第6話


 心で考えるのが胸に星のある人間だと言っていた。心で考える。普通考えるのは頭だろう、だから珍しい星と言われたんだろうか、最初の頃に。あまり嬉しくない賛美だ。大体私の自己認識では考えてるのはやっぱり頭脳である。お祖父ちゃんとネット越しで囲碁を打ってからさあ眠ろうと思っていると、浮かぶのはトワの顔だった。これは頭だろうか心だろうか、考えてまあどっちでも良いかと考える。コーラ味のキス。試しに取っておいたガムであまり噛まずにいると、いつもみたいにゴムっぽくならず、薄い膜がぷわーっと出来た。初めてのフーセンガムを実地で教えられたら、もうあそこでガムは買えないなと思う。だって。それは。恥ずかしい。ぐぬぬ。

 そんな風に浮かれていたのか沈んでいたのか解らないまま時は流れて、次の日は流石にまっすぐ帰った。

 そして私は、驚愕に襲われる。

 もう走らないと言われていたお兄ちゃんのバイクが、無い。

「おかーさん!」

 思わず玄関から母を呼び出すと、ばつのわるい顔でお父さんと一緒に出て来るのが見えた。共犯か。

「お兄ちゃんのバイクは!? どこやったの、教えて!」

「粗大ごみ回収に出したのよ。いつまでもああしているんじゃあなたにも悪いんじゃないかって」

「悪いって何が!? お兄ちゃんの形見だよ、悪いわけないじゃん! なんでこんなことしたの、私があれ大事にしてたの知ってたでしょう!?」

「だからだ」

「お父さん!?」

「いつまでも死人に引きずられてちゃならん。あいつは死んだんだ、どこにもいない。だったらバイクだっていらないだろう」

 私はフルフェイスのヘルメットをお父さんに投げつける。

 それから。

 予備のハーフヘルメットで向かった先は、すてらだった。

 自分でも解らないけれど、そこしか思いつかなかった。

 それは心で考えている、と言われても仕方ない衝動だった。

「カナちゃん?」

 いつもと違うモンキーで、同色のハーフヘルメットでやってきた私に、トワはちょっと驚いた風だった。髪だって走ってる間にゴムが外れたのかバサバサになっている。相変わらず客のない駄菓子屋、私は番台のトワの胸ぐらをつかんだ。

「カナちゃんっ」

 そして。

 そこに顔をうずめて、思いっきり泣いた。

「うわああああああああああああ!! わあ、ああああああああああああああああああ!」

「カナちゃん、」

「ひっああ……うああん……ああああ、あああああああああああー……」

 泣いても笑ってもゴミに出されてしまっては戻って来ない。エンジンを代えればまだ走れる、そう思ってずっと大事にしてきた宝物の当然の消失は、私にとって心が抉られるようだった。星が痛い。やっぱりこれは胸で考えてるからだろうか。痛い。痛いよ、助けてよ。お願いだから返してよ。あのバイクがあるだけで、元気になれたんだ。凹んだらまたがってみたり、磨いて綺麗にしたり、コレクションみたいな気分で取って置いてただけじゃないか。なんでそんなに邪険にするの。お父さんたちも、私に夢がないって思ってたの?

 良いじゃないか、まだ子供でも。夢を見るのが子供の仕事とはいえ焼かれて砕かれて骨になった人を蘇らせることはできないんだから。お兄ちゃんがまだ生きてる夢を見たって、良いじゃないか。

 トワは番台からじりじり動いて、私を抱き締められる位置に誘導する。それからひょいとあの細っこい腕で私をお姫様抱っこにして、襖に向かった。

 広がっていたのは、ちょっと久しぶりのステラの街。

 いつものバルのドアを器用に足で開けて、中にいるのは顔なじみになったお爺ちゃん達だ。そして彼らは一様にふごぉっと飲んでいたものを吹く。それをメルクが間髪入れず拭いて行く。

「トワが……トワが嬢ちゃんを」

「あのトワが!」

「嬢ちゃん泣き崩れとるぞ、何かされたのか、トワに!」

 ひそひそ話、増やされたカウンターの椅子、腰掛けて出されたのはコーヒーミルク。心配そうだけど口には出さないテルが愛おしい。異世界に連れてきてそのショックで何があったかを話させようとするトワの気遣いがくすぐったい。カプレーゼを出してくれたメルクが、嬉しい。

 こくんっと甘いコーヒー牛乳を飲むと、トワがほっとしたような顔を見せた。いきなり泣き付かれたら驚きもするか。悪いことしちゃったな。でも謝らない、今は。

「……お兄ちゃんの、バイク、捨てられたんです」

「お兄さん?」

「四年前にチキンランに負けて死にました」

「それは――」

「それでも取っておいたバイクだったんです。それを、父さんたちが、勝手にッ……」

 また、じわ、と涙が出ると、トワが私の目頭をぎゅっと握った。鼻の方に涙が流れて。紙ナプキンで慌てて鼻の下を抑える。おちょくってんのか。こっちは真面目に話してんだぞ。

 それとも単に涙が見たくないだけなのか。

 解らないけれど、ちょっとその行為は私を冷静にさせた。

「パーツを代えれば走れるから、ってずっと取っておいたんです。エンジンやその他の錆び付いた部分さえ変えればって。なのに、なのにっ」

「カナちゃん、ちょっと聞くけれど」

「はい」

「カナちゃんってお給料何に使ってたの?」

「へ?」

 唐突にぐりんっと質問の方向を代えられて、わたしはきょとんとする。

 でもトワは至極真面目な顔をしていた。

「歩合制だけど基本が十八万ぐらいで……十万家に入れて……二万ケータイに使って……残りの六万は貯金を」

「バイクはオーバーホールするつもりで、貯金をしてたのかな?」

「はい……」

「それをご両親は、知っていた?」

 言ったことはない。堅実な貯蓄は良いことだと褒められた程度だ。もし知っていたら、こんなことしなかったんだろうか。とうにしても過去は変わらないから、どうしようもないけれど。

「大事なことは言わなきゃ伝わらないよ、カナちゃん。お兄さんのバイクだから大事にしていた、それは代替行為で代償行為で代替好意に見られていたた可能性も高い。振り向くことばかりしていたと思われても仕方ない。違うって示さなきゃならなかったんだ、君は。いつかそのバイクと走るつもりだったんだろう?」

「はい……」

「だったら言わなきゃいけなかった。自分が受け継ぐことを、言わなきゃならなかった。その上で交渉のテーブルに着くべきだったんだ。何も知らない両親を、説得するために」

 受け継ぐこと。お兄ちゃんのバイクと魂をそっと心の中にしまっておくことも。言ったら変わっていたんだろうか。父さんも母さんも、お兄ちゃんのバイクを捨てないでいてくれただろうか。納屋は広いから邪魔になっていたとも思わない。ただ私の為に、私に前を向かせるためにそうしたんだとしても――そんなものはとっくに出来上がっていたと思う。三年前、十六で暴走族なんかに入ってた頃から、バイクは宝物だった。自分のバイクを買ったのは自己満足のため。お兄ちゃんのバイクに塗装なんかは出来なかったから、自分のが欲しかっただけ。それは敬意のため。お兄ちゃんの最後を看取ってくれた、あのバイクに対する。

 よく磨いて、休みの日は鼻歌交じりに引きずって出かけたりしていた。お兄ちゃんが死んだ埠頭にはもう誰も花なんかささげてくれないから、私がささげてた。あのバイクと一緒に。これからはもう、休みの日に何をすれば良いのかすら解らない。大特免許取得にでも頑張ってみる? でも今は全然興味が沸かない。ただ悲しくて悲しくて、それが胸を痛めている。胸で考える。こういうことなのかと思うと、あの日から出来た星形の痣が痛い。初めてここに来た日から、胸の下に出来た痣が。入れ墨みたいな小さな痣が、痛い。思わず屈みこむと、トワが私の背中を撫でてくれた。痛い。いたい。いたいよ、おにいちゃん。

 お兄ちゃんはもっと苦しかっただろう。もがいても光も見えず沈んでいくだけの闇は怖かっただろう。そんな想像の出来るバイクも逝ってしまった。どうして。どうして私は無事なんだろう。天国からお兄ちゃんが守ってくれているから? そんな陳腐な論は認められない。お兄ちゃん。お兄ちゃん。なんで死んじゃったの。それを解るために、いつかあのバイクに乗りたかった。お兄ちゃんと一緒の景色を、見てみたかった。

「はい、カナちゃん」

「あ、ありがとう、テル」

 熱いお絞りで顔を拭くと、おじさんみたいだよ、とからかわれた。べちっと布巾を投げつけると、あちこちから笑い声が上がる。コーヒー牛乳を一気飲みして。ヒゲか付いてないか確認して。

「二十歳になったらカルーアミルク、出しますね。カナさん」

「かるーあ?」

「コーヒーのリキュールで、牛乳と混ぜると美味しいんですよ。その内飲みに来てくださいね」

「私、来年の来月が二十歳の誕生日」

「じゃあその時にでも、前祝に」

 くすくす笑うテルの顔が可愛かったから、一枚携帯端末で写真を撮ってみた。

 何にも写って無くて、ううん、星空が広がっていた。

 シュテルン、か。

「どうしたんです?」

「ううん、カメラ越しでもテルは綺麗だなあって」

「嬉しいですけれど、、肖像権が私にもありますからね」

「うん、誰にも見せない。宝物にする」

「それも恥ずかしいな……」

「なんならテルとメルクとトワの三人で撮る?」

 ふるふる、と無言で拒否してきたメルクにちょっと笑って、私はもう一口、最後のコーヒー牛乳を飲んだ。

「トワ、私帰るよ」

「もう落ち着いた?」

「うん。これでお父さんたちと話し合ってみる」

「じゃあお守りにこれを」

 差し出されたのは金色の金平糖が一袋だった。

 どよ、とおじーちゃんたちが騒めく。

「食べちゃダメだよ。お守りだからね」

「ん、解った」

 ちゃんと安全靴で床を歩いて、私はバルを出る。

 金色は薄暗い路地でも変わらずに輝いていた。


 結論として、お兄ちゃんのバイクは帰って来なかった。

 でも私がどんな思いであれを磨き上げてきたのかは両親に伝わって、謝罪の言葉はもらえた。

 胸がすっとしたのは、やっぱり私が胸で考えるからなのだろうか。

 お爺さん達はどこで考えてるんだろう、考えながら私は涙を一粒こめかみに流して眼を閉じ眠った。

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