むじょうな朝と三周年

井澤文明

あゝ、むじょう。

 その日は日が昇るずっと前から、目が覚めてしまった。暗闇の中、微かに灯る街灯の明かりが、部屋の中を照らしていた。

 きゅるる、と腹の虫が鳴る。

 適当に何か食べて腹を満たそうと、布団からのそりと這い出て、私は冷蔵庫の扉を開けた。中には、ビール缶が一本だけ入っていた。缶の中身は空だった。

 昨晩の酒に酔った私は、空の缶を冷蔵庫に入れて、翌日には何かに満たされているのではないかと、期待したのだろう。訳が分からない。

 空のビール缶はゴミ箱に捨て、テーブルの上に置かれた財布を手にとって、外に出た。

 日は少し昇り始めていて、空は薄ぼんやりとした藍色になっていた。

 ただ黙って歩いて向かった先には、コンビニが一軒あった。コンビニに入り、陽気な入店音が響くが、店員は無表情で漫画雑誌を読んでいる。

 私はカゴを一つ、乱暴に取り、パンのコーナーへと進んだ。どうやら空腹のせいで、苛立ち始めているようだ。

 きゅるる、とまた腹の虫が鳴る。早く何か食わせてくれと、急かしている。

 目に入ったパンを手当り次第、カゴに放り込み、私は雑誌コーナーへと足を向けた。だがめぼしいものはなく、適当に、胸の大きな女優が股を開いている雑誌をカゴに入れた。

 そしてレジへと向かい、私と店員はお互いに無表情のまま、金銭のやりとりをして、五分もしないうちに、私は帰宅した。


 あゝ、無情だ。


 何も感じない。幸福も何もない。あるのは、空腹だけ。

 あの捨ててしまった空のビール缶のように、心は空っぽだった。

 コンビニ袋から適当にパンを取り出し、力に任せて袋を開き、口に放り込んんだ。いちごの甘い風味が口に広がる。いちご味のクリームが挟まれているサンドウィッチだった。

 みんながまだ寝静まっている時間のせいで、あたりはしんっとしている。少しばかり寂しさを感じた私は、おもむろにリモンを手にし、テレビを点けた。

 偶然にも、テレビに映し出されたのは、いつもぼんやりと見ているニュース番組だった。

 綺麗に化粧された顔で笑顔を浮かべる女性アナウンサーが、どこかの有名な歌手が開催するコンサートについて語っている。

 別に、その歌手が好きな訳でも、アナウンサーが好きな訳でもない。ただ、ただ、ぼんやりと、目の前のテレビに映される光景を見た。

 幸福もなく、空腹も消えてしまった。


 あゝ、無情だ。


 なぜか心の空虚感だけが、埋まらない。

 なぜか、今日は朝から虚しさだけが心を支配している。体を支配している。

 目線をテレビの画面から、コンビニ袋の中身に移した。袋の中には、買ったもののそれを読む気も、使う気もないアダルト雑誌が横たわっていた。

 なぜか、今日は体が重い。心が重い。私の脳髄は、何を思っているのだろう。

 分からなくて苦しくて、仕方がなかった。ひどく、もどかしい。


 雑誌をそのままにするのも気が引けたので、本棚の奥に隠そうと思い、雑誌を手に立ち上がった。

 本で敷き詰められた、この十二畳の部屋のほとんどを占領している本棚は、今日もどっしりと部屋の中で構えていた。毎日毎日、目にする物であるはずなのに、今日はなぜかその本棚が、普段より大きく見えて仕方がなかった。

 心臓がどくどくと鼓動を速める。

 ふと視線を横に移すと、壁にかけられた、めくることを忘れられた日めくりカレンダーが目に入った。三年前の物だった。


 心臓は一つ、大きく「どくり」と言うと、途端に静かになった。


 背後で、点けられたままになっていたテレビから、例のアナウンサーのワントーン下がった、真剣な声が頭蓋骨に響く。


「今日、X月XX日は、ちょうど三年前、芥川賞作家の****さんが亡くなられた日で―――」


 テレビから、親愛する友人の名前と、彼の命日が投げつけられた。その言葉は、形となり、私の体に突き刺さる。―――血は出なかったが、痛みは感じた。


 そうかそうか、そうだったのか。


 今日は彼が死んでから三年経った、記念の年。

 長らく死ぬことを求めていた彼が、ついに黄泉へ行けた、記念すべき年。


 ―――きっとあいつは、あの世で三周年三周忌を祝っていることだろうなあ。

 彼が大好きでいつも食べていたドーナツを頰ぼりながら、私は本棚に敷き詰められた彼の著書を眺めた。

 ならば私も、記念すべき彼の三周年三周忌を祝わなければなるまい。彼の代表作魂の言葉の背を指でなぞり、私はドーナツを飲み込んだ。


あゝ、無常。

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むじょうな朝と三周年 井澤文明 @neko_ramen

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