第二章
第二章
由紀子は、いつも通り、駅員としての業務を続けていた。
でも、駅員業務は何か悲しくて、空虚で仕方なかった。なんでだろう。本当に何か、大事なものが、手の届かない遠くへ逝ってしまう。それは、何だか仕方ないんだで済ますことはできないような、そんな気持ちだった。
水穂さんは、どうしているかな。
暇さえあれば、そういう事ばかり考えてしまう。
できることなら、製鉄所にずっと居たい。
でも、あの偉そうなお医者さんが、もう、水穂さんの体に負担がかかりすぎるからと言って、決まった人にしかあってはいけないと言って、私は、有害とされてしまった。なんでかなと思うけど、理由がわからない。
それでは、私、そんなに悪人だったのだろうか?
そんなに、水穂さんにとって、有害だったのだろうか?
何回も何回もそればかり考える。なんだかもう、電車の発着時刻を知らせるのも、面倒臭くなった。
どうせ、電車なんて、30分に一本しか走っていなかったから、その間はずっとボケっとしていることができたので、絶えず水穂のことを考えていた。どうしたらもう一回会いに行けるか、其ればかり考えていた。
「おい、今西さん。一寸来てくれないかな?」
不意に、吉原駅の駅長さんが、彼女を事務室に呼び出した。
「君は、本当に駅員として、やる気はあるのかい?」
と、話し始める駅長。
「どういうことですか?私、しっかりやっているつもりですけど。」
由紀子が言うと、
「いや、違うんじゃないかね。」
駅長は、疑い深く彼女を見る。
「先ほどお客さんから苦情が来たんだよ。原田駅に行きたいのだが、駅員さんが何も教えてくれなかったって。」
「そうでしたっけ?」
そんなこと言ってきたお客さんなんていただろうか?由紀子は全く気が付かなかった。そんな声を掻けてきた人なんて聞いたこともないのだが、、、?
「でも、お客さんはいたんだよ。それはちゃんと、こっちに来ているんだからね。それ以外にも、駅の掃除に手を抜いている駅員がいるとか、切符をしっかり切ってくれない駅員がいるとか、最近は、そういう苦情ばかりが、こっちに届いているんだが、今西さん、それはみんな君の事じゃないのかい?」
「そんなことありません。あたしは、ちゃんと駅員の仕事をやっています。」
由紀子がそういうと、
「そうかなあ、苦情によると、その駅員は若い女だったというけれど?」
と、駅長はさらに力を込めて言った。
「その若い女というのは、君だけではないのかい?」
たしかに、由紀子もやっと30代に到達するばかりの年ごろであったが、確かに、岳南鉄道にそれより若い年の駅員はいないのだ。都内では、30代なんてもうおばさんと言っていたのに、こっちに来ると、まだ若い女の子として認識されてしまうのが、都会と田舎の違いなのかもしれなかった。
「まあ何があったかしれないが、仕事するときは、もっと真剣にやってもらいたいな。今の子は公私をごちゃごちゃにしてしまうと聞いたことがあるが、そういうところに出てしまうのか。そうじゃなくて、もうちょっと、しっかりと、生きようと思ってもらわなきゃ。君も、きをつけてね。」
今の子はどうのとか、そういう発言が、由紀子には一番嫌だった。今時の若い子は、とか言われてしまうと、何だか差別的に扱われているような気がした。特に田舎では、その傾向が強いなあとは感じていたが、やっぱり若いという事は、損をするようにできているらしい。
早くあたしも、一人前になりたいな、と由紀子は思うのだった。
「じゃあ、駅員の仕事に戻ってくれよ。今度こそ、私情を入れずにやってくれよ。頼むな。」
「はい。」
由紀子は、そういいながら、駅員の仕事に戻るためにホームに行った。全く、駅長も、口に出していったわけではないのだから、考えることくらいさせてくれればいいのに!なんて考えている丁度その時。
ガタンゴトンと音がして、赤い電車がやってきた。
「わあたいへん。もう来ちゃった!」
と、お客さんたちは、そういいながら、電車の中に飛び込んだ。
あれ?と思って駅の時計を見ると、電車の発車時刻になっている。
「一番線から、岳南江尾行きが発車いたします。お見送りの方は、黄色い線の内側までお下がりください、、、。」
由紀子は、急いで発車の合図をしたが、お客さんたちは、非難のこもった目で彼女を見た。
本当は、いけないことをしてしまった。もし、これを駅長に見られたら、間違いなく首になってしまう。どうしようと、由紀子の手がわなわなと震える。
ガタンゴトン。
電車は、とりあえず由紀子が合図した通り、走ってくれたが、こんな間違いは二度と許されなかった。それではいけない、と自分に言い聞かせる由紀子だが、それからの駅の到着の合図や、発車合図は、いつも通り、来る電車の通りにぴったりとというわけにはいかなかった。どうしてなのかわからないが、その日の岳南鉄道は、ダイヤが大幅に乱れた。
由紀子は、その日、がっかりとして家に帰った。もう、なんでこんなにつまらないミスをしたんだろう。今時の若い奴はやっぱり駄目だと言われるのは、本当に嫌だった。
そんなことを考えながら、由紀子はコンビニで買ってきた弁当を食べようと思ったが、とてもそんな気にはなれなかった。その時、隣の住宅の屋根に止まっていた烏が、かあかあかあと三回なく。烏は不吉な印という。これから何か悲しい出来事が起こるのではないだろうか。もう、そんなことは二度と出くわしたくない気分だったが、、、。
「もういい!会いに行こう!」
そうでかい声で言って、由紀子は車に飛び乗った。
歩いていけば何十時間もかかってしまうところであっても、車であればほんのすぐ、という建物は、結構あるのである。製鉄所には、数十分で着いてしまった。もう適当な場所に車を止めて、すぐに正門へ突進する。
「こんにちは。」
玄関の戸をガラッと開けると、一人の利用者が出てきて、何のようでしょうか?と聞いてきた。まさか水穂に会いに来たと言えば、追い出される可能性もある。なので由紀子は、
「あの、杉ちゃんいますか!」
と聞いた。
「はあ、杉ちゃんなら、買い物に出かけたよ。晩御飯を作って居たら、足りないものがあるって気が付いたみたいで。すぐもどると言っていたけど?」
なんという幸運だ!邪魔な人がいなくなっていたなんて!
「それでは、ここで待たせてもらっていいかしら?」
「どうぞ、待ってて頂戴。多分すぐ戻るだろうから。」
「そう、ありがとう。」
利用者の話も碌に聞かずに、由紀子は靴を脱いで製鉄所の中に入ってしまった。利用者が、ちょっと、由紀子さん!と呼び止めたのも、聞こえなかった。
もう鴬張りの廊下などどうでもいいから、由紀子は猪突猛進に四畳半に向かった。咳き込む音は聞こえてこなかったので、ちょっと安心する。水穂さんは、多分眠っているのだろうか。それではもしかしたら、暫く起きないでいるだろうか?
ぴしゃん、と四畳半の扉を開けた。水穂さんの、骨と皮ばかりの顔が真正面に来た。
「水穂さん。起きてる?」
由紀子は聞くと、水穂さんの目が開いた。
「由紀子さん。」
こっちを向いてくれるだけでも、今の由紀子には天にも昇る気持ちであった。でも、その骨と皮ばかりの顔には驚いてしまった。急いで枕元に座り、布団をまさぐって、彼の右手を握る。その手も、もはや中年というより老人の手のようであった。いや、老人であっても、ここまで痩せはしないのではないか、と思われた。それくらい、水穂さんは無残な有様で、可哀そうというよりも、酷いという表現が、ぴったりであった。
もう、何も言葉も出なかった。もう、泣くしかできなかった。遅かった。遅すぎたんだわ。こうなる前に、ここから出してあげればこうはならなかった。
由紀子は、後悔して泣いた。来るのが遅すぎたと、後悔して泣いた。それを見た水穂さんは、そっと、微笑んで、由紀子を見た。
「どこか行こう。」
不意に細い声がして、由紀子はハッとする。水穂さんの声だ。
「どこか行こう。」
もう一度声がしたが、もうそんなことはできないという事も、由紀子はわかってしまったから、何も言えなかった。代わりに、駅員帽をかぶったまま、水穂さんの体の上に乗った。もう、顔や手だけでなく、全身骨と皮ばかりになってしまっていることを由紀子はこれで知った。とにかく悲しかったが、それを打ち消すかのように、由紀子は彼をひしと抱きしめた。
「そうね。どこか行きましょう。あたしも楽しみにしてる。その時は、こんなむさくるしいところじゃなくて、もっときれいなところ、ほら、こないだも言ったでしょ?あたし、まだその時の約束、忘れてないのよ。海の見える小さな家に、二人で住もうって約束したでしょ?其れとも、もう忘れたの?何とか言ってよ、、、。」
「忘れてなんかいませんよ。」
と、水穂さんは言った。
「覚えててくれたのね!」
由紀子は、もううれしくなって、すぐに実行してしまいたくなった。そうするしか彼を救うことはできないのではないかという気がした。
「じゃあ、行きましょう!今であれば、杉ちゃんもいないし、うるさい人たちは誰もいないから、決行するとしたら、今しかないわよ!もう、そのままの恰好で行っても、何も寒い季節ではないから、着替えなくても大丈夫。移動は、あたしの車で行けばいいわ。」
女というものは時折、こういう突拍子もないことを発言してしまうらしい。よくわからないけど、そういうものらしい。なぜか知らないけど、そういうのを名場面としている映画や文学はたくさんあるし、それに感涙の涙を見せる人は少なくない。本来であれば、実現なんてとてもするはずはなく、おかしな場面と言えるのだが、なぜかそうなってしまうようである。
「由紀子さん。」
それは無理だという言葉がかえってくるのだろうが、由紀子はかまわず彼を持ち上げようと、布団を持ち上げ、よいしょと彼の体に手をかけた。いや、かけようとした。
「水穂さんどうしたの?」
しかし、反応はなかった。
「水穂さんどうしたの?体が熱いわ。」
たしかに、ついちょっと前まで平熱だったのに。由紀子は、急いで水穂さんの額に手を当てると、火のようであった。
「すごい熱じゃない!ねえ、どこか痛いところない?大丈夫?」
急いで、布団をかけなおしてやるが、水穂さんの体は、がたがたと震えていて、由紀子は布団をもう一枚かけてやった。それでも、震えは止まらない。もう一枚出そうと思ったが、もうシーズンオフとされてしまったせいか、押し入れに布団はもうなかった。ああどうしようと考えていると、またせき込みだした。同時に内容物が噴出した。今回はつまらなくてよかったなと思ったが、内容物はいつもの朱赤ではなくて、緑色であった。これはもうただ事ではないなと思って、由紀子はスマートフォンを出し、沖田先生の番号を急いで回した。
その時も何を言ったのか、覚えていない。何を言ったのだろう。私。それでも沖田先生は、やってきてくれた。そのときはジョチも一緒だった。杉ちゃんも、来てくれた。沖田先生は聴診して、厳しい顔をして、みんなになにかはなし始めた。みんなで、ああだこうだと言いあって、難しい専門用語を連発しながら、由紀子にはわからない話を繰り返した。そんな専門用語を使って、みんな理解できるのだろうか?由紀子には全く分からない。ただ、心配なのは、水穂さんどうなってしまうのだろうか、という事である。
「それでは、そのままでよろしいんですね。」
と、沖田先生は言った。
「ええ、これ以上延命措置は取らないほうがいいと思います。そのほうが、彼自身も楽になれるのではないかと。」
「そうそう。変な機械にくっつけられて、がんじがらめにさせるよりは、そのほうがいい。生きているだけで、何もしないほどつらいことはないからな。」
ジョチと杉ちゃんはあいついでそういう話をした。となると、水穂さんはあとどれくらい、、、?
「このままでいさせてやってください。本人は、きっと、機械に付けられて、何もできない自分を責め続けて生きるということは嫌うと思います。現代社会の、生産性のないものは排除するという風潮もあり、それに逆らって、生かされているという事を知ったら、本人は絶望的になると思います。現に、自ら電源を切ったり、他人に電源を切れと指示を出す患者も珍しくありません。」
そんなもの、無ければいいのにな、と由紀子は思った。
でも、現代は、そういうものである。ALSの人なんかが代表的だが、体の動かなくなったとか、そういう人たちが、自殺してしまうというケースは非常に多い。
介護者のほうも、なんでこんな人を看病しなければならないんだ、私の人生を返して!何ていう人も少なくない。だから、介護殺人という言葉さえある。
「この病気の恐ろしいところは、自分のことがわかるという能力は侵されないという事だと思います。
もしかしたら、自分の能力まで侵されるほうが、幸せなのかもしれません。そのほうが、自分がどんな状態なのか、見限ることができますから、、、。」
沖田先生は、なんだか悲しそうに言った。
これが、人間にとって、一番の悲しいことだろう。自分が、社会にかかわることはなく、優しい人たちに声をかけてもらって、生かしてもらっているという事である。そして、それを知ってしまうことである。
「そんな思いは、やつにさせたくないよな。其れなら、今ここで静かに逝かせてやるべきだろう。それはきっと一番人間らしいと思う。勝手に機械で何とかしようなんて、本人も苦しいだろうし、周りの人も生かしてやっているというエゴの下、生きていかなきゃいけないだろうよ。其れだってよ、周りのやつらも苦しいだろうしな。人間は、自分の力で生きているって、感じることができなくちゃ、幸せにはなれんだろうな。」
「杉ちゃん、よく言いますね。それさえわかっていれば、大丈夫ですよ。水穂さんも納得してくれると思います。」
杉ちゃんの発言にジョチはそう賛同してくれたが、由紀子はどうしてもその通りにすることはできなかった。
「あの、すみません。水穂さんは、あとどれくらいなんでしょう?もし、このまま何もしなかった場合。」
由紀子は、沖田先生にそう聞いた。せめてそこだけは知って起きたかった。
「そうですね。」
沖田先生は、厳しい表情のまま、
「このまま何も延命措置を取らなかった場合、今日中、もって明日の朝でしょう。」
といった。
「そんな!そんな馬鹿な!」
由紀子は、そんなことありえないという顔で、沖田先生に抗議したが、
「いえ、もう、これ以上は無理でしょう。もう、肺が限界を超えています。血液の成分が、完全に変化して、これでは、本来の役目を果たしておりませんので。」
それでは、
「それでは、もう明日には、、、。」
「そういうことになるな。」
それでは、もう手の届かない遠くに行ってしまうことになる。
「待ってください!そんなこと言わないで!それは、それはやめてください!彼には、生きていてほしい人がいるんです!あたしたちを含めて、ほかにも沢山の人がいる。もし、必要なら、機械につなげたっていい。彼を何とかして、生かして、生かしてやってください!」
「バカなこと言うな!」
由紀子がそういうと、杉三が怒鳴りつけた。
「考えてみろ!そりゃ確かに生きられるかもしれないぞ。でもな、生きてるって言ったってな、ただ、機械にくっつられて、飯も憚りもみんな機械でやってもらうことになるんだぞ!それによる心の負担ってのは、相当なもんだぜ。最初はいいかもしれないが、そのうち、なんでこんな人を看病しなきゃならないんだって、疑問が絶対にわいてくるんだ。それに水穂さんだってな、機械でがんじがらっめになっても、自分がどうしているのかはちゃんとわかっているんだからよ。一日中、寝たままで、社会参加も何もできないままでいるってのは、つらいもんだよ!まあ、お前さんは、駅員なんかやっているからよ。大してねたまれることもなく生きているんだろうが、本当になあ、生きているだけでいいよねっていう嫉妬されると、辛くてしょうがないもんなんだ。ま、世のため人のためってのが日本で一番正しい生き方なんだからな。それができないで、ただ恩恵ばかりもらってるやつは、小さな部屋の中で、批判に耐えながら、静かに生きるってことしかできないんだよ!まして、寝ているだけしかできない奴は、最悪だあ!そんな思い、させたくない。水穂さんにはさせたくない!」
「あたしは、そんなこと、気にしないわ。社会参加なんかしなくたっていい!ただいてくれればいい!」
杉ちゃんの発言に由紀子は泣き叫ぶように言ったのであるが、
「だからあ、そういう変なことは、長続きしないんだ!今でこそここできれいごとはいくらでも言える。でも実際問題、そういうことは、通用しないんだよ!」
「由紀子さん。実現不可能なことを、簡単に口走ってはいけません。そのようなことを言って、言い争いが生じると、水穂さんにも、負担が生じて良い結果にはならないんです!」
それは杉三たちにすぐに消されてしまった。
「人間、気持ちだけでは生きていけませんよ。人間は、いろんなものに支えてもらってやっと生きているんです!ですから、口だけできれいごとを言ってはなりません!」
「じゃあ、あたしはどうしたらいいんです!あたしは、何ができるんですか!」
泣きながら由紀子がそう聞くと、
「つまり、黙っているという事ですね。何も手を出さず、そのままにしておくことでしょうね。」
と、ジョチは答えた。
「それでは、あたしはもう必要ないという事でしょうか、そういうことですか!あたしがここまで水穂さんを、」
「だから、落ち着いてください。落ち着いて考えなおせば、きっとわかることですよ。水穂さんにとっては、矢鱈頭上で騒がれるより、いつも通りの生活を続けることが一番いいんです。」
由紀子はそういいかけたが、それは、ジョチによって、消されてしまった。
「そうなの!あたしは、水穂さんにとって要らない人だったのね!」
そう言い放って由紀子は立ち上がる。鴬張りの廊下がけたたましく音を立てた。沖田先生も、申し訳ないが会議があるのでといって、帰っていった。
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