魔術師が……」

「いや、軍人のえらい方が退治に乗り出すとか」

 すごい魔術師や軍の偉い方、と聞くと、浮かぶのは一人しかいない。

「ラグ、そこから何か見える?」

 身長がそれほど高くないトリシアとは違い、長身のラグは平然と人波を見渡せる。彼は軽く背伸びをして「うーん」とうなった。

「軍人が歩いてる」

 そういえば、ぞろぞろと足音が聞こえている。トリシアはなんとか見ようと足の爪先を立ててみるが、無理だ。

 腰に手を回され、いきなり視界が高くなった。

「ほら、こうすれば見える」

「っ!」

 悲鳴をあげる間もなかった。

 ラグが軽々と、細身からは想像もつかない腕力でトリシアを横抱きにしたのだ。

(ひえええええええー! 恥ずかしいーっっ!)

 心の中で絶叫ぜっきょうをあげるトリシアを気にせず、ラグはあごしめす。渋々とそちらを見ると、帝国軍の軍装に身をかためた者たちがを囲んで行進していた。

 軍服の隙間すきまから見えるのは、揺れる水色の髪。……間違いない、中心にいるのはルキアだ。

「ルキア様……なにしてらっしゃるのかしら……」

「立ち寄ったと報告しに行くだけと言っていた」

「ああ、帝都に着くまでは何度か連絡を入れて安否を知らせないといけないわよね、ルキア様くらいになると。

 でも……なんだか物々しい雰囲気だわ」

 まるで何かの任務でも与えられたかのような……仰々ぎょうぎょうしい空気だ。

「ルキアが全然見えない」

 不満そうに言うラグに、「降ろして……」と小さく懇願こんがんすると彼はすぐに降ろしてくれた。

「あとでルキアにいてみよう」

 な? というような口調で言われても、トリシアは黙ったままだった。そもそも、ただの添乗員の自分では彼の力になれるとは思えない。

「ラグ殿なら、お力になることも可能でしょうけど、私には無理です」

 はっきりとそう、目を見て言うと、ラグはちょっと驚いたように目を見開いた。

「…………」

「ラグ殿、私は一介の添乗員です。ですから」

「口調、それ、ダメ」

 眉間みけんしわを寄せて、彼はぐっと顔を近づけてくる。背が高いので、まるで上からおおいかぶさるような錯覚さっかくを得た。

(ち、近い近い近いーっっ!)

 顔が熱くなるのを感じるが、唇をぐっと引きむすんで後退こうたいしないようにと踏ん張った。

「さっきの、戻す」

「さっき……?」

くだけてたほうがオレ、しゃべりやすい」

 そういえば口調が普段のものになっていたような気が……。

 青くなるトリシアとは正反対に、ラグは荷物を器用に持って軽く不貞腐ふてくされたような顔つきになる。

「年齢、同じくらい。丁寧にしゃべられると、なんか変」

「そ、そんなこと言われましても……」

「も・ど・す!」

「わ、わかりました! いえ、わかったわ! だからあんまり近づかないで!」

 とうとうこらえきれなくなって、ラグの胸元を両手で思いっきり押した。彼はすぐに引いてくれてにこやかに微笑む。さわやかすぎてのろいたい。

 ぜぇはぁ言いながら荒い呼吸を繰り返すトリシアは、大きく溜息ためいきをついた。

「人前ではしないわよ。いい?」

「なぜだ」

「あのね! ラグと私は店員と客っていう関係なの! 友達じゃないんだから、無理に決まってるでしょ!」

「だったら友達になればいい!」

 名案! と言わんばかりに顔を輝かせるものだから、トリシアはこめかみに青筋を浮かばせて思いっきり彼の足を踏んだ。

「痛い」

「無茶言わないで!」

「無茶? そう、なのか?」

 わからないようで彼は困惑している。頭が弱いのだろうかとトリシアはしぶい顔つきになった。

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