B章(志田ミズキ)


 僕が女装をしないと精神の安寧を図れないと確信したのはいつ頃からだろうか。

 僕が姉に、彼女の化粧道具を漁っているのを見られたのは小学四年生の秋だった。

父親がいなくなってから、僕は情緒不安定になっていた。あの頃は父も母も毎日喧嘩していた。それにもともとの問題として、僕は生まれた時から、自分自身が男なのか女なのか分からなかった。

 身体は男だったが、肌は異様に白く、普通より運動できないほどひ弱で、よく風邪をひいた。男子のグループにも入れず、かといって女子のグループにも混ざれなかった。さらには誰も僕の性別を定めてくれる人はいなかった。


 いうなれば社会の孤児である。


 僕にとって男や女という性別は、二つのコップに液体を一方からもう一方に移動させるみたいに、流動的で定まらなかった。

 あの男が、家を出ていってから家族の中で僕は男だけになった。僕は女だけの家族に適応するために女になる必要があったし、同時に一家のバランスをとるために男になる必要があった。

 その新しい生活は、自分が何者か分からない僕にとっては、実のところ心地よいものだった。

 僕が化粧品を持ち出していたのに、姉は最初戸惑っていたみたいだが、最終的には肯定してくれて、母に黙っていてくれた。少しではあるが服も貸してくれた。姉と僕は年が九、十歳離れていたから、彼女の古着はタンスの奥深くに仕舞われていたばっかりだったのだ。

 化粧の術も少し教えてくれたし、女物の服は外の、コインランドリーなどで洗えと忠告もしてくれた。

 姉は僕が中学一年生の時に大学を卒業し、家を出た。

 今でもたまに会う仲である。





 女装をしている時の僕は、――つまり、私は――完全に精神を女にすることができた。

 スカートをはき、髪型を変えて、股を閉じながら外を歩く時、私は精神の安寧と大きな幸福感を感じる事が出来た。

 今の状態が正しい姿だと、深く感じるのである。

 逆に女の恰好をしていない時、私は情緒の不安に襲われた。

 性別が男にも、あるいは女にも定まっていないと、私は酷く憂鬱となり、生きる事に対する巨大な恐怖に襲われる。

 しかし、中学生になり、制服を着るようになると僕は次第に、以前よりは安定するようになった。何故ならば制服を着るという事は、紛れもなく男子である、と規定される事と同義だったからだ。

 僕は男性用ファッション誌を参考にするようになり、髪をヘアジェルでかきあげ、ベルトやネクタイの着崩しに気を遣うようになった。そうやって僕は男子制服をより男らしく着こなすようになった。

 そうして僕は、中学校・高校での男として、また休日に異性装をし女として、二面性のある生活を行うようになった。

 男と女を演じ分けるという生活は、僕の精神を幸福に、そして安寧にするのに必要不可欠な事だった。





「やぁーーーーっ」

 気勢を上げ、僕は竹刀を深く握り込み、目の前の矢口アキに剣先を攻め入る。

 物打(剣先から鍔までの四分の一程度の長さの部分)で押し合うが、アキは何でもない、という風に微動だにせず、剣先の攻め込みを受け止めてきた。

 どんな僕の挑発も彼女はクッションのように僕の側へと力を返してくる。

 その度に焦燥感を競られる。

 何度かの攻防の後、ついに僕は思わず腕を振り上げた。

「めェエーーーー――」

 面打ち!

 僕の面打ち、それをアキは竹刀を斜めにして受けた。

 身体が近づき合い、鍔迫り合いの形となる。

 竹刀と竹刀がぶつかり合って、がち、がちと軽い音を立てた。

 防具越しに見えたアキは微笑している。

(なんでも打ってこいよ。)

 口には出さずともそう言っているのだ。

 僕は竹刀を上から押し込むように力を入れる。

 剣が斜めになって彼女の左腕に触れる。

 彼女がそれに相対して力を上向きに入れた瞬間――僕は床を蹴って後ろへ飛んだ!

 力のやり場が無くなり、彼女の腕は中途半端に持ち上がって胴をさらす。

 そこに僕はしっかりと引き胴――身体を後退させ、離れつつも相手の右の胴に剣撃――を叩き込む。

 そのはずであった。

 バチィンッ!

 大きな音と共に僕の剣撃が無理やり否定された。

 竹刀が地面へと叩きつけられる。

 アキが僕の剣を上から叩き落としたのだ! 

すっかりがら空きになった僕の上体に、アキはすかさず剣を振りかぶった。

「メェェーーーーーーッ!」

 惚れ惚れするほどの面打ちであった。

 けたたましい踏み込みと共に、綺麗な軌跡を描いて、彼女の面打ちが僕に入った。

 クリーンヒットだ。

 軽快な音と共に頭蓋が叩きつけられる痛みが入った。

 と、ここで太鼓の音が二度入った。

 先生が鳴らす、地稽古(模擬的な試合形式で戦う練習形式)の終わりの合図であった。

 終わりの挨拶を行ってから、僕はアキの元へ駆け寄る。

「色々技を出せるようになったのは良いところだね」

 開口一番アキは僕を褒めてくれた。いつものように飄々と言って、息はほとんど乱れていない。

 対して僕はほとほと疲れ切って肩で息をしていた。

「でも打ち込みが弱すぎる。力が弱いから竹刀がぶれて、叩き落とされたり弾かれたりするんだ」

「ハイ」

「もっと積極的に筋トレするしかないな」

 とアキはそう溌剌と笑って、ばちん、と僕の背を叩いた。



 高校に進学し、僕が経験もないのに剣道部に入ったのは、武道というものの精神性にあったように思える。

 防具を着用しているとはいえ、竹刀を構え相手と対峙し、本気でしのぎを削り合うというのは、なかなか他では感じないシビアな感覚を得る事ができた。男である状態の僕にとって、その感覚は心地よく、また精神的に必要なものであった。

人を竹刀で叩き、また叩かれて痛みを感じるというのは、なんだか「自分がより男である」と感じさせてくれたのだ。

 矢口アキは同級生の女子である。中学校から剣道を経験していて、経験者として、僕やほかの一年生を教えてくれた。そういう意味では彼女は良き先輩であった。僕にとってアキは、同じ学年の女子というよりは寧ろ「雲の上にいる人間」というイメージに近かった。同級生とはいえ、僕らの間には少しばかり壁が(良い意味でも悪い意味でも)できていたと思う。

 だが、今週の月曜日、彼女の印象はがらりと変わった。

 月曜の放課後、彼女は僕を呼び出して、女装している時の僕の写真を見せた。それは、女装しているのが他人に知られてしまったという事を意味していた。当初僕は激しく動揺した。それは他人、特に学校の同級生には、絶対に明らかになってはいけない事だった。何故ならそれは事実上の、学校生活の終わりを意味していたからである。

 しかしアキは自分も同じタイプの人間だと言った。

 アキは、あの時自分も異性装を行っていたのだという。

 それが僕をさらに困惑させた。にわかには信じられなかったのだ。そもそも男の恰好をしているアキが、僕には想像もつかなかったのだ。一般的にも女性の男装というのはイメージがしづらい。それに、アキはそのままで十分ボーイッシュだった。




 稽古が終わって防具を片付けている途中、僕は横目でちらりとアキの様子を見た。手ぬぐいで汗を拭いている彼女は、普通にいえば美形の部類であった。

 髪の毛はショートカットで綺麗に切り揃えられ、その隙間から小さな耳が少し顔を覗かせている。目は大きくて三白眼気味で、唇は薄いが普通より赤く見える。鼻は少し丸まって低く、身体は身長に対し、筋肉を感じさせないほど小柄だった。

 彼女のてきぱきと動く腕がきらりと光ったような気がした。

「なぁ、今日駅前のチュロス買っていかね? ついこの間新作が出たっていうからさ」

 ふと、隣で防具をまとめ上げていた友人の阿川が言った。一八〇センチ以上の大柄で、肩や脚がごつごつと張り出した筋肉質な身体の男であった。

「ん、ああ」

 アキの事を考えていた僕はとっさに返事をする。

 阿川は訝しむように僕の顔を覗き込んだ。

「なに、ボーッとしてんだよ」

「疲れてるんだって」

「何でもいいけどよ、みんなも片付け終わってるぜ」

 周りを見るとほぼ全員の部員が既に、防具をまとめて、それぞれの置き場へと運んでいる最中だった。僕は慌てて胴と垂をまとめ上げる作業に移る。




 駅前のベンチ、友人ら三人と軽食を取りながら下らない話をしているとき、ふと僕は、彼らが僕の女装を知った時、どう思うのだろうと考える。

 あるいは、女である時の僕に対し、彼らはどのような態度をとるのかについて考える。

 眉をひそめ、軽蔑するように苦い表情を、あるいは微妙に愛想笑いをして平常を保とうとする、彼らの姿を想像すると気分が暗くなった。僕は一生秘密を抱えて生きなくちゃならないのだと。この感情を理解してくれる人は誰もいないのだと。




 土曜日、母がいないのを見計らって「僕」は「私」へとなる。

 先週と同じ恰好、黒のニーハイソックスにフリルのスカート、フリルのシャツにクリーム色のカーディガンを加え、赤いリボンもしゃれ込んだ。二つのうち気に入りのほうのウィッグを付け、女性に見えるようメイクを行った。


 そうして『私は』女性の姿と気持ちになった。


 人にあまり見られないように気を付けながらアパートを出て、駅へと向かう。

普段通学するために使っている道も、この姿だとまるで違って見えた。灰色のコンクリート、黄色く日焼けた家屋、頭上に貼り廻られた電線、そして人々が自分を一瞥する時の視線。今、私は女なのだ、女性として公共の場を歩いているのだと思うと、不思議と気分が落ち着き、朗らかで明るい気持ちになれた。

 電車で四駅ほど、ちょうど学校と家の中間あたりに、件の大型ショッピングモールはあった。私達が住んでいる地域は郊外だから買い物をするのにも遠出をする必要があった。

 電車に乗っているとやはり、他の乗客の視線が気に付いた。ドア付近の男子学生はちらちらと、座席に座っている私の様子を見、正面にいる中年の男はスマホの隙間から隠れて、まるで私を視姦しているみたいだった。

 派手な恰好をしているからしょうがないとはいえ、女性である時こんなにも視線が集まるという事は驚くべき事だった。

 そして、そんな事にも私は一々、満足感のようなものを感じてしまうのだ。




 駅から徒歩二分、駅に面したモールの出入り口に、一人の少年がいた。

 少年はさきに私に気付いたようで、少し気恥ずかしそうにはにかんで手を振った。それで、私は初めて彼が――彼女が矢口アキだと気付いた。

 アキは所謂シークレットブーツのおかげで、いつもより背が高くみえた。黒いロングコートは体型を分かりにくくし、合間から見えるジーンズにはごつごつとした太幅のベルトが巻かれている。

 頭には無地の野球帽のようなキャップをつけ、それなりに長かった髪は後ろにまとめあげられていた。それに、顔つきはメイクをしていないせいか、普段の中性的な顔よりも男性っぽく見えた――ふと私は一か所の工夫点に気付く、眉毛がより太く、角度をつけて描かれているのだ。

 私は少し照れながら手を挙げた。

「志田ミズキ!」

 アキは歩み寄る私に向かって確かめるようにそう呼んだ。

「やめてよ、矢口さん。学校の誰かがいるかもしれない」

「矢口『さん』?」

「……そう呼びたいんだ」

「ふぅん。……可愛いカッコウしてるじゃないか。ミズキちゃん」

 何だか不思議な気持ちだ。彼は――そう呼ぶほうが適切だと思った――からかいの意味で「ミズキちゃん」と呼んだのに、それが私にはとても生き生きとした言葉に聞こえたのだ。まるで世界に存在してもいいと言うふうに響いた言葉だった。

「そう? ありがとう。矢口さんも似合ってるよ」

「そ、そうか? 実はアタシも不安だったんだ。オトコに見えるかどうかって……」

 そういってアキはぴらりとコートのすそをつまんで広げた。その動作が何だかとても「女子」らしかったので私は思わず笑ってしまう。彼は自分の間違った動作に気付いて誤魔化すように、

「立ち話もなんだから、テキトーにぶらつきながら話そうぜ。アタシ、サポーター切らしてンだよ」

 と声を上げて歩き始めた。私も後ろから追う――まるでカップルみたいだ、とその時ふと思った。


 

 薬局店でアキが用事を済ましたあと、三階のフードコートで私sストロベリーを頼み、私はチョコとミントのダブルを買った。

「ミズキちゃん、その組み合わせ好きなの?」

「なんで?」

 私が訊くとアキは出来たものを店員から受け取りながら言った。

「だってそれ、先週も頼んでたじゃない」

「そうだったっけ」

「そうだよ」

 私は手元のアイスクリームを見る。そういえば確かに私はここでは、同じものしか頼んでいない気がする。

「ミズキちゃんは先週は、ここでアイス食べながら本を読んでたよな?」

「本が好きなんだ。こういうところで買った本をゆっくり読むのが最近の楽しみなんだよ」

 私達は喋りながらアイス片手にフードコートの適当な席に座った。土曜日で昼頃なのに、席は全体の二割しか埋まっていなかった。ここももうそろそろ潰れるのかしら、そう思いがら前歯でミントアイスを少し削り取る。

「なあ、その服ってさ。買ったりしたの?」

「まあね。昔はお姉ちゃんの服を貰ってたんだけど、サイズも合わなくなってきたし、中々女の子っぽくならないんだ」

 アキの何気ない質問に私は応えながらちらりと彼の顔を見る。正面から見ると彼女はますます男性のように見えた。彼は足を組んで椅子に斜めに座り、脇を広げ片肘をついていた。姿だけではなく、振る舞い方もわざと男っぽくしているのである。

 ふとどこかをみていた彼の瞳孔が、ぎょろりと私の目を向いた。その目つきに何だか魔的な魅力を感じ、私はどきりとする。

「なるほどね。アタシはそのロリータ、ハデだと思ってたんだけど、なるほど確かに男には見えないよな」

「ちゃんと理由があるんだよ。矢口さんの服はどうしたの?」

 アキに動揺を出さないよう気を付けながら、私は逆に彼に訊いてみた。彼は顎の端をかきながら数秒思索してから話す。

「このコートと帽子とかは買ったかな。ベルトはパパ――父親のを借りて、あとは普段使いができるのばかりかな。このシャツだって普段は家用に着てる」

「胸はどうしてるの?」

「えっ?」

 アキは少し驚いたような表情をした。

「ほら、膨らんでれば、シルエットが男っぽくならないでしょ?」

「ん、ああ、えっと、潰してんだよ」

 私が補足するとアキは言い淀みながらも「専用の下着でさ。ナベシャツっていうんだけど。これは通販で安いのを買った」

「痛くないの?」

「そりゃあ痛いさ。潰してるんだからな。その代わり股には布を詰めてるんだぜ。ちゃんとちんこが生えてるみたいにな」

 私は試しに腰を曲げてみて机の下から、彼の股のあたりを確認してみた。

「ちゃんと生えてるかい?」

「生えてるよ。ちゃんとそこにあるみたいに見える」

 よくは分からなかったが取り合えず私はそう言ってみた。ジーンズの股の部分だけを切り取った写真を見せられて、それが男か女かと訊かれた時、少なくとも私は正答できる気はしない。

「良かった。どうなってるかまるで分からないんだもんな」

「つまらないものだよ。邪魔に感じる事の方が多い」

「そっちはさ、下着とかはどうしてんの? まさか下はトランクスとか?」

「いや、ちゃんと女性用のものを着てる。そうじゃないと、意味がないんだ」

「……へえ、じゃあおっぱいは? ブラしてんの?」

「してるよ」私は無意識に胸に手を当てて答えた。「パッドも入れてるけど、服の構造がさ、胸の下で布が絞られてるから、自然に膨らんでるように見えるんだ」

「なるほどね」

 時刻は一時をまわり、客たちは次々に席を立って、あたりはますますと閑散としていった。店内の古くさいBGMがどこからか小さく聞こえ、カウンターの向こうで慌ただしく食器を片付ける様子が見えた。

 女装している状態で、誰かとこうして会話をしている事に、実のところ私は奇妙な感覚を覚えていた。それは、私にとって初めての感覚だったのだ。例えるならそれはまるで、生まれて初めて親友ができたのだという実感であった。

 これまで秘匿してきた奇行を、アキと共通の話題として、語り合える事に私は深く喜びを感じていた。

 だが、まだ聞かなければいけない事がある、とも考えていた。彼が本当に男装をしないと満たされない異常者なのか、もしくはただの半端者なのか、それを調べなければいけない。

「矢口さん」

「何?」

 私は両手を組んで、少し沈黙してから再び口を開いた。

「答えたくないかもしれないけど、君がなんで男装をしているのか、教えてほしい。私達の関係において、この点を明らかにするのはとても重要だと思う。私達はお互いに秘密を共有する立場にあるし、それはお互い、露わにされたらとても困る秘密だ。特に私においては」

 アキは一瞬虚をつかれたように目を見開いたが、やがて納得した、というふうにうなづいた。

「……アタシは別に、アタシは、自分の事を女だと自覚している。でもアタシは男のカッコウをするのが好きだし、男でいる方が、アタシの世界に合致しているんだと思う」

「『合致している』?」

 その時私は、それはとても不思議な響きをしていると思った、何故だかわからないけど。

 アキは私の繰り返しに思案してから、話をつづけた。

「なんかさァー……言葉では説明しにくいんだけど、アタシの心ン中に、ぽっかり欠けた部分があって、それを埋めないとアタシは幸せにはなれないんだと思う。

色んなもの、例えばゲームだとか剣道だとかは、その欠落を一時的には埋めてくれるんだけど、でもどっか隙間が空いている。アタシ自身が男になる事で、その欠落と男装というピースが合致して、アタシは本当の合致した世界へと入門できる気がするんだ」

「でも、普段は学校では女の子の恰好をしているよね? それについてはどう思うの」

「あんまり気分は良くない」

 机の染みをにらみながらアキは言った。「さっきミズキちゃんが、ちんこの存在が邪魔だって言ってたけど、アタシだってこの腹ン中にある、子宮ってやつが死ぬほど邪魔なんだ。さっさと取り外しちまいたいし、一刻も早く生理なんてものから逃れてしまいたい。大人になって、子供を産むなんて全然考えられない! アタシの中に他人のが入ってくるところを想像するとおぞましくて吐き気がする! アタシの中から何かが産まれ出るだなんて、想像もつかない!」

「…………」

 私はアキの吐露に無言で返す。アキはしばらく肩で息をしていたが、しばらくすると落ち着いたようでしかめていた顔を解いて、それからこちらを向いて苦く笑った。

「……ごめん、ちょっとアツくなった。だから、結論を言うと、アタシは『女』だけど、多分『男』じゃなくて『女』が好きなんだと思う」

「それはつまり『同性が好き』という事なの」

「同級生の友達を押し倒す妄想もしたことがある。どう? キモイでしょ?」

 私はどう答えればいいか分からず、微笑んで返した。

 アキは大きく溜息を吐いてから、ぱんっ、と自分の両頬を叩くと、

「さあ、今度はミズキちゃんの番だぜ」

 と言った。私はごくり、と喉を鳴らしてから、ゆっくりと考えながら言ってみる。

「……私の場合、私の中には、二人人間がいるんだ」

 アキは口を一文字に閉じて頷いた。

「男の僕と、女の私、一方がずっと身体を使っていたら、もう一方はストレスが溜まるでしょ? だからそれぞれに貸してあげてるの」

「それは、自分の性別が分からないって事?」

「そうかもしれない。私は生まれた時から、その事がよく分からなかった」

「……性別、恋愛対象として好きになるのは、どっちなの? 女? それとも男も?」

「それは――」

 そこで、言い淀んだ。

 男を好きになるのか、女を好きになるのか。

 私はその事について未だ明快な答えを持てていなかった。

 阿川の顔が嫌でも浮かんできた。

 こんなところで彼の事について考えたくないと思ってしまった。

「ごめん。あんまり答えたくないよな、ちょっと踏み込み過ぎた」

 口を閉ざした私に、アキは気を使ってくれた。

「いや……私が言い始めた事だし」

「ミズキちゃんのその装いで、アタシは十分マジなんだってわかったよ」

「……私はさ、自分の事ずっと思っていた。自分は社会の孤児なんだって」

「孤児?」

「私は――普通じゃないから」

 私は静かに言う。

 私の苦々しい原体験の記憶が、脳裏で鮮明に再生されていたからだ。



「ミズキにあの男の血が流れているのだと思うと。ミズキが将来あの男のようになるのだと思うと。私はあの子と向き合うのが難しい」

 僕は母がこう言うのを聞いた事がある。

 小学五年生の冬、父が家を出てからしばらく経った頃だった。

 深夜だっただろうか、僕が眠れなくてベッドから出たところに、母と姉が話しているのが聞こえたのだ。僕は物音を立てないよう、ふすまに身体をあてて、二人の話を盗み聞きした。

「将来ミズキが成長したら、あの男のようになるかもしれない。ミズキにあの男の血が流れているのだと思うと。ミズキが将来あの男のようになるのだと思うと。私はあの子と向き合うのが難しい」

 そんな事ない、と姉が言った。そうならないように育てればいいのだし、ミズキを女として育てるわけにはいかない、と。

 母はすすり泣きながら、こう返した。「あの子は身体も心も弱い。あの男もそうだったし、身体と心が弱かったから卑屈な男に成ってしまった。私は、ミズキをそうならないようにする自信が無い」



 僕はただパジャマの裾を握りしめ、母の絶望を受け止めるほかなかった。

 それはまるで、「僕が本当は生きていてはいけない」と言っているように聞こえたのだ。



「……アイスクリーム、食べ終わったな」

 話題を変えるようにアキが呟いて、立ち上がった。私も慌てて、

「あっ、そうだね……」

 と一緒に立ち上がる。アキはゴミは雑にポケットに仕舞いこむと、

「これからどうする?」

「あ……あぁ、英語の小テストの勉強をしたいし、帰るかな」

「じゃあアタシも帰ろうかな……」

 ふと思い出したように言った。

「手を、繋がないか」

 アキはそう言うと、私の返事を待たずに、右腕を伸ばした。

「えっ?」

 と言っている間もなく、その瞬間、私の右手を彼の細い指が絡みとっていた。

 私はアキを見た。

 普段と違って私より背が高い彼は、頬を赤らめながらもまっすぐ前を見た。

「いいから、黙ってろよ」

 そう言ってアキは私の手を引っ張って、前に歩き始めた。

 私は慌てて彼の横につき、それから私達がまるで恋人のようにみえている事に気付いた。

「アタシたちは、似たもの同士だから」

 アキはそう言った。

 余計な言葉はいらなかった。

 アキがそう言ったから、私もこのまま一緒に帰ろうと思った。

 ――思う事が出来た。


 

 この時が私にとって初めての「男性と手を繋ぐ」であった。




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