金貨・銀貨の発行
馬路玄蕃が南蛮より帰還した際に、オスマン帝国のディナール金貨とアクチェ銀貨を持ち帰ってきた。
この金貨と銀貨を持ち帰らせたのは、当家でも金貨と銀貨を作り、通貨として使うための正当性を持たせるために必要だからだ。
琉球交易によって、津島などを介して銭は増えるものの、新たな家臣たちを召し抱えていることで、銭がどんどん減っており、錫が手に入りづらいことから、将来的に銭の不足に至る可能性が高まっていた。
黒田下野守の補佐をしている松永弾正からも、このまま新たに家臣を召し抱え続けると、俸禄を銭で支給するは難しいと言われる。
わしは、前世である未来の知識があるので、日本で通貨として銅銭を作るのは難しいと思っていたので、密かに御倉衆に灰吹法で銅から金銀を抽出させている頃から、金貨と銀貨は製造させていた。
前世でオスマン帝国の海外ドラマを観て、オスマン帝国に興味を持って調べていたので、ディナール金貨とアクチェ銀貨についても、それなりの知識はあったのである。
元から金銀複本位制にするつもりだったため、欧州の超大国であるオスマン帝国に合わせた金貨と銀貨と同水準の物を作らせ、領内の通貨としようと考えたのだ。
日本では、金銀銅が腐るほど採れるので、錫が必要な銅銭より合理的だし、国際基準に則っているので、日本国外でも使えるはず。
その為、金貨や銀貨の標準含有量である金・銀90%、銅10%の合金を作らせ、金貨は一枚3.4g、銀貨は一枚1.0gとオスマン帝国の通貨と同水準の物を作成させていた。
御倉衆の支配下にある職人たちからは、日本の度量衡だと中途半端な重さな上に、石膏鋳造で綺麗な物を作れと命じたことで、かなり不評であったが。
職人たちも、重さに合わせた枝銭作りが大変だった様だ。
その金貨と銀貨の意匠は、片面は下り藤紋、もう片面は牡丹紋と藤原家や摂関家を意識したものにしている。
かなり出来の良いものが出来たのだが、通貨として使用する正当な理由が無いため、御倉衆の金蔵の中で死蔵されていたのだ。
作った当時は、家臣たちもオスマン帝国なんて超大国があることは知らないし、日本の外で金貨・銀貨が通貨として使われていることすら知らなかった。
だから、いきなり作った金貨・銀貨を通貨として使いますと言っても、家臣たちは相手にしてくれなかっただろう。
南蛮に馬路玄蕃たちを派遣し、重臣たちはアチェや更に西の国々について知ることとなった。
重臣たちは、西の国の通貨である金貨・銀貨についても、馬路玄蕃からの報告で知っている。
当家でも、オスマン帝国にあやかり、金貨と銀貨を使用すると言っても、意見はあっても拒絶はしないだろう。
とうとう、わしが作らせていた金貨と銀貨が日の目を見る時が来たのだ。
中井戸村に重臣たちを集め、オスマン帝国のディナール金貨とアクチェ銀貨を見せる。
以前、馬路玄蕃から報告を受けているので、彼等も目にしていた。
そして、わしがオスマン帝国の金貨と銀貨を模して、金貨と銀貨を作ったことを告げると、重臣たち一同は驚いている。
実際に作った金貨と銀貨を見せると、凝って作ってしまったため、ディナール金貨やアクチェ銀貨より出来が良くなってしまったが、重臣たちは感心していた。
日本全体で銭不足であることと、銅銭を作ることが難しいことを告げ、日本国外では金貨・銀貨が一般的通貨であることから、当家の領内では金貨と銀貨を通貨の一つとして使用したいと言うと、重臣たちは驚きながらも納得していた。
特に文官たちを束ねる家宰の黒田下野守としては、銭が不足する可能性が高まっていたので、金貨・銀貨の使用を積極的に進めたいことだろう。
まずは、当家の家臣たちへの俸禄を金貨・銀貨で支給したい旨を伝えると、重臣たちからも様々な意見が上がった。
その中でも、金貨・銀貨が領内で本当に通貨として使えるのかについてと、実家へ仕送りしているので銅銭払いを希望する者がいるであろうことについてだ。
金貨・銀貨の使用については、東天竺屋では確実に使える様にすることと、両替業務も行うことを伝えた。
家臣たちは中井戸村でも志摩でも、買い物をするなら東天竺屋ですることが殆どである。
東天竺屋で使えれば、領内の他の店でも使える様になるだろう。
そこは、追々、東天竺屋を含めて商人たちを集めて話し合う必要がありそうだ。
実家への仕送りをしていて、銅銭での支給を希望する者については、希望者は引き続き銅銭で支給するつもりだ。
金貨・銀貨と銅銭との組み合わせの支給も可能にするつもりである。
仕送りの必要の無い黒田下野守などの家臣は、金貨・銀貨での支給で構わないとし、京へ仕送りしている平井宮内卿などは金貨・銀貨・銅銭の混在の支給を希望するようだ。
重臣たちも銅銭の不足と金貨・銀貨の合理性を認めた様で、様々な意見は有るようだが、拒絶はしないようだ。
わしは、金貨をディナール金貨の形から「圓」、銀貨は「銭」と名付けた。
また、法定の交換比率は、金1:銀15とすることにした。
この時代の東アジアでは金銀比価だと金が安く銀が高いが、ヨーロッパではローマの頃から1:15らしく、その後の高低の変化はあった様だが、近代では結局1:15程度で落ち着いた様であるから、法定の金銀比価は1:15で良いだろう。
細部は東天竺屋など市場での相場に任せることにする。
相場で金安銀高で金が流入すれば、こちらとしては儲かるしな。
南蛮との交易で、錫が安価かつ大量に手に入っているので、銅銭も引き続き作るつもりだ。
銅銭は金貨・銀貨の補助通貨的な役割になるのが望ましいな。
武田や長尾から交易で金・銀を調達し始めており、家中での金・銀の調達の名分となるだろう。
これで、当家の銭不足に至る可能性も解消されると良いのだが。
わしは、新たに志摩国の分国法として「金銀定書」を制定し、法定の金銀比価や金貨・銀貨などの取り扱いについての法を作ったのであった。
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