第9話 誘惑の夜


 冷たい。

 頭が痛い。

 なんだ、息がしづらい。


 俺の頭にキンキンに冷えたタオルがのしかかる。

 垂れた氷水が頰に伝うと、そのまま枕に垂れて水たまりを作る。


「冷たすぎだろぉっ!」


「きゃっ! なによ!」


 顔を垂直にあげると、そこにはピンク色の空間が広がっていた。

 いい匂いがする、これはなんの花なのか。


「ん……? どこだここ」


 あたりを見渡すと、少女の顔が横にある。

 その他には、ぬいぐるみや机やテレビがあるだけ。

 なにも変わらない日常に心を落ち着かせる。


 ん?


「おお! おまっ! ここっ! えっ!」


「……なによ、そうよ、私の家よここ。もう深夜なんだからあんまり大声出さないでよ」


 カノンは氷水を入れた洗面器を持ち上げると、俺の方に倒れないように離して置く。

 混乱する俺の隣に洗面器を置いてみろ、そこは洪水になること必至だろう。


「……リュート。あなた倒れたのよ? 覚えてないの?」


「……。おう、なんか幸せだったような気がする」


「なにそれ、気持ち悪い。はい、タオル。テルがあなたのこと蹴飛ばしたのよ? 本当に迷惑な子よ全く」


 俺が投げつけたタオルを難なくキャッチしたカノンは、氷水にもう一度浸す。


 そして、水でベチョベチョなタオルを投げつけてくる黒髪の美少女。

難なく受け止めようとする俺の全身に、氷水が容赦なく襲いかかる。


「どわぁ、冷たっ! 搾れよ、バカ野郎!」


もう一度べちょべちょのまま投げ返してやったが、カノンは魔法かなんかで水滴全てを回収して洗面器に入れやがった。


「そんなこと言うのね、リュート。ここまで連れてきたのはこの私よ? 王女にさせていいことだと思ってるの?」


カノンは受け取ったタオルを指先でトントンと叩くと、ギュルギュルと捻り出し、水がボトボト洗面器の中に落ちる。


「……だよな、すまない。俺が迷惑かけたんだよな」


「まぁ、気にしないで。私がいなければ気絶するような事態にはならなかったのよね」


カノンはひょいひょいと指先を回すと、タオルはカモメのようになってふわふわと飛んでくる。

 俺はそれを掴むと、タオルを見つめる。

湿ったタオルを目に当ててそのままベッドに横になる。


なんだよ、今度は絞り過ぎだっての。


 冷たい。

 頭が痛い。

 なんなんだ、この状況は。


 しばらく沈黙が続く。

 カノンはじっと自分のことを見つめているのだろうか、全く物音が聞こえない。

 俺の目はタオルのマスクで目がひらけないし、タオルをとって様子を見るのもなんだかカノンの存在を欲しているようで嫌だ。


「なぁ、カノン」


「なによ、寝たかと思ってた」


「お前、今日どこで寝るんだ?」


「……、床で寝るわよ。貴方は怪我してるんだから、ベッドで寝るべきだわ。こんなことになったのも、巻き込んでしまった私たちが悪いんだしね」


 ベッドの横から聞こえる妖精の声。

 綺麗な歌声のように聞こえるそれが俺の1日の疲れを癒していくようだ。


「……なぁ、カノン」


「なに? まだ何かあるの?」


「俺、本当にカノンと子供を作るのか?」


 ………………。


 返答がやってこない。

なんだよ、俺とセックスしたいのかしたくないのかはっきりしろっての。



 冷たい。


 頭が痛い。



 しばらくの静けさに少しだけ不安になって、俺はゆっくりと手をタオルに持っていく。


「まっ! 待ちなさい!」


 その声を聞くより先に、タオルが持ち上がっていく。


 目を横にやると、すぐ目の前にカノンの唇が見えた。


「どわぁ?!」


「きゃっ?!」


 俺はあまりにも近すぎた顔に驚いて寝返りを打つ。

 カノンも驚いて倒れたのだろう、バタバタとした焦りの音でわかる。


「なにやってんだよカノン!」


「あなたこそ急に振り返るんじゃないわよ!」


 付き合いたてのカップルのような俺たちはとてもぎこちなく、それが楽しくも感じていた。


 ふふっと笑うと、カノンはこう切り出す。


「ねぇ、私寒い」


 それは、カノンが氷水なんか使って、手ごとタオルを水に浸してたからだろ。

 だが、そんなこと恩人に言えない。

 とても優しいくせに、全然素直じゃない。

 それが彼女の魅力を殺してしまうことに、俺は腹を立てた。


「やっべ、悪寒がする」


 俺は壁の方を向いたまま、布団を持ち上げる。


「湯たんぽってこの家にあるか? カノン」


「……。湯たんぽはないけど、似たようなのはあるよ」


「……。くれよ、それ」


ぎっし。

するする。


 ベッドが床側に傾いたのを確認すると、ゆっくりと布団を下ろす。


 なんだよ、頭に乗せたタオルがもう温まっちまったぜ。

 やべぇ、顔が熱くなってきた。






「ねぇ、リュート。もしだよ? もし、私が妊娠したらどうする?」


 難しい問い。

 その問いは、現在の俺にとっては最も答えにくい質問だ。

 湯たんぽがどんどん熱くなっていくのがわかる。

 ゆっくりと、着実に体に当たる肉が生々しい。


「……。嬉しいことだろう? それは、カノンにとって達成しなきゃいけない事だ。だから、俺を良いように使ってくれよ」


「なにいってんの? バカじゃないの」


 湯たんぽは、思い切り握られた拳で俺の背中を叩く。

 変な音が出るが、俺はそれどころじゃなかった。


「……。俺は別にいいんだ。たしかに最初はカノンに大学人生を妨害されたと思ってたけど、カノンはカノンなりに人生があったし、それを打ち明けてくれた。カノンがこれからなんの差し支えなく生きていけるなら、俺は……いいんだ」


 温まったのは体だけじゃない。

 なんだか、胸が熱い。

 なぜだろう、こんなにツインテールの子の蹴飛ばしが辛かったのか?


「じゃあ、私が妊娠したら、どう思うの?」


 カノンの手のひらがそっと俺の背中に入ってくる。

 ビリビリとしたその感触が彼女の暖かい熱で掻き立てられて、より強くする。


 そりゃ、幸せさ、カノンは故郷に帰れる。

 だろう? きっとそれがハッピーエンドだ。


 ……本当に?


「わからないよ、そんなの」


「……。」


「カノンの幸せそうな顔を見るだけで、俺は幸せになれてた気がする。でも、俺が幸せになっても、きっとカノンが故郷に帰れなければ意味がないと思う。だけど、嫌だ。俺は結局幸せにはなれないよ」


「……。」


「だから、俺はカノンとセックスしたくない」


「……。」


「もっと一緒にいてくれよ、カノン」


「……。」


 なんだ?


 俺は振り返って中身をのぞいて見る。

 そこには、天使の寝顔があった。

 黒髪の天使は、少しだけ汗をかきながら、 すうと寝息をたてる。

 そして、俺の背中から落ちた手がベットに着く。


「……。寝ちまったか」


 俺は立ち上がって氷水にタオルをつけた。

 そうして、カノンの頭に軽く乗せた。

冷たいタオルが触れると、なんだか微笑んでいるように見えた。


「おやすみ、カノン」


 カノンの寝顔を数十秒眺めると、ゆっくりと瞼を閉じた。

悪くないかもな、カノンと一緒にいるのって。


◆◆◆◆◆◆









 バカじゃない?



 照れるじゃん、バカ。


 つづく。

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