第一章

貴方を満たす五臓六腑 01

 夜の帳が白亜の大理石を胡乱な灰色へと塗り替える。豪奢なバロック建築に、似つかわしくない銃声が木霊した。

「ななな……何事だ!?」 

 でっぷりと肥えた腹を揺らして、ヒストマッチはフォークとナイフを握っていた手を、クロスの敷かれたテーブルに叩き付けた。振動で皿に注がれたスープに波紋が浮かぶ。

 豪奢なシャンデリアが吊り下げられた食堂の長テーブルにはずらりと椅子が並べられているが、席に座っているのはヒストマッチ一人だけだ。そしてテーブルの上には、その全てに人が座っていたとしても食べきれない量の料理が広げられている。

 それらは、彼一人の為だけに用意された食事だった。元々食べ切るつもりなど毛頭無い。ただ、欲望を満たすためだけにコックに作らせた品々。木枯らしの吹く建物の外では、路頭に迷った人間達が身を寄せ合って空腹と寒さに震えている。その人間達の惨めさをスパイスにして、贅を尽くした料理を口に運ぶのが彼の至福の時だった。

「何だ!?誰かいないのか!?」

 返事は無い。扉の向こうにいるはずのSP達は何処に消えたのか。苛々しながら尚もヒストマッチは叫ぶ。

「コックでも給仕でも誰でもいい!だれか返事をしろ」

 この最高級レストランにおいて上客の声に、何の反応も無い事は異常事態だ。だが彼の愚かな傲慢さは重石となり、決してその場を動こうとせずにヒストマッチは尚もがなりたてる。

「俺が呼んでいるのだぞ!!」

 すると、長テーブルを挟んだ正面の扉が開いた。一人のメイドが背筋を伸ばし佇んでいる。

「大変お待たせいたしました」

 恭しく長いスカートの裾を持ち上げ深く礼をするメイドに向かって「遅い!」とヒストマッチは持っていた銀のフォークを投げつける。それはメイドに届くことなく絨毯を跳ねた。

「申し訳ございませんでした――お耳に入った通り、少々慌ただしくしておりまして」

 顔を上げたメイドの顔を見て、ヒストマッチはもうひと怒鳴りしようと震わせていた喉を反射的にごくりと鳴らした。窓の外に浮かぶ星月と同じ輝きをもつ珍しい色の瞳が、まっすぐに視線を合わせてくる。丁寧に結い上げた濃紺の髪に縁取られ、小ぶりなパーツで品良く構成された白磁の貌はまだ幼く、黒いベロアの給仕服に包まれたほっそりとした身体のラインと相まって、思わず虐げたくなってしまうような危うい魅力を彼女に与えていた。

「やっと来たか。なんだ、外のガキ共が押し込み強盗でもしたか?」

「そんなところで御座いましょうか」

 表情が豊かな方ではないのだろう、やや強張った顔で無理矢理口角を引き上げる姿もいじらしい。思わず苛めたくなってヒストマッチはわざと声を荒げてみせた。

「なら、さっさと保健所にでも連絡しろ!食事も静かにさせてくれんのかあの貧乏人どもが」

 びくりと肩を揺らして、メイドが再び頭を垂れた

「も、申し訳ございません……!」

「そんな言葉を求めてるんじゃない!!ほら、料理が冷めてしまったろう!!」

 磨き抜かれたローファーを絨毯に沈ませて、メイドがヒストマッチの側に早足で歩み寄る。

「お料理を替えさせていただきます」

「もういい!!雰囲気がぶち壊しだ―――ふぅぅ、それにしてもお前、見無い顔だな」

「今月お勤めを始めさせていただいたばかりで御座います」

「では――すぐに職を失うのは嫌だろう」

「はい……勿論です」

 外は沢山の浮浪者で溢れている。戦後復興はやっと形を成してきたが、それでも給仕の職も取り合うようなご時世だ。それをわかっていて、ストマッチは嬲るように言葉を続ける。

「客に無礼を働かないように、私が教育してやろう。お前は礼の仕方もなっとらん。ほら、もう一度さっきみたいにしてみろ」

「は……はい……」

 戸惑いながらもメイドはスカートの裾を抓み深く頭を垂れて礼をする。カーテシーと呼ばれる丁寧な挨拶の仕草だ。脳紺色の頭を見下ろして、ストマッチが鼻を鳴らした。

「足りないな」

「え……?」

「もっと、裾を引き上げろ」

 メイドは躊躇いがちに膝上まで裾を引き上げる。

「もっとだ」

 太腿が露わになるまで引き上げる。

「もっとだ」

 流石にメイドもそこで気付く。頭を垂れている自分に、ストマッチが今どんな顔を向けているのかを。

「もっとだ、ほら、できるだろう?」

 言葉の裏には脅しがあった。ストマッチはぴたりと固まったメイドを見下ろしながらにやにやと卑しい笑顔を浮かべている。何もできない子栗鼠を苛めるような快感がそこにはあった。

「きちんとお辞儀もできなくて、本当にこのレストランで働けるのか?」

 メイドの肩が小刻みに震えだす。その心の葛藤を想ってヒストマッチの心に悦びが沁みだしてくる。悩んでいるのだろう、怖いのだろう、そして、目の前の金持ちが憎いだろう。だが、この仕事を維持したいのなら必ず最後は心を折って従うはずだ。ヒストマッチは裾の向こうが見たいだけではない、さっきまでの無表情が、屈辱に乱れるところを見たいのだ。

「本当に、ご覧になりたいのですか――?お客様」

「そうだ!いい加減焦らさずに早くしろ!」

 興奮しているヒストマッチは気付かない。その落ち着き過ぎた低い声音と、そこに含まれた僅かばかり揶揄に。メイドは裾を一気に引き上げた。

勝った、屈服した。その快感に背筋を撫でられながら、彼は露わになったメイドの下半身に目を遣る。その瞬間、ヒストマッチの顔色が一変した。

「うぐっ……」

 せり上がってきたものを堪えるように、顔を逸らして口元を覆う。まるで殺人現場でも目撃したかのようなストマッチの反応に、何時の間にか顔を上げていたメイドがせせら笑った。

「お客様、ご気分が悪うございますか?」

 先ほどまでの怯えた空気は一変、慇懃無礼とも取れる優雅な動きで床に落ちた銀のフォークを拾い上げる。その縁をゆっくりと爪先でなぞりながら、うっそりとメイドは微笑んだ。

「僕の身体の味は、どうやら貴方には合わなかったようですね――――」

 蒼白な顔をしてヒストマッチがメイドを見上げる。

「お前――その身体――っ」

 その言葉が終わる前に、大きな音を立てて食堂の扉が蹴り開けられた。傷だらけの黒い軍用ブーツに包まれた長い足が部屋に突き入れられる。開け放たれた扉の向こうの廊下では控えていたはずのSPが二人、屈強な身体をぐったりと弛緩させて昏倒していた。

「ヤーヤ―こんなところでこんばんは下衆豚野郎さん!実物は更に太ってるねえ。ハーちゃん見てみろよ、首の周りにドーナツがついてやがる」

 入ってきたのは焦げ茶色の髪を無造作に後ろに流した長身の青年だった。防音用ヘッドフォンにゴーグルという出で立ちで顔はほとんど見えない。手に持っているのは大口径の機関銃だ。

「何を間の抜けたこと言ってるのさ。ブラッドが遅いから、こっちは変態にスカートの中まで見せる羽目になったんだよ」

「まままままじか!?しまった――!!!ハーちゃんが可愛いすぎるが故にあの豚が欲情することは目に見えていたっていうのに!!大丈夫か?心に深い傷は負ってないか!?」

「――馬鹿?」

 抱きついてくる青年の顎をメイドの膝が手加減して打ち抜く。スカートの裾が上品かつ大胆に翻り、白い太腿がレースと裾の隙間からちらちらと覗くのが目の毒だ。

「こんなに醜い身体に、誰が手を出そうって――いや、手が出せるって思うのさ?」

 九十九%の皮肉と一%の寂寥感の滲むその声に、濁った怒鳴り声が重なった。

「早く来い!!誰か!!おい!!」

 二十人以上の部下を連れてきていたのだ。それなのに誰も主人の危機に駆けつけてくる様子も無い。

「残念。今日はもう閉店みたいだ。さあ、お客様、そろそろ店を出ましょうか」

 大きな銃を工事現場での誘導棒のように軽々と振って、ブラッドがヒストマッチを脅して追い立てる。大人しくなったところを後ろ手に手錠をかけると、突き出た腹でバランスが上手く取れないのかすぐに足をもつれさせて転んでしまう。

「まじかよ。出荷される豚だってもう少し優雅に歩くぜ」

「こーら。豚豚ってさっきから、それ豚に失礼だからね」

 好き放題言っている二人に全く気負う空気はなく、ただ、その青年の持つ銃口だけが微動だにせずにヒストマッチを狙っている。脂汗を流し、目を真っ赤にしたヒストマッチは、肩を揺らしながらなんとか立ち上がり初めてその目に怯えを見せた。

「お、お前達……私を、どうする気だ?」

「やだなぁもう」

 いきなりメイドがヒストマッチの胸に飛び込んだ。

「僕の胃で、たっくさんたっくさん食べ物を溶かして、こんな無駄なお肉にしちゃったんだ」

 白く薄い手をヒストマッチの贅肉に食い込ませながら、うっそりと艶やかにわらう。

「しばらくはご飯が食べられなくてもこれなら大丈夫。さあ、お貸ししていたものを、お返しいただきますよ」

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