第三章

第三章

由紀子が製鉄所を出たとき、あたりは真っ暗だった。空が曇っているのか、星も出ていなかった。こりゃ雨が降るぞ、何て、誰かが言っていた。

其れよりも、由紀子は、車をどこに置いてきたのか、をやっと思い出した。なぜか、車を適当なところに置いてきたまま、自身は道路を歩いている。

「あたし、車をどこに置いてきたんだろう?」

由紀子は、何て言うことやってしまったんだろうなという気がした。

このまま、製鉄所へ戻るわけにもいかないし、それに車をどこに置いてきたのか、まったく覚えていない。

それでは、取りにいかなければならないが、どこへ置いてきたのか思い出せないのが、現状であった。

あーあ、なんであたしはこんな風になってしまったのだろう。

車を取りに、のこのこと戻ったら、また杉ちゃんに言われてしまいそうだ。

取り合えず、今日は歩いて家に帰るか。そして、明日の出勤は、タクシーか何かで、何て考えるが、なんだか、もう疲れてしまい、なにもしたくなかった。

ザーッと雨が降って来た。由紀子は傘をコンビニで買う気にもなれず、ただとぼとぼと歩いているだけであった。ずぶぬれになった彼女は、商店街の中を歩いた。しばらくアーケードが続くので、ぬれる心配はなかったのであるが、、、。

不意に、商店街の一部にある、蕎麦屋の前を通りかかると、ガラッと戸が開いた。

「じゃあ、また来てね。蘭ちゃん。」

と、店の店長が、そういっている声が聞こえてきて、店の中から出てきた男性は、明らかに蘭だった。

なぜか、大量に飲酒したらしく、なんだか酒の匂いがした。男の人ってどうして何かあると酒を飲むんだろうと由紀子は思ったが、

「由紀子さん!」

と声を掛けられる。

「蘭さん。」

「どうしたんですか?そんなびしょぬれで。いつもなら、車で移動しているはずですよね。」

優しく声をかける蘭であったが、由紀子はどうしても、答える気にはならなかった。

「ええ、してますよ。」

由紀子は、吐き捨てるように言った。

「じゃあ、なんで、そんなびしょぬれになって、歩いているんですか。もしかして、失恋でもしたんですか?」

蘭の言葉に悪気はないが、由紀子はその言葉にカチンと来た。今まで、蘭の命令に従って、女性を探し出したり、道鏡と言われた女性を連れてきたりして、いずれも失敗に終わっているのに、お礼も何ももらったことはない。

其れなのに、失恋でもしたの?何て言われたら、確かにカチンとくる。

「蘭さん。ひどいこと言うわね。」

と、由紀子は言った。

「酷いことって何ですか?」

と蘭は答える。

其れすら、わからないのか、と由紀子は思ったが、蘭は本当にわからないという顔をしている。由紀子は、こうなったら、蘭に無理やり苦労させてしまえと思いついて、

「蘭さん。私が、どうしてこう、ずぶぬれになったか、教えてあげましょうか?」

と蘭に行った。蘭は、何だという顔をして、首をかしげる。

「一体どうしたんですか?」

蘭が思わずそういうと、

「あなたが、一番生きてほしいという人物、名前は言いませんけど、もう逝ってしまうようですよ。今日中、もって明日の朝で限界だそうです。」

と、言ったので、蘭は一気に酔いが覚めて、

「何、それは本当か!」

と、声を荒げて言った。

「どうしてそんな急に!」

「だから、もうだめなんだそうです。もう筋肉も衰弱しきって、体もなにも動けないし、食道が硬化して、食事ができない状態です。肺からは出血して、もう止まらなくなっていますしね。自分では何もできない状態なんですよ。だから、逝かせてやるべきだという事になりましてね。そういうことなんです。わかりますか!」

蘭の声と負けないくらい、由紀子はそういった。

「ちょっとまってくださいよ。例えば、気管切開をして、痰を定期的に取るとか、食物が取れないなら、点滴で代用するとか、そういうことは、しなかったんですか!」

「ええ、しませんでした!そういうことはしませんでしたわ!それは、私だって、お願いしましたよ、それは!でも、結局として私のお願いは採用されはしませんでした。みんな、安らかに逝かせてやるべきだと言って、そういうことはしないことにしてしまったんです。そして、私は、もう用なしだと言って、追い出される始末ですわ!もう、どうして、そうなってしまうのか!若い人っていうのは、そんなに不要かしら!」

半分、本音をばらつかせながら、由紀子は声高らかに言った。いくら鈍いと言われている蘭でさえも、逼迫した状況は、すぐに理解できた。

「全くね。私たちは、どうしてこんなに、おいだされたりしてしまうのかしらね。もう、私は、水穂さんにただ生きていてもらえるだけでも、すごく励まされるのに、その気持ちは、全く理解されないで、ただ自然に逝かせてやろうという。かえってそのほうがきれいごとよ!」

「わかりました。僕が止めに行ってきます。由紀子さんの気持ちも伝えてあげるから、もう泣き寝入りはしなくてもいいよ!」

蘭はめちゃくちゃな文法であったがそういって、急いでスマートフォンを出し、

「あ、もしもし沼袋!急いで製鉄所まで一台出してくれ。うん、今吉原の商店街だ。頼むよ!」

とでかい声で怒鳴った。

「一体どうしたんですか?何があったんです?社長の命令というわけでもないですよね?」

と、眠そうな顔をして返事をする沼袋さんに、

「早くしろ!早く!」

蘭は怒鳴りつけた。

「わかりました。すぐ行きますから、待っててください。」

沼袋さんは、電話を切った。

数分後、沼袋さんはやって来た。蘭は、急いでてつだってもらい車に乗り込む。由紀子も乗り込もうとおもったが、蘭は、女性は行かないほうがいいと言った。由紀子は、この時はさすがに女性をバカにしているとかそういう気持ちにはならなかった。たしかに、こういうときは女性より男性のほうが、

上手くやってくれることはよくわかるので。

「それでは、行ってきます!」

と、蘭は、沼袋さんの車で、製鉄所に向かっていく。由紀子は、それを眺めながら、どうか蘭さん上手くやってください!と祈るしかなかった。

蘭は、とにかく製鉄所へ車を飛ばしてもらった。沼袋さんは、はいわかりましたと言って、それ以上は言及しなかった。沼袋さんは、何が起ころうとしているのか、すぐにわかってくれたらしい。蘭がバックミラーを見ると、沼袋さんの目に波が浮かんでいるように見えた。

その製鉄所では、沖田先生の指示で、利用者たちは青柳先生と一緒に合宿という形で近隣のホテルに移動していた。なので事実上、製鉄所にいるのは、ジョチと杉ちゃんだけになっていた。

もう最期とは言っておきながら、なぜか杉三、二時間おきに体の向きを変えてやる作業を続けていた。最後の最期まで、いつも通りにさせてやるのが、杉三のやり方である。それがもしかしたら一番理想的なやり方なのかもしれないが、、、。

「じゃあ頼みますよ。沼袋さん、申し訳ないですが、由紀子さんの車はちゃんともとに戻してやってください。」

と、誰かが、でかい声でそういっているのが聞こえる。

「はれれ?誰だろう?」

杉三が水穂さんの体を、よいしょと動かしてやりながらそういう。

「たぶんきっと、蘭さんでは?」

と、ジョチが言った。

「だって蘭は製鉄所に来てはいけないと、青柳教授が言ってたはずでは?」

と、杉三は言うが、

「いえ、たぶんきっと彼でしょう。」

ジョチは苦笑いする。

「しかしなぜ、蘭のやつ、水穂さんのことを知ったのかね。僕たちは、それを外部の人に話しただろうか?話したのは、沖田先生と、青柳教授だけでは?」

「たぶん、由紀子さんが、漏らしたんでしょう。」

杉三もジョチもため息をついた。

同時にばあんと玄関を開ける音がする。

「おい、水穂!水穂はどこに!」

そういって四畳半に、蘭が車いすで飛び込んできた。汗が瀧のように流れている。

「なんだよ。蘭。なんでここに来た?水穂さんなら、ここにいるけどさあ。」

杉三がそういうと、蘭は、杉三にどいてくれと言って、水穂の顔をじっと見た。

「ああ水穂!どうしたんだよ、こんなに痩せて、、、。」

蘭は、そう声を上げる。

「だからなあ。お前さんが製鉄所に来れない間にここまで進行したんだよ!もう手の施しようがないってさ。」

杉三がそう解説した。

「なんでまた!しかもなんで波布のお前がここにいるんだ!お前、また水穂に何かしたんじゃないだろうな!」

蘭は、ジョチのほうに目を向けた。

「したのはそちらでしょう、蘭さん。女の人を五人も連れてきて、水穂さんと関係を持たせたり、変な薬を開発している女医を連れてきて診察させたり。其れこそ、治療妨害です。あなた、それでも反省の色が何もない。」

「反省だと?するもんかよ。僕はこいつが生きてほしいから、ああしてあらゆる手立てを試みたんだぞ!先ほど由紀子さんに話を聞いたが、お前たちは、水穂のことをなんの処置もせずに、送ってやろうなんてきれいごとを言っているそうじゃないか!そうじゃなくて、できるだけ長くこっちにいてもらうようにするもんじゃないのかよ!きれいごとを言っているようだが、其れってある意味、殺人でもあるんだぞ!」

「でも、手の施しようがありません。それはたしかです。そういう人に手を出したって、何の意味があるんですか。其れよりも安らかに逝かせてやるべきだと思いますけど?」

蘭の話にジョチは静かに言ったが、蘭はその言い方がどうしても気に触ってしまうのだった。

「うるさい!お前の言い方は、どうも気がおかしくなりそうだ。ここまで痩せほそってるのに、なぜ、何も食べさせなかった?お前が、安らかに逝かせようとか指示を出して、何も食べさせなかったのだろう!そういうことこそ、お前がしている殺人という事でもあるんだぞ!」

「何を言っているんですか。何も食べさせないわけではありません。食べさせても吐き出してしまうだけの話です。」

蘭はさらに怒りがました。

「馬鹿!お前どうして、それを何とかしようと思わなかった!食べれないなら、人工栄養に切り替えるとか、そういうことは、しなかったのか!もし、本当に苦しいなら、そうしてやるべきではなかったのか!」

「バカはどっちのせりふですか。其れだからダメなんですよ。僕が、彼を苦しめて、どうのこうのなんて、そういうことをしでかすはずがありません。そんな不条理なこと、僕がするわけないじゃありませんか。」

「ほら、またそう言って白を切る。そうやってお前は、自分のために誰かを利用しようとするんだ!お前は、そういうところが波布なんだ!」

「蘭。」

細い声がした。

「水穂さん、しゃべんないほうがいいよ。じっとしてろ。」

杉三がそういうと、水穂は、

「蘭。」

と、もう一度言った。

「な、なんだよ、水穂。どうしたんだ。何か言いたいことでもあるか?其れとも苦しいか?」

蘭が、もう一回言うと、

「おまえは、、、。」

と、静かに言う。

「何だよ。苦しいなら、もう無理をしないでしゃべらなくていいから、何か欲しいものがあれば、」

蘭がまた言った。

「おまえは、、、うるさい。」

水穂はまた静かに言う。

「ほら言われてら。少し黙ったらどうだ?お前さんは、うるさいんだよ。本当に。」

杉ちゃんに言われて、蘭は少しため息をつく。

「だって杉ちゃんも、波布も、みんな何も食べさせないで、なんで放置していたんだよ!ここまで痩せて窶れた顔を見て、何も思わなかったのか?そんな風に放置することができたなんて、信じられるもんかよ!」

「蘭さん、僕たちは、一生懸命やりましたよ。それでも手の施しようがないってことはあるんですよ。」

「うるさい。波布は口を出すな!」

蘭は、でかい声で言った。

「僕が、お前に何か食べさせてやる。もう理屈も何も言わないで、しっかり食べろ!」

「バカだねえ。もう食道も使えなくなって、食べたら痞えるはずなのにね。」

杉三はそういって蘭を止めたのだが、

「僕が、本当に栄養のあるもんをつくって、お前に食べさせてやるから。もう、そんなにやせ細ってしまう必要もないように、うまいのを作ってやる!」

「はあ、バカだねえ。実にバカだねえ。本当にバカだねえ、蘭は。お前、料理したこと、全くない癖に、何を作ろうっていうんだい?」

杉三が素っ頓狂な声で言う。確かに蘭に料理経験など何もない。ところが、蘭は、それを無視して、

「おい、水穂。何か食べたいものないか。なんでもいいよ。言ってみろ。」

と、声をかけた。

水穂は、天井を見たまま、焦点の定まらない目で蘭を見て、

「かっぱ巻き。」

と一言言った。

「かっぱ巻き。おう、わかったよ。作ってやるから、もうちょっとだけ待ってくれ。な、もうちょっとだけ、待ってくれ。」

「何言ってるんだ。蘭はかっぱ巻きの作り方、知らないはずじゃないか?」

「それとも、コンビニかどこかで買ってきましょうか?」

杉三とジョチがそういうので、蘭は、よりムキになって、

「よし、杉ちゃん。作り方教えてくれ。僕が一生懸命やるから、監督してください!」

と杉三に頭を下げるのである。

「ええーやだよ。水穂さんのそばに居たいのに。」

と、杉三は反対したが、

「まあ、気が立っているから、その通りにしてやった方がいいでしょう。杉ちゃん、申し訳ありませんが、蘭さんを手伝って来てあげてください。」

と、ジョチが言った。

「わかったよ、じゃあ、こっちに来い。」

杉三は、とりあえず四畳半を出て、台所に向かって言った。

「うまいの作ってくるからな!」

蘭は、水穂に話したが、水穂は、何も返答しかなったし、天井を見つめているだけであった。それでもいいとおもった蘭は、水穂の肩をたたいて杉ちゃんの後をついていった。

そのまま、夜は更けていった。近隣の屋根の上から、烏がかあかあかあと鳴いたり、梟がほうほうほうと鳴いている声が聞こえてくる。水穂のそばにいたのはジョチ一人だった。水穂は、もう目も閉じてしまって、眠っているというより、もう何も出来ないというほうが、ふさわしいだろう。こうなると逝ってしまうのは時間の問題だ。

まもなくすると、空が段々明るくなっていった。もう朝だなと確信したジョチは、水穂をそっと抱き上げ、膝に頭を乗せた。もう、水穂はほとんど息をしていなかったし、目も閉じたままだ。このまま逝ってしまうと確信したジョチは、

「水穂さん、杉ちゃんだけではありません。僕も、少しばかり歌えるんですよ。一応、楽理ですけど、音楽学校を出ましたからね。」

と、彼に語り掛け、こう歌いだした。

「別れることはつらいけど

仕方がないんだ君のため

別れに星影のワルツを歌おう。

冷たい心じゃないんだよ

冷たい心じゃないんだよ

今でも好きだ死ぬほどに。」

反応しているかどうかは分からないが、そっと彼の肩をたたいてやって、歌をつづける。

「一緒になれる幸せを、

二人で夢見た微笑んだ

別れに星影のワルツを歌おう。

あんなに愛した仲なのに

あんなに愛した仲なのに

涙が滲む夜の窓。」

水穂さんのその顔は、もう全身の力が抜けてしまったようであったが、ジョチはさらに続けた。

「さよならなんてどうしても

言えないだろうな、泣くだろうな

別れに星影のワルツを歌おう。

遠くで祈ろう幸せを

遠くで祈ろう幸せを

今夜も星が降るようだ、、、。」

最後のフレーズは、もう涙ながらで、ほとんど歌になっていなかったが、何とか星影のワルツを歌い終わろうとしたその時、

急に水穂さんの目がパッと開く。先ほど見せたような焦点の定まらない目ではなく、しっかりと意思がある、はっきりした目であった。

「どうしたんですか?何かありました?」

そっと語り掛けても、水穂は、何も反応せず、天井を見つめたまま、一言、

「天皇陛下万歳!

ばんざい!

ばんざ、、、い。」

といい、静かに目を閉じ、動かなくなった。

多分、それだけは、どうしても言いたかったのだろう。

「よかったじゃないですか。」

ジョチは、まだ暖かい水穂の遺体をそっと抱きしめてやりながら、そういってあげた。

「ちゃんと、言うべきことは言えましたね。」

壁にかかったカレンダーは、まだ新元号が発表されるのには、一週間あることを示していた。たぶん、彼も新しい元号が変わることを見届けてやりたいとおもっていたのだろう。しかし、それができないと確信して、死ぬ間際に天皇陛下万歳!と言ったのである。

ジョチはそっと外を見た。丁度あたらしい朝がやってくる時間であり、朝日がきれいに、製鉄所の庭に差し込んでいる。

多分、水穂さんも、その朝日と一緒に上っていくのだろう。

「安心なさい。遠い上の世界では、あなたを穢多と言ってバカにする人は、一人もいませんから。」

とりあえず遺体を体から離し、葬儀屋さんをどうのとかそういうことを考え始めた。この事情を考えると、葬儀屋にだって、断られることも多いはずだ。それを理解してくれる人を探すことから始めないといけない。


おどろくことに、水穂はひとりで桃の林の中を歩いているのである。もう体は軽く、だるくもなく、咳き込むこともない。

「あ、いたぞいたぞ。お前も来たか!」

前方に、酒瓶を持った、全身刺青のおじさんがいた。

「どんぶりのおじさん。お久しぶりじゃないですか。」

水穂も、ひさびさに会ったので、こうあいさつする。

「挨拶何て要らねえよ。其れより、また一緒に酒が飲めるなんて、うれしい事じゃないか。」

そういってどんぶりのおじさんは手を引っ張って歩き始めた。

暫く二人で歩くと、

「あ、水穂ちゃん、帰ってきたんだね!もうこれからは、こうして一緒に居られるねえ!」

あの、吉原で売春をしていたお姉さんと合流した。

「さあこっちよ。みんな待ってるよ。あんたが帰ってきてくれたのを。」

そういわれた方向に歩いていくと、桃の木のしたで、何人かの人が宴会をしているのであった。その顔はみな見覚えがあった。幼い自分を育ててくれた、穢多頭のおじさん夫婦、靴屋のおじさん、鞄屋のおばさん、穢多寺のご住職。そして最後には、、、。

「水穂ごめんね。あんたを捨てなければよかったね。」

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