第5話


 ご老人を気遣ってステラに行かない日が続くと、梅雨は明けて本格的に暑い夏になっていた。こんな時こそあのバルで冷たいものを、とも思うんだけど、トップになってしまった私にはその暇もない。大体年下の上司って言うのはやりづらいのだ。指示を聞かなかったことにされたり、次の配達場所の確認が来なかったり、やっかみを買ってしまう。面倒なことになったよなあと思いながら私が向かったのは百合籠邸だ。あれ以来信用されてご贔屓にしてもらってるし、えにしちゃんも可愛い。そして待ち受けに出されるアイスティーが美味しい。クレームダウンしてないアールグレイは至高だよ。こういうのはバルで飲めないから、かなり重宝してる。

「お姉ちゃん、宿題教えてー」

「ほいほい、出来る範囲ならね」

 えにしちゃんは良く私を頼るようになって来た。小学五年生、もう受験戦争は始まっているらしい。今どきの子供は大変だ、思いながら引っ掛け問題の綾を解きほぐし教えていく。こっちの問題のここもそう? と聞かれて、答えはイエス。呑み込みの良い生徒は嫌いじゃない。私はどうだったのかな? お兄ちゃん。よく泣きながら夏休みの宿題ラストスパート手伝ってもらってたっけなあ。懐かしい。学校を卒業すると勉強なんて縁遠くなるものだと思っていたけれど、社会勉強はまだまだ残っている。そっちの方がよっぽど厳しい、けれど、楽しいことも多い。メルヘンなことにも出合っちゃったりしてるしね。これは私の場合だけれど。


 国語の文章題が終わった所で、お姉ちゃん、とえにしちゃんに声を掛けられる。

 んー? とアールグレイがちょっと薄まったグラスに口を付けると、神妙な顔をして見られているのが解った。


「エトワールさんと香苗お姉ちゃんはお付き合いしてるの?」


 ……。

 お付き合い、って言い方が、立派な家の子だなあ。


 じゃなくて。


「な、なんでそうなるのかな?」

「だってお店が閉まってる時結構な確率でバイクが置いてあるから……」

「ただの友達だよ、とーもーだーち。面白い人だから色々教えてもらってるだけ」

「例えば?」

「……カルメ焼きの作り方とか、金平糖の出来方とか?」

「本当にそれだけ?」

「今の所は。だってエトワールさんも大人だよ、私みたいな子供相手にしてくんないって」

「でも、私よりはずっと大人だもん」

 ずっと、って、私は何歳に見られてるんだ。仕事柄のワンレングスで確かに実際より上に見られることもあるけれど、この子とは十歳も離れてない。いや、子供の年齢では結構な差になるのか? 私とお兄ちゃんだって六つ差だったけれどかなり大人に見えていたし。そういう?

 というかそういう質問が出るってことは――

「えにしちゃん、エトワールさんのことが好きなんだ?」

 ぼん! と爆発するように赤面してノートで口元を隠し、それからきょろきょろ眼を慌てさせて、最終的にはぎゅうっと閉じてこくんっと頷いて見せた。かーわいいなーこういう女の子の反応って。恋バナするような友達がいなかった私としては実に新鮮で可愛い。って言うか友達がいなかったのか、私? 髪のことで敬遠されてて誰も近付いて来なかった、近付くと逃げられた。思えば兄しかいない孤独な子供だった。とまあそれは置いといて、からかうのは止めた方が良いわよね、五年生って。結構大人だし。バイクに気付くぐらいには。

「心地良い人ではあるけれど、好きまでは行って無い感じかな。駄菓子屋は宝石箱みたいだし、大好きだけど」

「あの金平糖の種類凄いよねっ」

「ねー、あれ仕分けるのってどうやってるのかしら」

「甘くてきゅーってなるから大好きなの、私も!」

「私も! あの甘さが堪らないよね、ただのお砂糖なのはわかってるんだけど、なんかこう、胸がほわーってなるって言うか」

「なんじゃ二人とも、盛り上がっとるのう」

「あ、お祖父ちゃん」

「百合籠さん」

「えにしや、ちょっと大人の話があるから下がっててくれんかの」

「はーいっ」

 ぱたぱた勉強道具を片付けていくえにしちゃんに小さく手を振られて振り返す。百合籠翁の本日の書類は随分と分厚いようだった。海運業に関することかな? 宛先もそうなってるし。しかし大人の話って何だろう。思いながら翁を見ると、少し目を伏せて眼鏡を取っていた。老眼鏡だろう。もう良いお年だし。

「保志さん、あんたのことは信用しとる。無事に書類を届けてくれるし速さはピカ一じゃ。だが――あまりすてらに関することは、えにしに話さんでくれんかな」

「え?」

 翁は眼鏡を掛けて私を見る。

「あれはステラの住人じゃ。わしらとは違う。時間の流れさえ」

「えっと」

「あんたも知らんことが多いということじゃよ。わしよりな」

 苦笑いをされて、書類を託される。バイクで走り出してから、私はうーんと考え込んでしまった。運転自体はルーチンワークに入ってるから特に危ないこともない。


 私の知らないこと。

 逆に知っていることは?


 妹さんがバーテンダーで、バルはいつも賑やか。謎解き好きな老人たちが多くて、私もその一人に入りつつある。囲碁や将棋、オセロなんかもあって、通貨はあるけれど金平糖でも代用できるらしい。それで賭けをしてるとメルクが無言の圧力でやめさせたりしてるけれど。みんなこっそり金平糖を交換したりしてる。果実なんかもこっちと同じ、でも本当に平べったい鳥のお菓子が出て来た時にはちょっとびっくりした。チョコレートよりも甘い、と言うイーハトーヴの世界そのままだった時は感動した。

 知らないことは?

 トワをはじめとする全員の年齢。でもテルはそんなに私と違わないんだっけ? 外見的に。ちょっと年上のトワやメルクは同い年ぐらいの二人で、もしかしたら同期だったりするのかもしれない。それで三人仲良しって言うのはちょっと羨ましいな、と右折。それと――そうだ。

 身体にある星。

 メルクは顎の裏、テルは頬、トワはこめかみ。私は胸のちょっと下。

 あれの意味はまだ、教えてもらってない。

 胸の星の意味も、どうして駄菓子屋をしているのかも。夢のない大人なんだよ、と言っていた。どういう意味だったんだろう、あれは。バルがシンとしたあの瞬間、何か地雷を踏んだと思ったあの時。会社に戻って自分のバイクに乗り換え、私はすてらに向かう。夕焼けの時間なら、まだ開いているだろう。今日こそは聞いてやる。今日こそは。今日、こそは。

「トワ?」

 ひょっこり開いている駄菓子屋に顔を突っ込むと、番台で転寝しているトワがいる。

 危なっかしいなあと思いながら、私は金平糖を眺めた。

 発光しているようにも見えるそれらはまるで星みたいで。

 あ、と私は思い出す。

 エトワール。確かどこかの言葉で『星』の意味だ。シュテルンはドイツ語だったと思う。メルクールは水星。みんな星で繋がってたのか。そして私も保志。繋がっていないと言えない、こともない。でも百合籠翁は? 弐遠。解らない。あるいは縁なんてちょっと立ち寄っただけとか、そんなことなのかもしれない。小さな私が転んだ足の手当てを、されたように。

「胸に近い星は心で物ごとを考える」

 響いた低い声に、びくっと私は番台を振り返る。

 くぁ、と欠伸をしながらいつもより低い声になっているトワが、私を見ていた。

「夢のない子供は夢のない大人になって、夢のない老人になる」

「と……トワ?」

「来てるなら声掛けてくれたらよかったのに、カナちゃん。で、夢のない大人に何の御用かな? 百合籠翁に釘でも刺された?」

 くすくす笑って、図星を突いてくる。ステラ。それも確か星の意味だったはずだ。星だらけの街に向かう、星だらけの駄菓子屋。でも一体どうして駄菓子屋なんて?

「夢のない大人、って、何?」

 私はなんとなく聞いてしまう。

 んー、とトワが天井を見上げた。

「やりたいことが無くて、したいことも無くて、将来について考えたことも無くて。そういう人間が僕みたいな門番に選ばれるんだよ」

「門番?」

「ステラとすてらの間に立ち塞がる門番にさ」

 言ってトワは下駄に足を突っ込み、私の隣をすり抜けてシャッターを閉める。

「寄ってくんでしょ?」

 にこりと笑った、薄明りの金平糖たちの中、私はこくんと頷く。だけど心で考えるの意味が解らなかった。夢のない大人はなんとなくわかる。私だってバイク便でいつまでも食べていると思っていないし、ても次の夢なんてない。お兄ちゃんが死んだときから、私に夢は無くなったと言って良い。心は考えるのをやめた。いつからだろう、こんな虚無を無自覚に抱え始めたのは。トワ。あなたなら知っているの? 頭で考える星。ロジックですべては片付けられるの? 教えてよ。トリックがあるならそれはどこ? レトリックはどこにあった?

 私には全然、解らないよ。

 ジィジィ鳴いてる蝉の声を、わずかに防ぐシャッター。いつものように飛び石の新聞を置いてくれるトワ。その背中に私は思わず声を掛ける。トワ。いつもよりちょっと少しだけ無表情っこい眼が、私を振り向く。

「夢は、子供しか決められないの?」

「カナちゃん」

「大人になったら決められないの? トワに夢は、ないの? 星は、ないの?」

「……僕の夢はここでのんべんだらりと過ごすことさ。その為にすべて捨てて来たと言っても良い」

「テルは?」

「……」

 トワが黙る。

 私は続ける。

「テルの夢を見守ってるんでしょ? それは望みじゃないの? 夢じゃ、ないの?」

「テルにはメルクがいる。本当は僕が行かなくったっていいんだ」

「いつもツケにして会う機会を作ってるのに?」

「ッカナちゃん!」

 狭い空間に声が響いて、星々が光を強めた気がした。

「君には関係のないことだよ。僕が夢のない大人になったことだって、君が夢のない大人になりかかってることだって。無関係だ」

「夢――」

 夢なら私は、

「お兄ちゃんに、会いたい」

「カナちゃん?」

「その為にバイクに乗ってるのも、夢じゃないの?」

 ぱたっとコンクリート打ちっぱなしの床に涙が落ちる。

 お兄ちゃんが感じてたものを知りたくて、バイクを生業にする仕事に就いた。幸い適正はあったようで、何とか続けられている。お兄ちゃんもこんな風に疾走していたのかな、と思うと楽しかった。捨てられないバイク。私がまだ子供である証明のようなそれ。夢のない大人になりかかっている? 夢って何? 胸の奥がずきずき痛い。星がうずくように。

「私の夢は、誰かに否定されなきゃいけないものなの?」

「カナちゃん、」

「私だけの夢なのに。私のお兄ちゃんに私が会いたい、私だけしか持てない夢なのに、私は夢のない大人なの?」

 俯くと三つ編みが落ちて、そこにも水滴が落ちていく。ぱたぱた。ぱたぱた。金平糖の光が煩い。そもそも砂糖菓子って光るものだっけ? 十円ガムと金平糖一袋。それだけで楽しかった。夢みたいだった。夢はもう終わりですか? ねえ。星の神様、いるのなら教えて。私は失格なんですか?

「カナちゃん」

 下駄を履いたトワが私の頭を撫でる。

「前を向いていないと、夢は見られないんだよ。僕みたいに停滞していちゃダメだ、君は」

「死人を踏みつけて夢を見ろって言うの?」

 ひくっと喉が鳴る。

「死人は振り返る物しか残してくれなかったかい?」

 お兄ちゃんは。

 兄ちゃんが残してくれたものは。

「そんなの解んないよぉ……」

 ぽんぽん頭を撫でられて、浴衣の胸に抱きしめられる。いつの間に衣替えしたんだろう。ちりめんのそれはよく涙を吸った。鼻水も付けてやろうかと思って、年頃の乙女としてやめておく。

「思い出は優しい、優しい過去だけ見つめていちゃいけない。死んだ人間は絶対かもしれないけれど、そこばかりを振り向いてちゃいけない」

「じゃあトワは? トワはどうして、夢がないの?」

 小さな子供みたいな聴き方になってしまったけれど、とんとん、とこめかみの星を叩いたトワは、苦笑いをした。

「なんでも予測が付いちゃうんだよ、頭に星のある人間は。だから夢も見れない。でもそうだな、今の僕には予測がつかないことをしてみようかと思う」

「トワ?」

「カナちゃん、ちょっと口開けてね」


 くしゃっという紙を握りつぶす音がどこからか響いて、トワは私に口付けた。


 甘い。コーラガムの味だ。って言うかキスされてる? 逃げるようにじたばたしてみるけれど、細っこいと思っていたトワの腕は案外力強い。そして――

 口の中で風船が膨らまされた。


「ん、んーん!」

 喉に引っかかってしまいそうな恐怖、思わず本気で安全靴を向う脛に入れると、ぱんっとガムが弾けてトワはしゃがみ込む。痛かっただろう、なんせバイクの重さにも耐えるのが安全靴だ。私は口の中に残ったまだ味のあるガムをどうしようかと思い、一応噛んでみる。まだ大分甘い。そうそう、とトワが苦笑いで答える。

「噛み過ぎない方が風船は作りやすいんだよ、カナちゃん」

「そ、んなんでッ人のファーストキス奪っていくとか!」

「ヤンチャしてたって言うから初めてとは思ってなかったや……カナちゃん僕のところにお嫁に来る?」

「いかねーよこの変態! 変態! 変態!」

「三連発で言われた! ふふっでも、」

「!?」

「予測のつかない切り返しで、ちょっと夢が見られたよ」

 笑うトワに私はヘルメットをぶつけた。

 物理攻撃にはさすがの頭も弱かったようで、ぬをを、と呻いている。私はそれを無視して、敷かれた新聞紙を飛び石に襖の前で待つ。下駄を持ってきたトワが私をいつもの路地に繋げてくれて、今日はめいっぱい飲み明かそうと思った。トワのツケで。

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