貴方を満たす五臓六腑 04
診療所は街の東の区画にあった。珍しい開業医で、イアの曾祖父によって五十年以上前に建てられたおんぼろの建物で運営されている。だが診療所とは言いつつも、戦時下ではその屋上に大きな赤い十字を刻んで、先代の院長は野戦病棟もかくやという切った張ったの大立ち回りをしたというのは有名な話だ。
「父のおかげだわ。君みたいな怪しい患者を受け入れられるのもね」
イアは横たわったハーツに向かって、油断なく視線を這わせながらそう囁いた。薄いレンズ越しに薄荷色の虹彩が前後左右に揺れている。釣り目の狐顔でブラッドと歳はそう変わらない。見事なまでのワーカーホリックで、か細い身体は戦後に放出されたレーションだけで賄われているというのが患者の専らの噂だった。
「ご近所さんも僕が緊急で運び込まれても毎回スルーしますもんね」
「父が戦時下にこの区画の有力者の一人息子を助けたのよ。徴兵されて胸に散弾を受けて送り返されたときにね。その時の恩義から、うちがどんな客を受け入れても見過ごすようにという空気がこの辺りにできあがっちゃってるの。父が前線に駆り出されて、帰ってこなかった後もね」
だからこそ、ハーツのようなどうしようもない患者も受け入れてもらえるのだ。感謝の念は尽きない。
「うん、もう起きていいわよ。触診もレントゲンも異常なし。換装も成功しているわ。今度のは成長期を見越して人工臓器を選定したから、ぐっと身長が伸びても大丈夫よ。
「ありがたいです。あれはあんまり頻繁に経験したいことじゃないので」
シャツを羽織りながらハーツが苦笑する。
「戻した胃も正常に動いているわ。胃カメラの画像からも綺麗に馴染んでるのが確認できた」
「まあ、もともと僕のですから」
そこに僅かにでも皮肉が混じっていればイアも何か言えたが、その表情からは読み取れず、結局彼女は曖昧に頷いて黙る。
「もう食事制限も解除していいから。ハーツ君の体格なら食べ過ぎるってことも無いだろうし。バランスを崩すことも無いでしょ」
「やったぁ!じゃあひっさしぶりに魚が食べたいなあ。ムニエルにして」
「ならレモンバターソースがいいな」
ベンチに寝転がっていたブラッドが口を挿む。待合スペースでこんな態度を取れば失笑ものだが、生憎彼に自制を促す人目は此処にはない。地下二階の霊安室の更に下、地下三階に設置された此処は、所謂闇医者用の施設だった。彼女が先代からしっかりと受け継いだ、誇り高い仕事場だ。
「ほら、これやるから先買い物してきな」
硝煙の匂いが染みついた紙幣を数枚握りしめ、ハーツはホクホク顔で出て行った。残ったブラッドが、懐から分厚い札を取り出す。
「足りるか数えて」
「ちゃんと耳を揃えてきなさいよ……」
「俺の肩から弾丸を摘出してくれた時と、同じ位の厚みはあるぜ」
「はいはい……あの時あんたが無一文だったら戸外に放り出してさあおしまいって、こんな腐れ縁にも発展せずに済んだってのに」
「地獄の沙汰も金次第ってな」
ブラッドの暗赤色の瞳がいかにも愉快そうに細まる。悪い男の顔だ、そうイアは思った。とてもじゃないが未成年の少年と同じ屋根の下で住まわせるにはふさわしくない。だがこの男が六年前にずぶ濡れになりながら、腹から極彩色の内臓を溢れさせた少年を抱えて飛び込んできたのも事実なのだ。
傲岸不遜、超自己中心的かつ超自暴自棄なこの男が、真っ白な顔で俺の全てをやってもいいから、このガキを助けてくれと言い縋ってきたのも。
そしてイアの予想を大きく裏切り、こうして六年も彼があの子供の面倒を見続けている。
「はいはい、これだけあれば十分よ。あ、入院してた時の荷物、持って帰ってね」
札束が示す先にあるボストンバックを、ベッドの下からブラッドが引っ張り出す。その時鞄に入っていなかった本が一冊滑り出してきた。
「これ何?」
イアはぼろぼろに日焼けした大判の本を指でつまみ上げて凝視する。戦前のものだろう。色あせた表紙に僅かに残るインクの跡から何とか題字を読み取ろうとするが、それも難しくパラパラと中身を確認する。中は日焼けしていたがまだ無事だった。大きな挿絵に読みやすい文字。それは子供向けの絵本だった。
「幸福な王子、だよ」
ブラッドは興味無さ気にちらりと目を向ける。
「路上の古本屋に並べられてたの、ガキの頃、ハーちゃんがどうしても欲しいって言うから買ってやったんだ」
ああ今もまだまだガキだよな、とブラッドが笑う。初見だったイアは、頭から流し読みして眉を顰めた。
「やな話」
町に建てられた、黄金と宝石で造られた王子の像。町で苦しむ人を見かねて王子は友達のツバメに自身の黄金をや宝石を運ばせる。だが全てを与え尽くした王子はみすぼらしい姿だと町の人に疎まれ、最後はガラクタとして冬を越さなかったツバメの死骸と共に打ち捨てられてしまう。そして最後に神に貴い物だとして、王子とツバメは天国に召し上げられるという、単純な自己犠牲賛歌の物語。
「それをな、あいつは時間があれば読んでんだよ」
外れそうなページをなるだけ優しく扱って、掠れた文字や挿絵を何度も指で撫でながら、宝物のようにその絵本を扱うのだ。
「生まれてこのかた、お伽噺はそれしか知らないんだと……きっとハーちゃんの全部が、そこに詰まってるんだな」
「それは重症ね。今度アリとキリギリスでも買ってあげるわ」
「それはショック療法すぎじゃねえ?あ、いでっ!怒るなよ、その角度からはずりいだろ」
「非力なものは容赦なく敵の弱点を突く。定石でしょう」
全く反応できずに本で右側頭部を強打され、苦笑いしながらブラッドはイアから本を取り上げ鞄のサイドポケットに突っ込んだ。
「あんたがやっていることの方が、よっぽどハーツ君には刺激が強いわ」
「そうかな?俺は至極真っ当なことを、実践して見せてるだけさ。誰もハーちゃんに教えなかった――――取られたもんは、自分で取り返すしかないってことをな」
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