貴方を満たす五臓六腑 05

 嵩張る荷物のせいで寄り道もできずにブラッドが家に帰ると、すでにキッチンはレモン香料を溶かし込んだこってりとしたバターの匂いに包まれていた。机の上の更にはこんがりと焼き目を付けたナマズが、黄味がかったソースの水面に浮かんでいる。付け合せに地衣類のサラダと、茸が多めのスープ。

戦争で農地も甚大な被害を受け、今はまだ効率よく養殖可能な巨大魚やシダコケ類の食材ばかりが多く市場に出回っている。それらは非常に収穫量が多い代わりに、臭いや味に難のあるものが多く、もっぱらそれらに人工調味料で好きに味付けして食べるのが昨今の料理のブームだった。

「これはこれでおいしいんだけど、俺はサーモンとか早く食べれるようになりてえなあ」

「え!?ブラッドってサーモン食べたことあるの!?」

「あるに決まってんだろ、昔は川に普通に泳いでたんだぜ。買うもんじゃなくて捕まえるもんだったな、俺の生まれ故郷じゃ」

「信じられない――でもやっと河川の除染も進んできて、最近は泳いでもいい所もあるらしいし、きっとその内魚も獲れるようになるんだろうね」

 あーでも羨ましい――とハーツはその味を想像するようにナマズを咀嚼し宙を見上げている。

「いつか連れてってやるよ。もう町は残ってねえけど、川は流石に無くなってないだろうからな」

 第十次世界大戦で帰る場所自体が無くなった者も別に珍しくない。広大な領土の防衛に手が回らず、戦争中に小さな町や村はかなりの数が焼き払われた。特に田畑を焼けば、食糧需給に致命的なダメージを与えることができるからだ。敵国の思惑の通り、戦後もまともな食糧にありつけずに代替品と輸入で凌いでいることからも明白だ。

 食後に口さびしくなりハイボールを啜っていると、ハーツがバスタオルを首に引っ掛けて脱衣所から現れた。

「シャワーヘッドからお湯を出すたびにギシギシ音がするんだけど、そろそろ修理した方が良いかなー?」

 まだ湯気の上がる上半身は剥き出しで、枯れ木のように細い腕が冷蔵庫を開く。瓶詰めの炭酸水を探すその薄い背中には、まるで天使の羽のような形をした、左右対称の大きな傷跡があった。

「ブラッド……僕のサイダーまた勝手に飲んだでしょ」

 ネコ目を少し吊り上げて振り返るハーツ。

 その身体は手紙や古文書の類にも見えた。人間の愚かさを後世に伝えるための。

ハーツの胸から腹にかけて、背中の大きな傷のインパクトを簡単に掻き消すほどの大量の手術痕が刻まれていた。路線図のように縦横無尽に引かれた切開の跡は、残念ながら彼を救うためにつけられたものなどではない。それは全て、彼から奪うためにつけられたものだった。

「酒割るのに使っちまった」

 わりい、といつも通りの謝罪を含まない笑顔を向けて瓶の残りを渡すと、もう、とハーツも何時もどおりに不貞腐れながらそれ以上言わすに炭酸水を飲み干す。文句を言い出すのはいつもハーツだが、すぐに折れるのもハーツ。悪い癖だとブラッドは思っていたが、それを指摘してやったことは今のところ無い。

 ブラッドはハイボールを飲み干して、おもむろにそのコップをハーツへ投げた。瓶をカゴに片付けていたハーツはブラッドに背中を向けている。だが、彼はこちらを振り向くことも無くコップをキャッチした。

「滴が飛ぶからやめて」

「――もう、身体も大丈夫そうだな」

 ハーツの身体を覆うその殆どは古傷だが、鳩尾に長くまっすぐ走る一本の傷はまだ比較的新しい。一年の休学の原因になったそれは、もう彼の生活に支障を与えるものではなくなっているようだった。

「ハーちゃん、学校で次のターゲットを見つけたらすぐに教えてくれよ」

 その台詞にハーツの表情が微妙なものに変わる。

「…………」

泣き出しそうな、怒り出しそうな。感情が爆発する手前の曖昧な表情。

「もう、メイドの格好は勘弁してよね」

だけど結局、その感情を全て切り捨てて彼は笑うのだ。


 次の日。ハーツは青空の下、グラウンドを駆けていく生徒達をぼんやりと見つめていた。他人に身体を見られることをブラッドに厳しく禁じられているので、体育の授業は絶対に欠席。制服姿のままハーツはグラウンド脇のベンチに座っている。

 少し離れたところに同じ欠席組のイザームがジャージ姿で座っていた。ざっくりと切り揃えられた長めの髪でカーテンのように顔を隠し、ベンチの上で小さな体を体育座りにしてじっと読書にふけっている。初回の体育の授業で話しかけたが完全に無視されてしまい、それから二人の距離感はこうと決まっていた。

「ハーツって身体弱いの?」

 顔を上げると、いつの間にかリブがジャージ姿で立っている。

「サボりでも服ぐらい着替えろよなー。なあイザーム」

「…………」

 無視されたことをさらりと流し、ハーツの隣にリブはしゃがみ込む。

「お金も無いから買わなかったんだ。健康なら、君は走った方が良いよ。それは幸せなことだ」

「やめてくれよ。持てる者は頑張らねばならぬ、なんて詭弁以外の何ものでもない」

 適当にあしらおうとしたがリブには敵わない。ハーツは諦めてトラックを走りハードルを飛ぶクラスメイトを目で追う。多分自分が出たら先頭から三番目の位置取りかな、などと考えていると、またリブが話しかけてきた。

「なあ、ネクターって知ってるか?」

「え?」

 ハーツはとっさの嘘をつくのが苦手だった。感情を抑えようと思う前に顔に出てしまう。

「身体壊してる奴は、大体知ってるよな、この話」

 ハーツははやる鼓動を抑えて、努めてフラットな調子で返す。とっさの反応は取れずとも、落ち着けばいくらでも嘘を積み上げられる。

「うん。でもあれってお伽噺でしょ?」

冷静に言葉を選びながら、ハーツはとぼけた。

「誰にでも必ず移植適合する臓器を持って生まれてくる人間だなんて、大戦の化学兵器で身体を壊す人が溢れた中で生まれた、妄言のように思えるけど」

「まあな、ネクターっていう名前もいただけねえ。異国の不老不死の果実の名前だとか、ちょっとファンタジーが過ぎるしな――だけど、そいつは確かに存在するらしいぜ」

 どうやらリブは都市伝説の話で盛り上がろうとしているだけのようだ。話題のチョイスもハーツの興味のありそうなものにしただけだろう。頭が良い奴はこういうところが怖い、ハーツは以後気を付けようと心の片隅に書き留める。

「そうなの?ニュースでも見ないけど」

「表に出てくる分けねえだろ。だけどな、論文とかじゃ結構存在が言及されてるらしくてよ。そこだとネクターって言い方じゃなくて全適応性組織細胞とかって言われてるのな」

「そっちの方がわかりやすいね。っていうか論文とか読んでるのリブって!」

「家業の関係でだよ。俺は自分は文系だと思ってんだけどなーすげーめんどくさい」

 戦争商家が?と思わず言いそうになったが、リブほど不躾な物言いは憚られてハーツはそれ以上触れずに話題を引き戻す。

「ほんとに存在するとしたら、みんな喜ぶだろうね」

「当の本人はいい迷惑だろうがな。バレたら一巻の終わりだ。内臓を取りつくされて殺されるにきまってる」

「そうだろうねー」

 適当に相槌を打ちながら時計を見る。あと少しでチャイムが鳴る。肩で息をしながら生徒たちはまだ走り続けている。こんな時にも、ラングス姉妹は手を繋いで走っていた。教師の叱咤もなんのその、細い指を絡めあって、仲良しこよしで同じ速度だ。大きく振られる腕の短い袖口から、二人の白い脇と可愛らしい下着の端がはっきりと見えて、思わずハーツは目が泳ぐ。

「あんまり女子ばっかり見てっと、その内教室で自習にさせられるぞ……んでさ、面白い噂があるんだ。これはニュースになってる。金持ちの内臓が盗まれるっていう事件だ」

「それって、怪盗五臓六腑のこと?」

 それっ、と膝を叩きリブが指差してくる。

「とんでもねえネーミングセンスだよな!センスが有り過ぎて時代が追い付いてねえよ」

「すごいよね。夜ベッドで眠りについて、朝目覚めたら盗られてたってケースもあるとか」

「きちんと盗った後に人工臓器がつけられてるところがまた吃驚なんだよ。安物の大量生産品とはいえそれを繋ぐのにも技術がいる。命はとらねえが臓器はいただく、なんて、めんどくさい事極まりないのによ」

「犯人、全然見当もついてないってテレビでは言ってたけど」

「あれはどっちかっていうと、被害者側が揃って届け出をだしてないんだよな。刑事事件でも届けがなきゃ捜査しないのがこの国の流儀だから、事件があったという噂だけが広まってるんだってよ。ウチの知り合いにも被害者がいてさ、そいつは警察にすら口外せずに隠してたんだ。親父が聞いたところだと『その事でサツに介入される訳にはいかない』だってよ。お前はどう思う?」

「怪しいね――――きっと盗られたものが真っ当なものじゃなかったんじゃない?」

「って思うよな」

 頷くと同時にチャイムが鳴った。

「面白い話を聞かせてくれてありがとう」

「いや、俺も頭を整理するために話してたからよ。やっぱり奨学金枠はそこらのぼんくら息子娘たちとは違うわ」

 手をひらひらさせながらリブが去っていく。青い空に溶けるように水色の髪が揺らいだ。

 ハーツは大きく溜息をついて立ち上がる。歩き出して三歩目で、ふわぁぁと更に大きな溜息が吐き出される。

「……もうちょっと、かっこいい名前にならなかったものなのかなぁ」

 怪盗五臓六腑、なんて不本意で品の無い名前だろう。

 正真正銘のネクターである希少な少年、ハーツは思春期の子供が背負うには重すぎる二つ名の重みに背を丸め、青空の下校舎へとぼとぼと戻っていった。

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