『それは水滴のように』【トリビア/寒天/虚数】
「お前さ。もう少し痩せた方がいいんじゃね??」
それはしょうもない、近所のガキんちょの戯言だった。
いつもは気にしない、たわいもない言葉。
「は??」
「知ってっか? 寒天ダイエットは痩せるんだぞ。これトリビア」
「ただの健康情報だろ」
でも、その日はよりにもよって虫の居所が悪く、私は奴のむこうずねを思いっきり蹴り飛ばしてやった。
「ってぇ!!」
私、高校3年生。奴、中学2年生の夏だった。
あぁ、なんでこんな奴と、私自分の部屋でくつろいでたんだろ。
むかつく、いらつく、頭にくる!!
言われた言葉にだけでなく、なんか他にもムカついてた気がするが、そんなのはもうどうでもいい。
ムカつく気持ちよ、暴力とともに消えてしまえ。
そんな気持ちでずっと奴の背中や脚やいろんなところを蹴りまくる。
いだっ、あだっ、ばかっ、くそっ!
あらん限りの暴言を吐きながら、アイツは部屋を出て行った。
「もう二度とこんなところくるか!! 夏樹のばか!!」
そんな捨て台詞を残して。
奴がいなくなった自分の部屋で一人。私は、床に腰かけベットに背を持たれながらぼーっと窓から空を仰いでいた。
空はからっと、憎たらしいほどに晴れわたっていて、私の苦々しい気持ちなどガン無視で。
それさえも、めちゃくちゃにむかつくのだった。
はぁ、ひとつため息を吐く。
「寒天ダイエットでも、するかぁ」
吐いた言葉は、蚊取り線香の煙と共に宙にふわっと溶けて消えて。
乾いたのどを潤すための麦茶の入ったグラスのふちに、ついた水滴が腕を伝って、スカートに落ちた。
* * *
あの日、スーパー帰りに売り場所がいまいちわからない寒天を探し当て、無事寒天を買って帰った。
帰り道、明日の授業憂鬱だなーとか、虚数ってまじなんだよ。言葉から何も中身が想像できないよ。
とか、思いながら荷物を両手に、自宅へ帰った。
いつもなら、少し言い過ぎた日に謝りに来てるアイツが、その日はいなかった。
いつもよりぽっかり空いたようなその空間に、あったはずの悔しさや憎たらしさは消えていて。
そこにはただ寂しさだけが残っていた。
* * *
結局、あの日からあいつは私の家に来なくなった。
そう、めっきり。
そして、いつの間にか私は大学まで卒業してしまい、いつしか地元を離れ就職をする時期にまで来てしまった。
そんな最後の最後のお別れの時になって、ようやくふいっと顔を出した奴は、その可愛いいがぐり頭がすっかり長髪茶髪になっており、昔の面影が少しもない。
何なんだお前は、いつも私の感情を荒立たせて。
ずるいやつ。
あいつが太ったとか言うから、痩せろとか言うから。
寒天ダイエット頑張って痩せたのに。
それなのに、久しぶりに会ったらこんなに変化していて。
悔しいじゃん。
「あんた、なんであの日。急にいなくなったの」
「おまえがいつまでも、俺が先に謝ってくると思ってるのがいやだったからだよ」
「なんで、あの日に限って!」
「お前がバカみたいに薄い服着てっからだろ! 女みてぇな身体になって来てんのに無防備すぎんだよ!」
太った、ってのはそういう事だったの……?
「お前の事、俺ちっちゃい時からずっと好きだったのに。勝手に一人で大人になりやがって」
悔しい。私だって、ずっと、ずっと。
ずっと、4歳も年下の男の子に恋をしていたのに。
恥ずかしくって誰にも言ってこなかったのに。
なんで、あんたはいつもそうやって。
気付いたときには、奴の目の前で泣いていた。
茶髪の奴は、あの時よりずっと背丈も伸びていて。
肩もがっしりしている。
あぁ、私くらいの女の子なんて、簡単に抱き締められそうなくらいに。
「バカぁ…!」
そう言って泣いてる私も簡単に抱きしめられてしまって。
悔しい。にくい。バカらしい。
泣いた顔をそっと上げると、見つめる顔はあの頃と微塵も変わって無くて。
「あんたさぁ」
「んだよ」
照れたように奴は目を背けた。両手は私を抱きしめたまま。
「あんたの顔には、短髪黒髪の方が似合うよね。これトリビア」
私がにやって笑ったら、奴はじっと私を見つめて、言った。
「ばか。それ単にお前の好みだろ」
「うん。私の好み」
そう言って目を閉じると、奴はめんどくさそうに言うのだった。
「ばか野郎」
面倒そうなのに、指先はとてもやさしく。
言った暴言は、愛の言葉より甘く。
私の中にじわじわと染み渡るのだった。
それはまるで、あの夏の日に置き忘れたグラスの水滴が、スカートに染みていくように、じわじわと。
-END-
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