2020.8.1~2020.8.15

 ポロシャツ。腕時計。チノパン。サンダル。いくら思い返しても、浮かぶのはあなたの部分だけ。それだってもしかしたら、違う誰かの部分かもしれないのだ。どうして、簡単に好きだった人を忘れてしまうんだろう。新たな恋を探せという遺伝子のおせっかいならば、人間なんてくそくらえだ。

(2020.8.1)



 帰宅中の路上。息苦しさにマスクをずらしたら、鼻先を潮の香りがかすめた。驚き、とまどう。黄昏時に海風が過ぎるのは、この街に暮らしていれば当たり前のことだったのに。新しい日常に上書きされて、ぼくたちはいろいろなものを忘れていく。だけど布一枚外せば戻れる場所。ときどきは。

(2020.8.2)



 甘く入ったストレートをバットが捉え、快音一閃、ゆるい弧を描きながらスタンドへ――そこで飛び起きる。息は乱れ、脂汗にまみれて、左手は逃げ出さんばかりに震えている。独りの部屋を見回して、あるはずのない視線に怯える。情けなさに咽び泣く。見ろ、これがエースといわれる男の真実だ。

(2020.8.3)



「ひまわりのおじちゃん」

 何度注意しても、息子はその呼び方をやめようとしない。散歩道の立ち枯れた向日葵。大人の男ほどの背丈で、首が折れているかのようなシルエットは不気味だ。顔を伏せ足早に過ぎる。息子は私の手を引き、

「おじちゃん、こっち見てるよ」

 振り向く。

 目が合う。

(2020.8.4)



『きょうもあつかったのでおうちですごしました』


 またひとつ一日を複製する。繰り返される展開は果てがないようでいて、夏休みは刻々と消費されていく。早々に枯れた朝顔は恨めしげに床を這っている。ささやかな才能を発揮して、四角い枠に斜線を引き、ベランダなどとうそぶいてみる。

(2020.8.5)



 人が紙で細工する術を身につけてから、どれほどの折り鶴が生まれたのだろう。その小さな羽根に平和という名の重石を結ばれ、飛び立っていった彼らの行く末を誰も知らない。いつになったら警鐘に耳を傾けるのだ?我らが地獄で焼かれるとしたら、その炎は折り鶴の怨嗟に他ならないだろう。

(2020.8.6)



 ナンパ野郎があまりにウザかったので、蹴り上げたら動かなくなった。唖然とする客を尻目に勘定を済ませ、店を出る。せっかくのティータイムが台無しだ。右足に残る感触も不快だし。無視してんだから脈ないのさっさと気づけよ。てかそれ以前に、女口説くんだったら歯ぐらい磨いてこいや。

(2020.8.7)



 性懲りもなく、きみはウォッカマティーニを注文する。このあいだも大変な思いをしたっていうのに。

「大人の女なら、これくらい飲めなくちゃ」

 言いながら、もう目がとろけ始めている。あきれつつも、オリーブにキレのある口づけは嫌いじゃなくて、ぼくはきみの好きなようにさせるのだ。

(2020.8.8)



 夕立があがったから、声を聴きたくなった――「なにそれ」ってきみは笑う。ごもっとも。だけど口実がないと電話もできない臆病者なんだ。なんなら蚊に刺されたからとかでもいいけど、少しはカッコつけたいじゃないか。さあ、気をゆるめるなよ。一秒でも長く、この電話を引き延ばさなくちゃ。

(2020.8.9)



「先生、なんで鼻毛抜いたら抜いたほうの目から涙が出るんだ?」

 童の質問、言葉につまる。苦心の末に、

「遥か昔、人の身体は右と左に別れておった。それを繋げたとき、鼻毛だけを忘れていたのだよ」

 数日後。

「く、公方様からお呼び出し?」

「はい、鼻毛の話をお聞きになりたいと……」

(2020.8.10)



 衛生写真で見つけた、山中のいわくありげな古寺。興味本位で忍び込んだが特に何もない。落胆して山を降りると道の様子が違う。スマホも圏外、泣きながらようやく人に出会うも話が噛み合わない。

 その時、不気味なサイレンが。

「な、何ですか」

「何って空襲警報やがな。早う逃げんと……」

(2020.8.11)



 雨上がりの、雲ひとつない空を見上げて、胸の中に冷や汗をかく。青、この青が、深い深い青が、ぐっと目に迫ってくる。恐い――思わず顔を伏せる。天が落ちると騒いだ古の愚者を笑うことはできない。ゆるゆると顔を上げ、東から雲の一群が渡るのを見て、ほっと息をつく。空は、美しく見える。

(2020.8.12)



 あなたのくちびるはいつも煙草の味がした。何度もやめるように言ったのに、「やだよ」って笑っていた。言うことを聞かないからこうなるんだ。黒い額縁に閉じ込められて、あなたは永遠にあのときのまま。忘れてなんかやるもんか。私は慣れた手つきで煙草に――あなたのくちびるに火を点ける。

(2020.8.13)



 帰省した際は、必ず幸雄と酒を飲むことにしている。無口な男で、ただ一人故郷を離れていない旧友だ。彼と過ごす時間は沈黙に満ちている。まるで将棋でも指すように、ひとつひとつ言葉が動かされていく。これがたまらなく心地よい。私は都会暮らしの息苦しさを忘れ、穏やかに杯を重ねる。

(2020.8.14)



 深い海の底で、一本の錆び付いたねじがまどろんでいる。ふと、蘇る記憶―ラジオだった自身から流れる声を前に、大勢の大人がうなだれる姿。一様に涙し歯噛みするなか、子供たちは虚ろな眼を空に向けていた。彼らも、大人になったのだろうか…ねじの時は過ぎゆく。戦争も平和も知らぬまま。

(2020.8.15)

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