第19話


 ほとんど毎日一時間程をステラで過ごすようになると、いかんせん一緒に暮らしてる親には訝られるもので。残業と言ってる割りに給与明細に変わりもないから当然なんだけど、毎日のお土産がうまい棒になってる私に、お母さんは訊ねた。

「香苗、本当に残業?」

「ぇあ」

「誰かと会ったりしてるんじゃなくて? もしくは、どこかで勉強してるんじゃなくて?」

「えーと」

 勉強はちょっとだけしてるけれど、基本的には酔っぱらったお爺ちゃん達とあれこれ話し合いながらげらげら笑っているだけだ。お爺ちゃん達に会ってる、って言っても通じないだろうし、ステラのことなんて話せもしない。別に口止めされてる訳じゃないけど、なんとなく秘密にしておきたい所なのだ、あの場所は。でもどうしたら納得されるだろう。じっと上目に見詰めて来るお母さんの背丈は、テルと同じぐらいで私よりちょっと低い。テル。そうだ。

「テルの所に寄って勉強してるんだ。結局二人で遊ぶ話になっちゃうばかりなんだけど」

 嘘とも本当とも言えないことを言ってみれば、お母さんはあからさまにほっとした顔になる。テルの人畜無害さを、トワにも少し分けて欲しいとひっそり思った。まず着流し止めろ。似合ってないから。最近は冷えて来たから綿入れ羽織まで着てて、ほんとどっかのご隠居スタイルなんだから。金髪碧眼には全然に似合わない。でも最初よりは見慣れたな。多分私が合う色をびしびし指導してる所為――とは、自惚れだな。金髪には濃い色の羽織が似合う。メリハリがバキッとして。

「テルちゃんなら安心ね、駄菓子屋さんのお座敷?」

「う、うん。あとテルの仕事先とか」

「テルちゃんお仕事してるの? 何してるのかしら」

「バーテンさん。私より年上だから、お酒も詳しいんだよ」

「あらあら」

 お母さんが口元を押さえる。

「お父さんに言わなくて良かったわね、それ」

 うちの父は結構な酒飲みである。自分でカクテルも作るくらいだ。マドラー止まりでシェイカー振る所まで行ってないのが幸いだけど。趣味にとどめておいて。定年になったら打ち込んで良いから今は趣味で。


 カクテルかあ。私も色々調べてみたら面白いかもしれないなあ。でも他人の夢に引きずられるようではいけない。私はトラック野郎になるのだ。若いうちにしか働けなさそうだから、予備知識としてテルにお酒のことも訊いてみようかな、なんてお父さんを思い出しながら思う。二人で通ったらさすがに迷惑だろうな。その前にお父さん連れてく気無いしな。

 お母さんは料理がちょと下手だけど、お父さんは酔うのがちょっと下手なのだ。泣き上戸って言うか、いつもお兄ちゃんの写真を持ち出してくる。一緒に飲みたかったなあ、なんて話しかけながら。それから決まって私に言うのだ、お前は絶対にお父さんとお酒飲むんだぞ。この前一人でカルーア飲んじゃったけど、まあノーカンだろう。ノーカン。うん。犯罪は露見しなければ犯罪じゃないって言うし。うん。お父さん警官なんだけどね。


 十九歳はまだ夢が溢れるお年頃だ。トラック野郎になるのも良いし、バーテンになるのも良い。貯金は順調に貯まってるから、何に使うかはまだまだ未知数だ。それが気持ち良くて、私はバスルームで伸びをする。屈んだような前傾姿勢でバイクに乗っているから背筋を伸ばすのは気持ち良かった。そして鏡を見る。左胸をちょっと持ち上げて、自分の星を見てみる。小さく刻まれた、私の星。テルのことが好き、メルクのことが好き、トワのことが好き。囲碁さんが好き、因数分解さんが好き、ピクロスさん達が好き。ちかっちかっと光るけれど、やっはり一番強く輝いたのは、トワだった。

 トワが好き。

 夢見る十九歳の、唯一の不毛と言って良いだろう。


 自覚したのは多分メルクとテルがケンカした時だろう。レヴィのことを思う悲痛な眼差しが、胸を刺した。そして私は思ってしまった。自分もこんな痛みになりたい。置いて行かれるのが嫌だ。置いて行く方が気が楽だ。こんなに愛してもらえるならと。

 勿論口に出してはいけないことだと解っているし、そんな自分にちょっと自己嫌悪もあるけれど、でも私はこの人の引っ掻き傷にでも良い、なりたいと願ってしまった。実際キスまでしてるんだから、そんなこと考えたって良いだろう。好きになって欲しいとは願わない。ただ覚えていて欲しい。不毛だけど、そうでいたい。この人の中に居たい。あの時テルが出て来なかったら私の方がトワを抱き締めてしまっていたかもしれない。不毛だ。本当、不毛だ。だけどそうなっちゃったんだから仕方ない。こうなっちゃったんだから仕方ない。私は、好きだ。トワが、保志エトワールが、好きだ。星の観測者。この宇宙と共に生きる彼。こめかみの星を胸に付けられた時のどきどきした感じは、まだ覚えてる。多分トワも気付いているだろう。だから、でも、言っちゃいけない。現しちゃいけない。

 不毛すぎて切なくなるけれど、でも私はトワのことが好きなのだ。保志エトワールのことが好き。ちかちか光る胸の星に賭けて真実だろう、この感情は。本当、どうしたら報われるのかってぐらい。それは多分ステラに行かなくなれば良いだけなんだろうけれど、後悔をしたくない私はどうしても向こうに遊びに行ってしまう。いつかトワへの恋心も後悔になるのだろうか。それを考えると憂鬱だ。いつか素敵な恋が現れるとしても、トワを思い出すことは止めないだろう。かと言って好きですと言うのも違う気がする。黙って擦れ違って行くのが多分一番良い、たった一つの冴えたやり方って奴だ。悲しいけれど虚しいけれど切ないけれど悔しいけれど、それが一番。


 まあそれは、私がトラック野郎になってからだろう。或いはお祖母ちゃんのいる田舎のコンバイン乘りになってから。ステラから離れてしまう、いつか。すてらから離れてしまう、いつか。それまでは大丈夫だろう、結構余裕があるみたいなことをトワも言っていたし。結局トワの言葉頼りなのが、我ながら情けなくもあるけれど。

 シャワーで身体を流してもう一度湯船に浸かる。ほ、と温まるのは最近は冷えてきたせいだろう。ジャケット出しておかないとな、冬物。最近流石に走ってても寒いものを感じるようになって来たし。お酒飲めばあったかくなるかな。以前貰った大量のリキュール小瓶を思い出し、ダメダメ、と纏めた髪が重い頭を振る。あんなの持ってるって知れたらお母さんに怒られるしお父さんに没収されるだろう。でも夜の晩酌に一杯ぐらい飲んでほこほこして寝るのは魅力だなあ。ぼーんやり考えていると、いつまで入ってるの、とお母さんの声がする。しまったのぼせ掛けていた。ざばっと身体を起こして、もう一度鏡に向き直り、星を確認する。

 別にすてらから離れたって金平糖さえあれば向こうに行けちゃうんだよなあ。となると、意味も何もない。出口も変えられるんだろう、メルクがやって見せてくれたように。となると本当、結局自分次第なんだなあと思わざるを得なくて、その自分の優柔不断さに呆れかえるばかりだった。本当。私って奴は、あきらめが悪い。アムール。愛の言霊を持った、まだ食べていないあの金平糖は、暫く封印しておこう。ある意味お酒たちよりも、厳重に。アソートはお守り、白は勉強のおつまみで良いか。誠実。何かの役に立つかもしれないし。引っ掛け問題に引っ掛からなくなるとか。そうなったら良いのにな、なんて口笛を即興で吹きながら、私はスキンケアしてドライヤーで髪を乾かした。お肌の張りは大事です。乙女ですもの。言ったらトワは腹抱えて笑うだろうけれど。メルクですら視線を逸らすだろうけれど。テルだけはそうですよねって言ってくれると思う。信じてるぜ、女の友情。


 夕飯の片付けを終えて二階の自室に戻ると、明かりがついていた。おかしいな、と思ってドアを開けると、ベッドにお母さんが寝そべって私の好きな推理小説を読んでいる。その傍らには――

「あーッ!」

 思わず声を上げてしまう。

 お母さんがつまんでいたのは、ピンクの金平糖だった。

「お母さん! 人の部屋に入らない、ベッドは乱さない、食べながら人の本読まない! って言うか人のお菓子食べない!」

「良いじゃない金平糖一袋ぐらい。しっかし美味しいわね、駄菓子屋の?」

「そうだけど! 良くないの、それは! 大事に取ってたんだから!」

「良いじゃない一つぐらいー」

「良くないから怒ってるの、もー!」

 次に行った時にもう一回頼まなきゃ。ざー、っと口の中に全部突っ込んで証拠隠滅を図る母の歯など欠けてしまえ。思いながら仕方なく白いのを口に放り込んで、教本を写すことにする。

 もう、ほんとデリカシーなくて信じらんないよ、うちのおかーさんはっ!

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