「五月病はたんぽぽと共に」【選挙・五月病・たんぽぽ】
春の陽気を含んだ風が、開け放した窓から部屋に入り込んでくる。
どこか柔らかで優しい香りがする、そんな錯覚を感じてしまう春の風。
この窓から見える景色は、少し前まで満開の桜色だったのに、今はもうすっかりみずみずしい程の緑色に変わっていた。
美しい桜の花びらの代わりに空を覆う緑の葉は、日差しに透けると透き通るような緑色になって、それもまた美しいと僕は感じていた。
風を浴びながらベッドのふちに腰かけ、学校の図書室で借りた小説に目を落とす。
穏やかでゆっくりとした時間の流れる、心地の良い時間だ。
しかし、そんな憩いの時間も次の瞬間にぶち壊されてしまう。
「皆様~皆様~。いつもお世話になっております、市議会議員の~~でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
選挙カーでアナウンスをしているウグイス嬢の高い声で、住宅街の静けさは打ち砕かれた。
しかもこのウグイス嬢。他の部分はとてもはっきりと聞こえるのに、肝心の議員の名前の部分だけが、やけに聞こえづらい。
他の部分がどんなに綺麗でハキハキと喋っていて関心を集められたとしても、誰かの名前を売るためのアナウンスとしてはダメじゃないか?
なんて、どうでもいい事を考えながら、選挙カーの音が離れていくのを聞いていた。
よし、これで再び僕の穏やかな時間が戻ってきた。と、栞替わりに指を入れていた文庫を再び開く。
すると今度は、二階にある僕の部屋に向かって、どたどたと慌ただしい音を立てて階段を上ってくる音が聞こえた。
なんで僕の部屋が目的の足音かが分かったかと言うと、こんな風に階段を勢いよく登ってくるのなんて、一人しかいないからだ。
階段を上り終える気配を感じた次の瞬間には僕の部屋の扉が勢いよく開かれた。
「
僕はその声の主が誰なのか、もうとっくに分かっていたので、彼女の顔も見ず小説を読みながら空返事をした。
「なんだよ、
彼女は僕の幼馴染。
家が隣通しで、両親同士も仲が良く世間で言う所の『家族ぐるみの幼馴染』ってやつだ。
僕より2つ年上の彼女が、生まれた時僕はまだ母のお腹の中すらいなかった。日本人がみな大好きな彼女の名前を真似るように、名付けられた僕の名前が嫌いだった。
まるで姉弟のようね、と近所の人たちから言われるのもたまらなく嫌だった。
彼女はとてもガサツで荒々しくて、ズボラで面倒で、その優美な名前に似つかわしくない性格だった。
しかし、その容姿は白い肌に真っ黒の艶やかな髪の毛。ストレートに整えられながら伸ばしてる髪の毛はとても美しく、見た目だけでいうなら正に『大和撫子』なのが、彼女の特大のギャップだった。
僕が一回も視線を合わせないのが頭に来たのか、桜はいつも通りの荒々しい足音を響かせて、僕の前に立つ。そして、読んでいた本を取り上げて、僕を叱る。
「樹あんたねぇ! 私が話しかけてるんだから、顔くらい見なさいよね!」
言いながら、僕を見下ろす形でこちらを見ている桜。
逆光で良く見えないが、どうやら長く伸ばしていた髪の毛は短く切られてしまったようだ。
しかも、その髪の色は黒ではなく、窓の外の光で透けている様子はどちらかと言うと……『金色』。
その変わってしまった桜の容姿に驚き、しばらく見つめいていると。
彼女のひざ丈のスカートが、初夏の風でふわりとなびき、僕は咄嗟に視線を逸らした。
驚いたようにスカートを抑えた彼女が、慌てた様子で僕に尋ねた。
「見た!?」
「見てないよ」
本当だ。僕はいつだって危機回避能力が高いんだ。
「ならいいけど」
小さく溜息を吐きながら、彼女は僕の座っているベッドの近くのふちを背もたれにして、スマホを弄りだす。
彼女の変化についていけていない僕を尻目に、今度は桜が僕の顔を見ずに話しかけてきた。
「樹さぁ。いつになったら学校行くの?」
それはもう何度も、桜から聞かれてきた言葉。
いや、桜だけじゃない。親にも、先生にも、色んな人に聞かれてきた言葉だ。
中学3年の春。もうあと1年しか義務教育が残っていない。
進路をしっかり決めなければいけない事くらい、僕にだって分かっている。
「五月病なんだよ」
「ずいぶん長い五月病じゃん?」
ぐうの音も出ない。
もう僕は去年の夏休み明けから、学校に行けていないのだから。
そんなつまらない言い訳しか並べられない僕に、桜ははぁと溜息をついた。
「私は、また樹と同じ学校に通いたいよ」
桜にしては珍しく、小さな声量だった。
幼稚園、小学校、中学校。僕が通う学校には必ず桜が居たし、僕もそれが当たり前だと思っていた。
けれど、桜は超進学校に進んでしまって。僕の学力ではそこには手が届かないと知って。だから不登校になってしまった。
我ながらしょうもない理由だ。でも、それほどまでに桜は僕の生活の一部だった。
いつも桜は僕の一歩先を歩いていて、僕はそれにいつも追いつけずにいた。
彼女は後ろを歩く僕の事など見ていないと思っていた。
だから、桜が呟くように言ったその言葉が、僕には信じられなかった。
「桜……?」
「私は高校、樹と一緒に通いたい」
今度はさっきよりもはっきりと。でもどこか泣きそうな声で、桜は言った。
その時、再び窓の外から風が吹いてきて、彼女の金色の髪の毛がなびく。
光を浴びて輝くその髪の色がとても綺麗で、彼女が鼻をすすっているのを忘れて見惚れてしまう。
まるで、そう。たんぽぽのようだと思った。
彼女の可憐で無邪気で明るい、暖かい季節に咲く花のような笑顔。
その花がたんぽぽだと思い至り、そして彼女の髪の色がたんぽぽに重なった瞬間、僕はやっぱり彼女が特別だったことに気付いた。
呆けている僕に痺れを切らしたのか、彼女が突然立ち上がる。
「もう樹なんか知らない!」
そう言って、この場を去ろうとしている桜の手を慌てて掴む。
「なによ!」
こちらをギロッと睨みつけてくる桜。
その目線が上に向いていて、僕の身長がいつの間にか桜を越していた事に気付く。
「ごめん桜」
「なにが?」
まだ怒っている様子だが、話は聞いてくれそうだ。
「僕頑張る。桜と同じ学校に行けるように」
「私の学校、めっちゃ頭いいよ?」
「知ってる。だから、死ぬ気で頑張る」
僕がそう言い切ると、桜はホッとしたような表情を浮かべた。
「よかった……」
それはもう、本当嬉しそうで安心したような表情だった。
そして、そのまま桜は続ける。
「樹がそう言ってくれなかったら、学校辞めようと思ってたよ」
「はぁっ!?」
「そうでしょ? だって進学校で脱色2回もしてこんな金髪の髪の毛なんかにしたら、生徒指導で一発退学よ」
そう言って、彼女は金髪のボブヘアを手で触った。
そして小さい声で「まぁ、あの人たちは世間体って奴を気にするからね」と桜が言ったのを僕は聞き逃さなかった。
彼女は彼女で大変らしい。
「樹がいない生活なんて、私には意味が無いから」
そう言って、彼女はそのたんぽぽのような笑顔で言うのだった。
「樹も私が居ないと寂しいでしょ?」
桜にはいつまで経っても勝てなさそうだ、と溜息をつきながら。
僕はそれに大人しく頷いた。
「そうかもね」
顔を背けてそう言った僕に、彼女は「素直じゃないなぁ」と笑ったのだった。
窓の外には再び選挙カーがやって来ていて。
変わらず議員の名前ははっきりと聞こえなかったけれど、それでも僕の五月病はどこか遠くに消えてしまったようだった。
隣で笑う、たんぽぽ色のボブカットのおかげで。
-END-
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