2021.4.1~2021.4.15

 夜遅かったけど、声が聴きたくて彼女に電話した。しばらく空いて、彼女が出る。

「ごめん、寝てたよね」

「どしたの?」

「いや、声が――」

 呼吸に混じって、聴こえた。

 声が。

「誰かいるの?」

「ううん、独りだよ」

 日付が変わった。今日だけは嘘が許される。僕は咎める言葉を無くした。

(2021.4.1)



 崩壊した学級に秩序を取り戻したのは、一人の新任教師だった。親身になって、加害者と被害者の間を取りなした。周囲は賛辞を送ったが、教師は浮かない顔だ。

「私は昔、いじめに加担したことがあるんです。だから何が気にくわないかよく分かるんですよ」

 そう言って、羞恥に頬を染めた。

(2021.4.2)



 花は美しく咲くために生きるのか。そうではない。一途に生きる姿を、我々が美しいと捉えているに過ぎない。人間は花のようには生きられない。知恵を獲得し、回り道をしながら生きる愉しさを知ってしまったからだ。一途に生きるは茨の道だ。「美しい」には、畏れと敬いもあるに違いない。

(2021.4.3)



 手段を選ばなければ金儲けは容易い。そこに道徳を持ち込むのは要らぬ枷のように見えるかもしれない。しかし個々の接触が避けられ、二次元的な交流に頼らざるをえない今、心の無い言動は必ず露見し衰退する。他者のための経済活動―この時代に渋沢翁が見直されるのも必然であると思うのだ。

(2021.4.4)



 ノンフィクションライター、宇佐見うさみ祐一ゆういちの文章は「切れば血が出る」と評される。綿密な取材に裏付けられた描写は圧倒的迫力で読者の眼に迫る。しかし、彼はわきまえている。どんな事実も文字にした瞬間に嘘になることを。だから彼は躊躇わない。事実より真実を伝えるために嘘を書くのだ。

(2021.4.5)



 惨めだった。この女、揉んでも突いてもどうにもならない。無表情無反応、欲情を拒絶して凍っている。まるで人形を抱いているようだ。いや、人形でもまだ温くなるだろうに。沈む気持ちに反して昇りつめる。堪えきれず盛大にぶちまけた。女は無造作に拭って手を出す。紙の札が今日は重い。

(2021.4.6)



 市の図書館、自習室のいちばん奥にある机。その片隅に相合い傘が一本描かれている。右側に『つばさ』、左側には……誰の名もない。書かなかったのか、書けなかったのか。真相は『つばさ』のみぞ知る、だ。物語は紙の中だけにあるのではない。物語は日常の中に、種のように眠っているのだ。

(2021.4.7)



 真夜中の住宅街、その中に街灯で切り抜かれた一角。私はそこに立ち、ひとつ息を吐くと、社会の窓を解き放った。四月の風があらわになった股間を撫でゆき、圧倒的な快感に痺れる……。

 と、夜がしゅっと伸び、股間を一閃した。

 それが黒猫のひと掻きだと認めたとき、私は意識を失っていた。

(2021.4.8)



 やりたいことはこれといってない。やれることも大してない。そんな私は川面に浮いた木の葉のように、岩に打たれ渦に揉まれ、苦しみに甘んじながら裏に表に流れていく。だが木の葉ならば、いつかは海にたどり着く。輝きに満ちた世界を見ることができる。

 私はどうか。

 海など、見えない。

(2021.4.9)



 昔付き合っていた彼女は、コーヒーにミルクと砂糖が欠かせなかった。ブラック派のぼくとは対照的だった。昼下がり、向かい合ってカップを傾けた日々が懐かしい。別れることにはなったけど、違いを認め合えたのは彼女だけだった。色褪せていく思い出の中で、白と黒が鮮やかに揺れている。

(2021.4.10)



 バットを握る手が熱い。対戦相手は2年目のルーキーだ。荒いが、いい玉を投げる。大舞台の緊張をものともしていない。入団したての頃を思い出す。まぶしいのは、西日だけのせいではない。

 ピッチャーが振りかぶる。

(来い、若いの)

 私は身を引き絞る。

 ボールが疾る。

 バットが迎え撃つ。

(2021.4.11)



「元気そうだな」

 バカルディは椅子に腰を下ろした。私立探偵もずいぶんと様になった。落ちぶれた俺とは違う。

「何の用だ」

「“トレス・ロネス”が動いてる」

 身が強ばる。三杯のラム――裏社会を牛耳る重鎮ども。そして妻の仇。

「力を貸してくれ、レモンハート」

 燻っていた火が再び熾る。

(2021.4.12)



 ある日、画家は行き倒れの老人を助けた。礼を言った老人は、

「実は、わしは神でな」

 驚く画家に、神さまは一本の筆を渡した。

「それで描いたものは何でも実物になる。大金持ちも夢ではないぞ」

 神さまは消えた。画家は喜ぶどころか、落胆の表情。

「私は模写がいちばん苦手なんだよ……」

(2021.4.13)



 社内に根付いた風土を変えようと奮戦する。そこに水を差すのは中堅以上の社員たち。清き水に魚住まず、清濁合わせ飲むのも政治だと言う。なるほどそれもまた真実。だが水が汚いと指摘されたとき、掃除をするのはお前らではない。責任を取らないなら黙ってろ。私はきれいな水に生きたい。

(2021.4.14)



 近所では有名な“風船おじさん”。毎朝、海岸で手紙を結んだ風船を飛ばしている。

「ときどき返事が来るんだよ」

 見せられた紙切れには、ぐちゃぐちゃの線が書かれていた。

 しばらくして、おじさんは溺死体で発見された。足には手紙が結ばれていた。そこにはひと言、

『いまからいきます』

(2021.4.15)

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