D章(志田ミズキ)
僕達は社会の孤児だ。
ベッドに入って寝るまでの間、僕は様々な事を考えてしまいしょうがない。今までの事、これまでの事、矢口アキの事、剣道部の同輩である阿川の事。
最近、男として生きる事の息苦しさを、今までよりもずっと感じるようになった。それは、僕が中学校から高校へと上がって、社会に発つ時がより迫ったからだと思う。大学受験まであと二年、それから半年したらもう大学生なのだ。そして、その時にはもうこんな生活はしていてはいけないのだろうとも、思ってしまう(それが誰に決められたルールでもないというのに)。
僕はいつか、自分が男であるか女であるかを定めなければいけない時が来ると思っている。それが二年半後か、それとも就職する時か、あるいは明日かも。その瞬間の事を考えると僕は目眩に似た感覚を酷く感じてしまう。正直なところ、その時の事なんて考えたくもないのだ。
しかしいつかは定めなければいけない。僕のような人間を、世間は煙たがるだろう。人というのは『よく分からないもの』に対し非常に強い恐怖を覚える。歴史を鑑みるにマイノリティに対する人間の嫌悪意識はどの時代でも往々にして悪名高い。
今、寝ている時の僕はどちら側なのだろう、とふと思う事がある。今の意識の僕は、あるいは私は、男性なのか女性なのか、それとも曖昧な状態なのか。そして、実のところ僕はこの状態が怖かった。自分が何者か分からないという事について考えると、僕はやがて激しい不安に襲われてしまう。自分自身でさえも、『よく分からない』自分に恐怖や不安を感じるのだ。
そんな時、僕は阿川の事について考えた。
阿川は剣道部に入ってから知り合った友達だった。とても大柄だが人柄は優しく、チームのムードメーカーだった。彼も剣道を少々経験していたようで、何も知らない僕に色々と教えてくれた。性格と違って剣道では力で相手をねじ伏せるスタイルで戦っていた。体当たりで相手を飛ばし上から竹刀を叩きつけるその強さに、僕は尊敬の念を抱いた。
阿川が僕を抱きしめてくれれば、と強く思う。彼の子供のような笑顔と筋肉質の身体を思い浮かべると、鳩尾のあたりがうずをまいて、吐き気を伴う興奮を感じた。女装をした僕が阿川と手を繋いで通りを歩いている姿も想像した。
女性性としての僕は、阿川の事が好きなのだと思う。もちろんその事自身を、阿川に知られるわけにはいかなかったし、女でいる時の僕を認めてほしいとも思わなかった。阿川は僕に関与するべきではないのだ。しかし、その当然な事実が、僕の心を苦痛に苛んだ。それはハリネズミのジレンマに近かった。近づいてはいけない、しかし求める気持ちは強まる。
矢口アキについてはどうだろう。
最近は彼女についても考える。彼女は異性装という点で共通の趣味を持った、あるいは枷を嵌められたただ一人の女性であった。もし彼女が僕に話しかけてくれなかったら、僕は以前のように孤独な毎日を過ごしていただろう。そういう点で、僕は彼女に感謝してもしきれない。お互い異性装の姿で一緒に歩いていると、不思議とどこか落ち着いた気持ちになった。それは、女性性の自分が男性を求めていたからに違いない。
しかし彼女の家に招かれた時、寸でのところで彼女は男でいる事を拒否してしまった。それは、肉体的な原因ではなく精神的な理由にあると思う。僕自身、あの時彼女にこれから襲われるのだろうという、一種の女性性的予感を感じている一方、どこか白けた自分がいて仕方なかった。
彼女に悪い事をしたと思う。あれからあまり、彼女とは話さなくなった。日曜日に制服を返しにいった時に少々話した程度で、学校では一言も喋らなくなってしまった。彼女は僕に目を合わせようともしないし、僕も気まずかった。
そんな日々が数日続いたあと、終わりは突然やってきた。
木曜日、部活が休みだったので早く家に帰ってしばらくしていた時、スマートフォンに通知がある事に気付いた。
阿川からの連絡だった。
『間違っていたら申し訳ない。けれどこれがもしお前だったら、俺はお前にこの事を教えてやらなきゃいけないと思う。こんな質問はもしかしたらお前は、侮辱されたと憤るかもしれないけれど』
こんな文章の後に阿川は一枚の写真を添付していた。
それは、女装した僕と男装したアキが一緒に歩いている写真だった。
隠し撮り、されていた。
『これはお前か? この写真はどこからともなく回ってきたんだ。正直なところ初出は俺もさっぱりだ。でも隣にいるのは矢口じゃないのか? そう考えると、隣にいるのは志田にみえると噂だ』
身体中の毛穴が一度にぶわりと開いて、熱い蒸気を吐き出していた。耳まで熱くなって、僕は体温が上がっているのを感じた。
バレた。
僕が女装をしているという事がバレたのだ。
パニックを起こしかけたが、僕は深呼吸して気分を無理やり落ち着かせようとする。いや、まだだ。まだバレたと決まったわけではない、そういう疑念がクラスメイト中に周っているだけなのだ。僕はもう一度、添付されたその画像を観察する。
それは、自身の服装から二週間前の写真だと分かった。街路を歩く僕達の顔がはっきりと写っていた。おそらく移動中のところを見つけられたのか、それともその前からつけられていたのかもしれない。
兎も角僕はすぐに阿川に電話をした。阿川はすぐに電話に出てくれた。
「もしもし、志田か?」
「ああ。例の写真の事だけど」
それから僕は一瞬躊躇ったが、すぐ言葉を次いだ。
「あれは俺じゃないよ。安心して」
「そうか! 良かった!」
阿川は打って変わって安心したというように声色を和らげた。どうやら完全に僕の言葉を信じているみたいだった。そういうところが阿川の良い所でもあり悪い所でもあった。
「あれは、どこからまわってきた写真なんだ? 分からないって言ってたが……」
「あの写真は俺の個人的なグループに貼られた写真だったんだ。中学校の同級生で組んだコミュニティに、写真が貼られた。貼った本人は『自分の友達が回してきた写真だ』って言ってた。多分そいつの友達は同じような事を言うだろうけどな」
「……なるほど。それで、どうしてこの女が俺だと思ったんだ?」
「隣が矢口アキだったからじゃないかな」
「何て?」
「だって、お前ら付き合ってるんだろう?」
意味が分からなかった。阿川がさも当然かという風に言うのが理解出来なかった。何故そんな事になっているんだ?
「まず、俺と矢口は付き合ってないし、この写真の男はアキじゃない」
唖然としてしまったが、僕はなんとかごまかす。阿川も幸い僕の言葉を信じたようで、
「そうか。そうだよな」
「ありがとな。連絡してくれて」
「おう」
電話を切った後、僕は何だか無性に腹が立ってきた。『だって、お前ら付き合ってるんだろう?』、何で僕が阿川にそんな事を言われなければいけないんだ?
それに、この問題が解決したとは思えなかった。写真のカップルが僕とアキでないと証明できていないからだ。僕はただ阿川に否定しただけだし、阿川は信じるとしても他の人間はそうは思わないだろう。容疑をかけられた人間が『自分はやっていない』と言わないわけがないのだから。
そして、その嫌な予感は的中した。
その土曜日、僕が道着に着替えて剣道場に向かった時であった。
「やっぱりこの写真は志田なんだろ? 普通なら気付かないが、言われてみればそっくりだからな」
道場から同級生の会話が聞こえてきて、僕は思わず入り口のところで立ち止まった。早く来た一年生の男子と女子が複数人いるようだった。
「でも違うって言ってた。電話で話したし」
部員の一人である山口に対し、阿川が言う声が聞こえる。
「そりゃあ言うだろう。自分は女装なんかしてないってな。それはとても特殊だからな。隣に矢口がいるのが徹底的な証拠だ」
「やめろよ。もうすぐ志田が来る」
「やめろ? 俺たちには話す権利がある。俺らはあいつと何度も一緒に着替えてたし、プールの授業の時も一緒だった。」
「矢口さんがみてる」
「移動教室の時も俺は部屋がアイツと同じだったし、一緒に寝ていたんだ。少なくとも俺は言う権利がある。あいつが俺の事を性的な目で見ていたかもしれなかったんだからな」
「問題なのは分からない事だ。志田がどちら側なのか、聞かなくちゃいけない」
「家永の言う通りだ。なぁ、矢口」
そう言って山口はアキに話しかけた。アキは少し離れたところで竹刀の手入れをしているみたいだった。僕のところからは丁度、アキの姿だけが見える。
「この写真は矢口と志田なのか? なあ、正直に答えてくれよ。俺たちは別にお前らの趣味にどうこう言うつもりもないし、偏見だってないぜ」
「…………」
アキは俯いて黙ったままだった。遠くにいた他の女子が咎めるように、
「黙れよ山口」
「言えよ矢口。お前らが別に女を好こうが男を好こうがどうでもいいけど、俺らは志田とあと二年半は付き合わなくちゃいけないんだ。ここだけの話にしてやるからさ。分からなければ理解できないだろう?」
嫌な気分だった。
背中からわきにかけて嫌な汗でじっとりと濡れていた。
否定しろ。
僕はそう強く思った。
僕達は否定しなければいけない。
普通である事を演じ続けなければいけない。
「…………」
しかし、アキは沈黙を守ったままだった。
――沈黙は肯定と同義である。
「なぁ? そういう事なんだろ――」
山口が言いかけたところで、僕は仕方なしに道場の中へと入った。道場の全員が僕の姿をみた瞬間押し黙った。僕は皆が息を潜める中を歩いて、荷物を置き、竹刀を取り出した。
平然を装って僕は彼らの元へ行った。全員が、唖然としたように僕の顔を見ていた。山口はバツが悪そうな顔をしていた。阿川は困惑した表情で、その中には少しばかりの怖いという感情も入っていたようにみえた。
僕は竹刀に鍔を付けながら、まるで何も聞いていなかったかのように言った。
「何? なんかあった?」
だが僕の意に反して声は弱弱しく震えてしまった。それで、先ほどの会話が聞かれていたのだと彼らは理解した。
幸いにもそのすぐ後先輩や先生が来て練習が始まった。僕は何も考えないようにしようと努めた。稽古に全意識を向けて、ただ竹刀を正確に振る事、姿勢を上手く制御する事だけを考えた。
午前の十時から十二時二十分まで稽古が続いて、それから四十分間昼休みが入った。僕達はいつも通り、雑談をしながら昼食を食べた。同級生は普段通り振る舞っていたが、それはどこかぎこちなかった。僕は、早く一日が終わってほしいと願い続けるほかなかった。
午後は練習試合だった。
気が付くと僕は、眼前に矢口アキを向かえていた。
所定の辺りから三歩進み、竹刀を抜きながら蹲踞。立ち上がり、主審を務める先輩の始めの声の一瞬後、僕は気勢を上げる。
「やぁーーーーーーーッ」
アキも気勢を上げた。
だがいつものような圧迫感は感じない。
攻め込む、揺さぶりをかける。
アキの剣先がひくと反応し、刹那、前に飛び出す――
「コテェ――――ッ!」
出小手であった。アキの面打ちより早く、僕の剣先が飛び出したのである。しかし、
一瞬主審の旗がぴくりと動いた――が、それだけで、一本とは認められなかった。
タイミングは良かったが、当たりが甘かったのだ。竹刀の剣先がぶれて相手の右小手にかするようにしか当たらなかった。今回は審判は一人だけだ。判断は彼一人だけに委ねられる。
僕は小手打ちの勢いのまま、鍔迫り合いに移行する。
がつん、と面と面がぶつかり合った。
面の隙間から、アキの顔がちらりと見えた。
彼女の目はどこかぼんやりとしていて、試合に集中していないみたいだった。
かちかちと竹刀が鍔迫り合いをする。
今朝の彼女の態度がいやでも思い出される。
彼女はあの写真の事を否定しなかったのだ。
僕は少し苛立って強引に鍔迫り合いを解除するよう、彼女の向かって右側の、肩に剣をかける。
彼女はすんなりそれに応じた。
再び竹刀の物打が触れ合う位置まで離れて、
拮抗。
(しっかりしろよ――!)
僕は剣先で攻め込んだ。
押し込み、
叩きこみ、
挑発するように一瞬裏手(向かって左側)に回りこませた。
再び彼女は動く。
小手技!
「コテェー!」
それを竹刀で受ける、再び鍔迫り合い。
――だが普段の鍔迫り合いでの攻防とは打って変わって、アキは優位に立つチャンスを逃す。
(何を、呆けているんだ!)
僕は右手に力を入れて、叩くように思い切り押し込んだ。
ぐっ、
とアキはひるんだ、勝機。
「メェエーーーーーーーッッ!」
咄嗟に床を蹴り竹刀を振りかぶった!
僕の引き面だ!
彼女は竹刀で受けようともせず、
剣撃が叩き込まれた。
審判の旗が素早く上がる。
「ハァ、ハァ……」
アキの息遣いが聞こえた。
起きた事が信じられないというみたいにその場に固まっていた。当然だ。
剣道を初めて半年のもやしに、何年も鍛錬を積んだ自分が一本を取られてしまったのだ。実際、僕自身もアキから一本を取った事は一度も無かった。ただこの場合は完全にアキの油断が原因だった。
僕達は開始線に戻る。
眼前から圧を感じた。
アキの殺気だ。
肩をいからせ、今にも爆発しそうに構えを取っている。
「今更、かよ」
聞こえないよう呟いた。
僕の苛立ちも、一本を取っただけでは収まらない。
頭の中で、詰問に対するアキの沈黙がずっとリフレインしていた。
僕達の異性装は気付かれてはいけないものだった。
暴かれてはいけないものだったのだ。
なのに、彼女は否定しなかった。
「はじめ!」
審判の声が上がる。考え事をしていた僕は飛び出してきたアキの剣撃に不意をつかれる。
「ツキャァアアアッッ」
出鼻にアキが突きを放ったのだ。
何とか対応しようと身体を後退させた。
竹刀は咽から外れて、首の右側に突き刺さった。
激痛が走る――アキはその勢いのまま、竹刀を強引に引き抜いて、体当たりを放った。
うげっ、と声を上げてしまう。
それは体当たりというより刃元でどつくというほうが正しかった。
バランスを崩してよろめく僕に、アキはさらに押してくる。
「ふざけんなよ……」
小声でアキが言った気がした。
アキは鉄鋼の格子の間から、悪鬼のような形相で僕を睨んでいる。
鍔迫り合いはアキの激しい力に耐えるだけで精いっぱいだ
「お前が、悪いんだ」
僕は審判に聞こえないよう、小声で返した。
それが、アキの逆鱗に触れた。
アキはもう一度凄まじい筋力で「どつい」て、僕の態勢を崩し、
「ドォオオオオッ」
後退しながら相手の右胴を打つ――引き胴を、外した!
太ももに竹刀がぶち当たった!
火花が散ったかのような刺す痛みに、思わず膝をつきかける。
わざとだ――!
僕は絶句する。わざと痛めつけるために剣撃を外したのだ。
アキの追い込みはそれだけでは終わらなかった。
「メェェエエヤァッッ」
それから激しい連撃が始まった。
僕は、例えるならボクサーにラッシュを叩きこまれるサンドバッグだった。目にも止まらない――それは文字通り、目で捉えられなかった――一閃が、辛うじて躱した瞬間、さらに一撃をやってくる。
「コテェーーーッ!」
まるで玩具だ。
左頬を竹刀で殴られ、よろけながら、さらに突きが入った。
防御に入るもあまりの素早さに混乱、数多の攻撃と痛みの中、僕は意識を朦朧とさせながら、その中に泡のように浮かび上がる恐怖を感じる。
「止めッ」
審判の先輩が旗を上げて言う。彼女の放ったどこかの一撃が、おそらくは一本に入ったのだろう。声が放たれてもアキはとどめと言わんばかりに竹刀を面の側面に叩き込んで、僕は無様に押し倒された。
床に倒れ込み、嫌に冷たく感じた。
辱めだ、と思う。
アキは早く立てよ、という風にくるりと背を向けて開始線に戻った。
はぁ、はぁ、自分の呼吸が煩く感じる。
志田、大丈夫か、先輩が見下ろしながらそう言って手を差し伸べようとした。僕は拒否するように、無理やり立ち上がった。一人で立てます、と言おうとしたが、発音されず、口の中でもごもごとするだけだった。
立ち上がると、道場がやけに静かに感じた。
見回すと、部員のほぼ全員が、僕らを見ていた。
僕らの試合を啞然として見ているようだった。
なんだよ。
おれとアキの関係がそんなに気になるのかよ。
屈辱だった。朝の事件が脳裏で何度も繰り返された。アキの裏切り、友達の憐れむ目と、その中に潜む軽蔑。
みんな女の姿になる僕を軽蔑しているんだ、と思った。そんなわけない、皆驚いているだけだ、アキの豹変ぶりに、そう思おうとしたけど、無理だった。朝にあんな事件が起きて、僻むなというほうが無理だ。
誰も僕を理解してはくれなかった、あのアキでさえも。
『ミズキにあの男の血が流れているのだと思うと。ミズキが将来あの男のようになるのだと思うと』
あの時の忘れられない母の言葉が、リフレインの隙間に挟み込まれた。
道場内からは、まるで世界から音という音が全て奪われてしまったみたいに、静まり返っていた。僕は開始線までよろよろと歩き、重く気怠い左腕を何とか奮い立たせる。
何故こんな思いをしなければいけないんだ。
ふとそう思った。
それは気付いた瞬間、むくむくと膨れ上がってあっという間に僕を支配した。その泡と泡の隙間に、泣きたくなる程理不尽な怒りが満ちていくようだった。
それから一つの考えが浮かんだ。きっとアキは、あの時僕を犯せなかったから、逆恨みしているんだと思った。アキは男になりたがっていた。それは世界に合致するためなのだと。自分は男にならなければ人生が解決されないのだと。
胸が潰れてしまうような苦しみを感じる。アキへの暗い怒りが僕を支配し始める。アキはあの時男を演じられなかった。それは逆に言えば、僕を女として認めてくれなったという事を示唆していた。
アキが朝、写真の人物について沈黙を保ったのは、僕への『反発』だったのだろうか。
もしかしたら、と思ってしまうと、その気持ちは止められなかった。
アキは逆恨みで、僕を裏切って、あの時否定しなかったのだ。
そう気付いた時、僕の精神の奥深くから、ヘドロのようにどす黒く悪臭を放つ怒りが湧き出て、そして自分を支配した。全身中の毛穴がぶわりと開いて、脳髄が茹で上がる程熱くなった。それは一種人類において根源的な怒りだった――赤子が母親に裏切られる時の、あの泣き叫ぶような。
竹刀を、構えた。
「はじめッ」
気勢は上げない。既に脳髄は暴力的な欲求で満たされていた。
アキが竹刀を振り上げるより早く、小手を放った。
アキの手首を叩き折ってやろうと思った。剣先は一度彼女の右小手に重撃を叩き落とし、しかしそこから残心へと移らなかった。
脚だけが正しい所作をした。
突進に合わせ、剣先はアキの右腕に突き刺さった。
そのまま、貫けばいいと思った。構わず力を入れる――彼女は耐え切れず右手を竹刀から離し勢いを逃す。
小脳から現れているような原始的精神状態に、自分はあった。どんなに手を尽くしてアキに残虐行為をしようとも、足りないと思った。胸の奥の暗い闇から悪魔よりも恐ろしい者が自分に囁いた。叩け、打ちのめせ、痣を現せろ。
アキの胸に鍔と小手から体当たりした。
今までは有り得ない程力が湧いて、アキが普段ではありえないレベルでよろめいた。
半端に距離が開き自分は引き技の態勢に移る。
宙ぶらになった相手の竹刀を強引に叩き落とし、その反発力で自分は竹刀を頭上まで振りかぶった。
相手のそれは左手から離れないまでも、たたき落とされて剣先が床に当たりばちん、と音を立てる。
外せ。
悪魔よりも恐ろしい何かが耳元で囁いた。
その方がいい、と思った。
自分は、数秒間とはいえあの、強くて先輩ぶったアキを圧倒しているのだという状況に、胸が躍る程興奮し、愉悦を感じた。
どこかで声がした。これまでの人生で無かったくらいの、自身の狂暴性に怯え、止めようとする昔の自分だった。
どうでもいい、と思った。
「メェエエッ」
自分は暗闇の声に従った。
引き面はアキの頭をかすって、左肩に叩き落とされた。
どすり、と鈍い音。
アキが小さく、アッ、と声を上げる。
ピピピピッ、時間を測っていたタイマーの音が鳴る。まだだ、終わってない、自分は残心を短く取って素早く竹刀を構えた。
時間です、と測定係の声が聞こえる。
アキは意地とでもいうふうに中段に構えなおそうとしていたが、力弱く無防備。
背中のあたりでエンジンが黒い煙を上げて大きく唸りを上げていた。
アキの喉元は無防備だ、そこに戦略だとか技術だとか、冷静な分析は無かった。
アキを徹底的に沈めるという暴力的なエネルギーがぐらぐらと沸騰していただけだ。
突け、喉垂れがひん曲がって、アキの喉頭やその奥の気管、頚椎を叩き割るくらいに。
左足に力を入れる。両手に力を入れ、僕は飛び出して、アキを突こうとする――
「止めッ!」
瞬間びくり、と身体が強制的に止まった。
審判の声が響いたのだ。
試合が終わったのだ。
……一秒か二秒か、お互い僕達は構えを解かなかった。
先に剣先を下したのは僕の方だった。
それでもアキはしばらく構えたままだった。
しかし、やがては竹刀を下した。
「引き分けッ」
先輩がそう言って僕達は礼をした。五歩下がって試合が完全に終わったとなると、再び道場の空気が戻った。和気あいあいとする場内。
酷く気分が悪かった。
もうここにはいたくない、と思った。
剣道をするのも、日常に戻るのも、もううんざりだった。
それは悪寒のようなものと、自己嫌悪、そして暴力性の残滓が身体のあちこちに沈殿していたせいだった。
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