E章(矢口アキ)
どこまで話を省略したらいいんだろう。
うん、まずそうだな。
ええと、私が目を離したスキにミズキが部活を抜け出した。
アイツは防具を外していて、着替えとかも持って行ったから、帰ったのかもしれないと思った。
それで私は慌ててミズキを追った。それに関してのてんやわんやは省略しよう。顧問の先生に気持ち悪そうなフリをしたのも、着替える時に袴の裾を踏んで床にすっころんだのも、ミズキのスマホに電話を何度もかけて走り回ったのも、つまらない話だ。
それで、待ち合わせをする事になった。
ミズキは駅前のベンチに座って本を読んでいた。
時間は午後四時を過ぎるくらいで、通りはスーツを着た人や同じ学校の生徒で混んでいた。
ミズキはアタシに気付くと本を閉じて、アタシに微笑み返した。それで、アタシは少し安心した。
「ずっと、考えていたんだ」
駅改札で人が吸い込まれたり排出されたりする様子を眺めながら、ミズキはふと言った。
「君と試合をしているとき、僕の中から残虐な悪魔が顔を出したんだ。恐ろしい程暴力的で、とてもどす黒くて、得体の知れないものだった。君に怒りが湧いた。朝、君はあの写真について、何も否定しなかっただろう?」
「……ごめんなさい。そんなつもりはなかったんだ、本当に、取り返しのつかない事をしてしまった」
「もういいさ。怒っていないし、それに今となってはどうでもいい。」
「…………」
アタシはミズキに顔を向けていられなくなって、駅の雑多な人込みに目を向けた。
土曜日の夕方だからか、出入りするのは複数人の若者だったり親子連れだったりが多かった。
うちの生徒やスーツを着た人は少ない。この辺には高級な商店街やレストランは多かった。彼らはこれからそこに行って楽しい時間を過ごすのだろう。
「あの時、僕の中にくらやみを感じた。暗くて邪悪で、それは四方八方に当たり散らして、苦しみとか怒りとかを解消しようとしていた。君に対してもひどい感情を抱いた。
それは、僕自身だったんだよ、矢口。僕の中に根源的に備わっていたくらやみが、僕が追いつめられたから代わりに現れたんだ。どうしてこんな目に合わなければいけないんだ、どうして皆に自分の見られたくない姿を見られて、しかも信頼していた唯一の友人も守ってはくれないのだろうって。それで後は君の知っている通りだった。
終わって道場から飛び出したあと、自分がひどく惨めに感じた。今まで取り繕ってきた男の自分も、女の自分も、あれは全て僕では無かったんだ。ただ、腐臭をまとってどろどろと穢れ切ったくらやみこそが、僕だったんだよ
君には話したっけ。僕が小さい頃に、父は見限られて家を出ていった。離婚したんだ。彼は母に暴力をふるっていた。僕はそれを非道だと心の中で批判したものだけど、同時にそうなりたいとも思ったんだ。激しく非難する母の顔を殴って黙らせる父は嫌悪すべきと同時に僕の出来ない事を代わりにしてくれたんだ。当時の僕は小さく病弱で、肌が白くいじめられっ子だった。体育の時間に責められる時、僕は女子の方に入りたいと思ったものだった。そうすれば、少なくとも強くあれと強いられる事は無かったから。そして同時に、強くなりたいと思った。嫌いな同級生を皆ぶっ倒して、力で支配したいと。
でも父はいなくなった。父がいなくなって、母はいつも僕に言ったんだよ。『お前にパパの血が流れていると思うと、お前がもしかしたらパパのような人間になるのかもしれないと。』僕は、死ねといわれているんだと思った。母にそんなつもりはなくても、その言葉は僕の存在自体を否定しているも同義だったからね。だから、僕は女になろうとしながらも男も演じ得ようとしたのかもしれない。誠実で謙虚で、紳士的な男をね。あたかも母に見せつけるように」
もしかしたら、とアタシは一つ考えを思いついて、ミズキに質問した。
「ミズキ、じゃあ、貴方の性別の不一致は、生まれつきじゃなくて、ミズキの育ちによるのが原因ってことなの? 元から男が好きなんじゃあなくて、女が嫌いだから男を好きになろうとしたの?」
ミズキは地面から目をアタシに向けた。彼は、顔を歪ませていた。
「違うんだ、矢口。僕は分からないんだ。何もかも分からないんだよ。自分が誰なのかも、どう生きればいいのかも」
「ミズキ……」
「僕が女装をし、男装をするというのは、僕が心の奥底で深く歪んでいるからだと思う。どこまでいっても社会の孤児なんだ、僕は、どこの型にも嵌らなくて、誰の生き方も真似できない。どこへ行っても、これから大学に行ったとしてもぎくしゃくとして、人並みの幸福というものを一生手に入れられないんだ。僕の性別は、いや、人格とか精神性とかが、とても流動的で酷く不格好なものだから」
だからもう、こぼれるよう気を付けるのは疲れた。
ミズキの言葉がぞくりと胸に刺さった。
アタシは、ミズキがどこかへ行ってしまうような気がして、慌ててしゃべりだした。
「アタシは……アタシは、アタシだって、そうだと思う。アタシは女が好きで、男になりたくて、それで男の恰好をしてきたし、これからもそうありたいと思ったんだ。ミズキのその感情は、どこも歪んじゃいないし、誰にも認められないわけじゃない。アタシがいるよ。アタシが認める」
言葉をつげばつぐほど、まるで自分の言葉が嘘くさく聞こえた。
ミズキはそれを見抜いているみたいだった。
「矢口、君はただ、認められたかったんだろう? 君が何者かであるという事を。……さっきの質問、そっくりそのまま返すよ。君が自分を性別の不一致だと思っているものは、本当に生まれつきなのか、あるいは自分に奥深く根付いていたものなのか? それとも君自身がそう思っていたいだけなんじゃないのか?」
はっと虚を突かれた思いだった。
ミズキは次いで淡々と言った。
「自分が自分自身を男だと思っていれば都合がいいから、自分を本当は女ではないと思っていたいんじゃないのか? 女が嫌いだから女じゃなくなろうとしたんじゃないのか?」
ミズキの言葉は、しかし、あながち間違いじゃないような気がした。彼の説明は、驚くべきほどアタシの精神性を説明できていると思った。
「もしかしたら……そうかもしれない」
長い沈黙のあと、アタシは静かに呟いた。泣きたくないと思ったのに、自然と声は震えてしまっていた。
「ミズキの話を聞いて、アタシは、アタシ自身のママについて考えてたんだ。アタシはママを、女である方の肉親を、女であるという事について嫌悪していたのかもしれない。ママは文字通り女々しく泣いていて、そもそもとして親らしくなかった。アタシはママの親らしくなしさを、女らしさとして勘違いしていたのかもしれない。アタシは、ママみたいになりたくないと思った。ママが嫌いなのと体質的な問題を、自分の精神性が男で、女の方が好きと思い込む事で解決していたのかもしれない。
でも、それが何だっていうの? もう戻れないよ。アタシはこれからも男の恰好をしてまともになろうとするし、女の子のハダカを見たら以前と同じでドキドキするだろうね。それでいいし、男も女もどっちも好きになればいい。ミズキだって、男を演じる事も女を演じる事も、別々の事として楽しめればそれでいいじゃない!」
「君のように強い人間であれば、どれほどよかったかと思うよ」
ミズキの事が好きだ、とアタシは言おうと思った。
この世の誰よりも可憐で、
この世の全てのものより繊細で、
これから起きうるであろう幾多もの災厄からミズキを守ってあげたいと思った。
ミズキを骨が折れる程抱きしめて、この日が最期の夜のように愛してあげたいと思った。
彼と共に生き、同じ空気を吸い、同じ土へと還りたいと思った。
しかし、ミズキの悲しそうな目は、そんな好きだという言葉を、寸でのところでつぐませた。
彼の目は地球上の全ての不幸をかき集めたみたいにきらきらときらめいていて、それを見ているとアタシは、ミズキからみてアタシは、地球の裏側よりも遠い位置にいるんだと思った。
「ねえアキ、少なくとも僕は、女装している時は男の君が好きだったよ」
ミズキは昔話をするように遠くの雑多を見ながらそう言った。
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