C章(矢口アキ)
道着と袴を着て、正座をし、防具と面を付けた時、
アタシは徹底的にキモチが高揚する。
剣道の試合で、相手に対面し、気勢を上げるその瞬間、アタシは『合致している』と思う。
その時、相手とシノギを削り、痛みを感じ、精神をぶっつけ合わせるその瞬間、アタシは本当に生きている、あるいは『正しい』と思うんだ。
剣道を始めたのは中学生の時からだった。何故ならそこが男女混合の、しかし男子比率が高い部活だったからだ。他のところは、バスケ部しかりテニス部しかり、女子と男子で別れていた。それに女子とのチームプレイというのが、そもそもアタシには合ってなかった。
「それは貴方が本当にしなきゃいけない事なの?」
剣道部に入りたいってママに言った時、ママは否定の意思をすぐに見せた。
ママはそういう人だった。
ピアノにバレエに。
色んなおけいこ事をアタシにやらせようとした。
アタシはハナからそういう事には向いてなくて、すぐやめちゃったんだけど、ママはそれにいつも『どうしてこんなに育ったのかしら』と小言を言った。
ママからすれば剣道なんて、奇声を上げて野蛮に棒切れで戦う危ないゲーム。
反対するのも無理はない。
「本当にやりたいと思っている。ねぇ、そうやって一々言われないとアタシは何にもさせてもらえないわけ?」
中学一年生の春、私は反抗期まっさかりだった。そうでなくても、何でもかんでも頭ごなしに否定してくるママには腹が立った。
「違うわ。私はアキに危ない事させたくないし、女の子らしくしてほしいって思ってるだけ」
「『女の子らしい』って言わないでッ!」
私は怒鳴った。それは何度も聞いた言葉だった。でもそうやってアタシがキれたらママはやがて小さく泣き始める。いつものこのパターンだった。
アタシはすぐ泣くママが嫌いだった。
泣けば許されると思ってるからだ。パパとケンカしている時も、アタシが言う事を聞かない時も、不幸な事があった時も、ママはすぐ泣いた。
たぶん、生まれてきてからずっとそういう事をやって、今まで問題をやり過ごしてきたんだろう。
だからアタシはママを軽蔑している、彼女は旧態依然な『弱い女』を演じ続けている人間だから。
世界に合致しなければならない。
あの日――女装したミズキと初めて話した後、家に帰ってもアタシの心臓はバクバクとなり続けて治まらなかった。
彼――いや、彼女の手の温かさが脳内から離れなかったし、数時間前の事を思い出すと今すぐ外へ飛び出して、何十キロも走り抜けたい気分になった。
異性装をする人間と初めて(異性装について)話す事ができたというのも高揚の理由の一つだ。女のカッコをしたくなく、時折女を征服したくなるという、アタシのドス黒い心の問題に、アタシは今まで孤独でシリアスに付き合ってきた。そんな問題を共有し、解決させてくれる人間が目の前に現れたんだ。アタシを認めてくれて、アタシを独りにしない人間が。ミズキはそうなってくれるかもしれない人だった。
嬉しくならないワケがないだろ?
でもそんな事より、アタシを興奮させ激しく混乱させる事があった。
それはミズキと手をつないだ時、アタシは人生においてこれまでにないほど深く、熱く『合致した』という事だったんだ。
もちろん同年代の異性・同性と手をつないだことなんて数えきれないほどある。その時に何か特別な気持ちを抱いた事もない。
だが『男装』している時に『女性』と手をつなぐという事は初めてだったんだ。大体アタシはミズキと対面した時からドキドキしぱなっしだったんだ。何にも気にしてないフリをしてたけど、本屋とか雑貨店を横並びで一緒に歩いている時も、これはデートみたいだな、と意識してしまって脳ミソをゆであがらせてしまってた。そして、手を繋いでまるでカップルみたいに歩き始めた瞬間、その感情は最高潮に達した。
同時にアタシは一つの真相を導き出した。
女といれば、男になる事ができるのだ。
「そういえばさ、トイレってどうしてるの?」
「トイレ? あぁ男子用か女子用かって?
……行きたくなった事は無いけど、とりあえず多目的んところみて、空いてなかったら男子トイレに入る」
「男子トイレでおしっこするの?」
「バカ、ちゃんと個室に入るっつーの。お前は? ミズキちゃんはどうしてるんだよ」
「……多目的があいてなかったら、我慢してる。実のところ、漏らしそうになった事は何度かある」
「バカだなァー、女子トイレ行ったってバレないから安心しろって」
「でも矢口さんにはバレたよ」
「……まァ、アタシは元々男装してたから、敏感だったんだよ」
アタシとミズキはそれからたびたび、お互いに異性のカッコをして外に出、一緒に遊ぶようになった。
ミズキは女装して、アタシは男装して、ゲーセンだったりカラオケだったり、ファミレスに何時間も居座ってただおしゃべりしたりした。アタシは男装用の服なんてほとんど持ってなかったから、毎回似たような恰好だったけど、ミズキは毎回全く別のファッションをして現れ、その度にアタシを驚かさせた! ふんわりと広がるロングスカートだったり、首まで伸びた襟の耽美なシャツだったり、錯視を利用して身体のウェストが細く見えるワンピースだったり。
その度にアタシはまるで初めて青空を見る事ができた盲目の少女のように胸が熱く高鳴ったよ。
女装している時の志田ミズキは振る舞いや口調、さらには性格までというくらい女性らしくなっていた。
学校の時とは打って変わって、彼女はおしとやかに、そして時折刺激的に振る舞った。
歩き方から振り向き用まで、本のページを繰る一瞬一瞬に、繊細で、触れたら壊れてしまいそうな印象を受けさせた。それが守ってあげたい、儚い花弁を想起させる。
だから彼女は美しいんだと気付く。アタシはそこにエロティックなイメージさえ描いたんだ。
何度か出かけるうちにアタシたちは、ガッコウのクラスメイトが想像もしないくらい親密になった。
それはあくまで友達としてだったけど。
ミズキと手をつなぐ事は、暗黙の了解となっていた。
ミズキもアタシと、つまり男である矢口アキと手をつないでいると、こころが落ち着くんだと思う、たぶんね。少なくともアタシはそう思いたい。
それはある日、そうだな、最初に女装したミズキと出会ってからおよそ一ヶ月と半月くらい後だった。
ミズキがメイクについて少し詳しく知りたいと言った。
実際に矢口さんに教えてもらいたいな、って。アタシも男性のファッションを色々試したいなとか思ってたから、じゃあ今度ウチに来なよ、と言った。
そういうわけで土曜日、ミズキがアタシの家のくる事になったってわけ。
当日十時過ぎに駅に現れたミズキは、地味なトップスにミニスカート、黒いタイツに顔はマスクとロングヘアといういで立ちだった。
目だけちょっといじってるみたいだったけど、普段より化粧は薄いって感じだった。
そして手には大きなキャリーバッグ。結構な大荷物だったんで、アタシがミズキの家に行けばよかったね、って言ったら、私の家はちょっと空いてなかったから別にいいよ、と言ってくれた。
前に彼女が少しだけ話してくれたけど、彼女の親は結構前に離婚してて、今は母親と二人暮らし、たまに年の離れた姉が来ると言っていた。
とかく、駅から五分くらい歩いて、アタシは我が一軒家に彼女を招いた。
玄関に上がって、アタシたちは二階へと上がる。
「父さんと母さんが一階にいるけど、別に挨拶とかしなくていいからね。トイレも二階にあるから降りなくていいし」
アタシがそう言うとミズキはこくりと頷いた。
それで、アタシの自室に一緒に入った。
部屋は昨晩必死に掃除をしたおかげで、一応はきれいなふうを装っていた。ドアを背にして左側にはマンガが順番に並んだ本棚と布団がぐしゃぐしゃになってないベッド。枕元にはクッションまである。
右手には勉強机があって(ほとんど使ってない)、それから奥にカーペットがしかれたくつろげるスペースがある。その真ん中には小さい木目のちゃぶ台を置いて、奥の角にはテレビとゲーム機を置いてある
いつも格闘ゲームに使ってるアーケード・コントローラーは恥ずかしいので隠した。
テレビでくだらない土曜午前の報道バラエティを見ながら、最初にミズキがアタシに、持ってきてくれた服を見せてくれた。
「男装女装っていうと現代よりの文化だと思うけど、実は太古の昔からそういう『異性装の文化』っていうのは存在していたんだ」
ミズキがキャリーバッグから出したのはきっちりと折り目がついた新品のスーツだった。アタシは見慣れないそれに目を奪われながらも話に答える。
「太古の昔?」
「日本で言えば八世紀初頭の古事記に、登場人物が悪者を倒すため、女に成りすましてスキをついたという話がある。悪者が自分の家で宴を開くんだけど、そこに女装して入り込んで、油断したところに主人公が剣を悪者のお尻に突き刺すの」
「どこかで聞いた話だな」
アタシは上着を脱ぎながら言った。今のアタシは男装状態だから、服を脱ぐ事にあんまりためらいが無かった。一方ミズキは少し目をそらしながら話を続ける。
「古典だからね。女装をして普段は入れないところに入り込むというのは、青砥稿花紅彩画という歌舞伎の演目だったり、あるいはシェイクスピアが書いたヴェニスの商人では、ヒロインが男装して裁判を上手く解決に導くという話もある」
アタシは薄着姿になってミズキからワイシャツを受け取る。
「裁判? なんで裁判に男装して入るのさ」
「当時は裁判は男性限定だったの。お話ではポーシャというキャラクターが、正確には法学博士として、夫の友達を助けるために裁判に行くんだった、確か」
「やれやれ」
アタシはボタンを留めながらかぶりをふった。「まあアタシにとってはそっちの方が楽だったかもしれないな、いや、女が裁判に入れないのはクソだけど」
「どういう意味?」
アタシはミズキからネクタイを受け取って言う。
「この現世ではさ、男装というのがとても難しいんだよ。何故なら大抵の男がしている恰好は、女も普通にできるからな。例えばこの前クラスの安田が、私服にジーンズにパーカーを着てたけどさ、そういうのは女が着ててもあんまり違和感がない。スカートとか帽子とか『女限定のファッション』は数多くあるが、それに対して『男限定のファッション』っていうのはめっきり少ないんだよ……ねぇ、これ、どうやって結ぶんだよ」
ネクタイの扱いに困っていると、ミズキはアタシの背中に回って後ろから手をまわしてきた。
「こうやって結ぶの」
ミズキは器用に背中越しからネクタイを結び始める。それから、
「確か正装については、男装も女装も等しく定まっていた。けれど、性的指向については実は女装をする男性と、男装をする女性とでは対称ではなかった――あっち向いてたほうがいい?」
アタシがズボンの方を履き替えようとしたので、慌てたようにミズキは言った。
「どうせ気にしないよ。それで、話の続きは?」
「本によればね、現在に至るまで映画や漫画など男性・女性の性自認について描いた作品は、それこそ無数にある。けど、意外なところがあって、女装をした男性の性指向は女性・男性と様々だけど、男装をした女性については、大抵その恋愛対象は男性であるという事なんだよ」
「それはつまり、物語上にレズビアンが現れるケースはレアって事?」
「そうなんだ」ミズキはアタシにベルトを差し渡した。「そして結末はいつも『男性との幸せな結婚』で締めくくられる。『お気に召すまま』『リボンの騎士』『ムーラン』、もちろん例外はあるけれど、男装をして活躍したあとは父のもとに戻ったり夫と結婚したりして大団円」
「そして二人の夫婦は営み給われ、子宮に精液が恭しくも注ぎ込まれる」
アタシはそう皮肉を言いながらくるりと回って見せた。姿見にはサイズはあってないが、背伸びしたスーツ姿の少年が写っていた。
「ねぇ、似合ってる?」
「うん、とても似合ってる」
「生理が酷い女は妊娠してからの、つわりも酷いのかな」
「さあ、読んだことはない」
「生理が欲しいと思ったことはある?」
「私にとっては性別を演じる事が重要なんだ。肉体の中身の機能についてはあまり関心が無い」
「中身の機能」
アタシは彼女の言葉を繰り返した。『性別を演じる事』?
「それに私はよく分からないんだ」
ミズキは首から鎖骨を撫でた、まるで何かのしるしをつけるみたいに。「生理についての痛みも、気配も、悪意も」
「ベトナム戦争のゲリラ兵」
「なんて?」
「ベトナム戦争でいたようなゲリラ兵のように獰猛で雄健、汚らしい言葉を叫びながら嵐のように敵の腹にナイフを突き刺す。生理の感覚についての私の小論文」剣道の突きをする動作を空手でしてみる。
「そして大量の血だまりと死体と共に眠る」
ミズキはそれをさばいて笑って見せた。
軽くご飯を食べてから、アタシはミズキちゃんにお作法を教えてやった。メイクってのは絵を描くようなものだとアタシは言ってやった。
顔の部品に適切な色を置いてやれば、自然な見た目になる。青色という人体に一見そぐわなさそうな色でさえ、適切に使えば人間の色覚を騙す事ができるんだ。
実のところ、ミズキは誰から教わったのか分からないけれど、その点をよく理解していた。
それよりもミズキが目を光らせたのはアタシが持っている洋服の数だった。
ほら、ママはアタシに女の子らしいカッコをさせたいって、無理くり服を用意させてくるんだ。
アタシは休日そんなに(男装以外で)外には出ないから、可愛らしい服たちが悲惨にもクローゼットの中でほこりをかぶっている。
そこから何着か広げてやると、ミズキは見たこともないというふうに熱を帯びたみたいだった。
ミズキは服を色んな組み合わせで着ては、くるりと鏡を見て楽しんでるみたいだった。
アタシはその様子を見ながら、なぜか、どこか冷めた気分になっていた。
女の子のように生き生きとしているミズキを見ると、どうしてもママの事について想起してしまうんだよね、『ママはきっとこういう娘が欲しかったんだろうな』って。
そういう事は、頭の中であっても考えるべきではない。『もしママの娘がミズキで、ミズキの息子がアタシだったなら』なんてたられば話、なんの生産性もない。それにミズキにも失礼だ、ミズキにはミズキの家庭があるし、まがいなりにもアタシにだってパパとママがいるから。
一通り満足したミズキにアタシはいらないから、って何着か洋服をあげた。実際、いらなかった。
服を手に取って無邪気に笑うミズキは、今まで見たことなかったし、端的に言ってかわいかった。頬をほころばせて、屈託なく喜ぶ彼女を受けて、アタシはその時はっきりと愛おしいと思った。
アタシは、最後にお互いの制服を着てみようと言った。
それは、事前にミズキと約束していた事だった。
ミズキのキャリーバッグの下には、見慣れた男子用の制服一式が入っていた。
アタシたちは背中合わせに着替えた。
衣擦れの音が、妙に腹のあたりを熱くさせた。
女子の制服姿のミズキは、どこにでもいるような普通の女子高生だった。
バレない程度に髪を染め背伸びをしたメイクをし、校門から少し離れたところで彼氏を待っているような、ごく普通の高校一年生だった。
それからアタシは姿見で自分の姿を見た。そこには、本来アタシがなるべきだったアタシがいた。
男子生徒として学校に通い、男として振る舞い、そして同級生の女の子に恋をする、普通の学生生活を満喫する、いや、すべきだった本来の矢口アキがいた。お話に描かれるような青春というものに対し、アタシはコンプレックスを持ってたんだと思う。アタシは女が好きだし、自分は男子生徒であるべきだと思っていたから。だからこそ、女子用の制服を着るたびに、首筋に氷を当てられるような嫌な感覚を感じた。
でも、この恰好でいると、アタシ達は今日初めてそういう正しい青春ができるのだと思ったんだ。
初めてアタシたちは普通の青春というのを味わえるのだと。
世界に合致しなければならない。
アタシはベッドにミズキを押し倒していた。
両手首を押さえつけ、仰向けの彼女に馬乗りする形だ。
「ねぇ、射精するときってどんな気分?」
不思議と、ミズキは柔らかな表情でアタシを見つめていた、まるでこうなる事が運命だったかのように。
痣ができるほど手首を強く締められているのに、ミズキはなだめるようにアタシを見て、
「無数の星々が散らばった夜空の下で、辺り一面何もない荒野に寝そべりながら、真綿で首を絞められて死んでいく、痛みと無力感」
それから小さな唇を震わせた。
アタシは応える。
「とても素敵だ。一緒に死にたい」
あの時の男のように、アタシは男にならなければないない、
あの時ママを犯していた男のように。
アタシはアタシ自身を認めるために、世界に合致しなければならない。
「私たちは」
ミズキが口を開いた。
「私たちは社会の孤児だ」
アタシも小さく呟く。
「世界に合致しなければならない」
パパとママは普通の夫婦だったと思う。仲は良くなかったけど、悪くもなかった。むしろママとアタシの方が仲が悪かった。ケンカばかりしていたし、高校一年生の今でもアタシが剣道をやる事を不服に思っている。
中学一年生の秋の頃だった。中学校の時の剣道部は結構ガチで、土曜日は一日中稽古をやっていた。朝八時半から始まって、昼飯のあと、四時に終わる。
けどその日は中学校だか体育館だかの事情で、その日は丸々稽古が休みだった。アタシはその事をすっかり忘れていて、まぬけにもその日も同じように登校していた。
もぬけの空になった剣道場を見て、あれ、今日は休みだったんだけ? と思い出したよ。
当然ママにはその事を言ってない。練習が無くなった事を嬉しく思いながらも、家に帰るのは億劫だなと考えていた。当然のようにママはお弁当を作ってるし、そのまま帰ったら『わざわざ弁当を作ったのにそんなことも忘れていて』と文句を言われる、当時のアタシはそう思って、それで適当に時間をつぶして十一時くらいに公園でお弁当を食べた。それから十二時になるのを見計らって、家に帰って玄関をそおっと開けた。バレないように二階に上って、携帯ゲーム機を取ろうとしたんだ。その後再び家を出て、外で遊びつつ、定刻通りに帰ってくればいい。そうすればバレない。
玄関に知らない靴があった。男用のスニーカーだった。見たこともなかったから一目でパパのじゃないと思った。
何か不吉な気分を感じた。
家に上がって進むと、リビングから声が聞こえた。
ママの嬌声だった。
アタシは引き戸の隙間から、中の様子を息を潜め伺った。互い半裸の状態で、ママとどこかの男がまぐわっているという意味を、当時でもアタシははっきりと理解した。
男が誰かは何となく分かった。ママと一緒に通りを歩いてた時に少し挨拶した、ママの知り合いみたいだった。どういう経路で彼とママが、娘と夫がいない時を見計らって浮気する関係になったかは分からないけど、少なくともその時のママはママじゃなかった。
母親としてのママじゃない、ただの女であり、動物のように悦ぶちっぽけな器だった。
「君はとても素敵だ」
男は何度もママにそう言っていたと思う。男はママの両手首を、それぞれの腕で掴んで押さえつけていた。それを、ママはむしろ喜んでいたように見えた。
それが家族への裏切である浮気行為である事よりも、がっしりとした身体つきの男が、女であるママとまぐわっているという光景自体が衝撃的だった。それは、ただ親類がセックスしているという意味ではない。
その光景は、とてつもなく世界に合致していたのだ。
男がママを征服している様子は、アタシの欲求を代わりに達成してくれてるみたいだった。
いつも小うるさく、女らしくしろ、女らしく生きろと迫るママを、制圧し、力でものにする、男はママという女性を否定し、そしてその部分すらも包括するように見えた。
アタシは音を立てずに家を出て、近くの公園で何時間も泣いた。
それから数日後の事である。
何かの訃報のようにアタシに初潮がやってきたのは。
どれほどの時間がたっても、アタシはその状態から次のフェーズに行くことができなかった。
何時間も、ミズキの上に馬乗りになっていた気がする。
身体は炎のように熱く、背中には大量の汗で下着が張り付いていたが、それから何をするかについては全てわかっていた。
しかし出来なかったのだ。
そうしようとしても身体が動かず、まるで血管に鉛を流し込まれたみたいに悪寒を感じ、身体が固まってしまった。
位置の都合で、アタシはミズキの腰あたりに尻を付けていた。だが、悲しいやら良かったやら、いつまでたってもミズキは勃起しないみたいだった。
途中でアタシは、ミズキに勃起する感覚について聞いておけばよかった、と思った。
そうであったならこんな時に冷や汗をかく必要もなかったのに。
十五分と四十秒が経ったあたりで、アタシは諦めて、手を放してミズキから退いた。
「帰って」
気分が悪かった、もう何もかもどうでもよかった。
そんな気持ちで、アタシは言った。
ミズキはしばらくアタシの方を心配そうに見ていた。
それがむかついて、アタシは大声で怒鳴った。
「帰れ!」
それで、ミズキは何も言わず、帰りの支度を始めた。自分のと、アタシがあげた服を素早くキャリーバッグの中にたたみ入れる。
途中で、そういえばアタシはミズキの制服を着ていたんだった、と思ったが、その瞬間ミズキが疑問を感じ取ったみたいに
「制服は明日返せばいい、日曜日だから」
「……うん」
「……この恰好で下に降りたら君の親に怪しまれるかもしれない」
「別にいい、ママはいないし」
ミズキはアタシを見た。アタシはさっきから体育座りでうつむいて涙をこらえてばかりだった。
「嘘ついたの。パパは仕事だし、ママはどっか行ってる。本当はこの家には親はいなかった。親がいないって言ったら、アンタ、襲い掛かってくるかもしれなかったから」
それからアタシは、自分がとてもバカな事を、ミズキにひどい事を言ったと思って、ついに我慢できず泣き出した。
ミズキは黙って部屋を出た。それから数十秒後、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。それでアタシはさらに悲しくなって、何時間も泣いていた。
まるでママみたいだな、と思った。部屋にはいらない洋服が何着も床に散らばって見苦しかった。
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