第6話「新総裁はだれのもの?」

「おかえり。ノア」

「………」

 ノアは玄関で自分を迎えた母の顔をさぐった。

 見たところ、まったくここを旅立ったあの朝と違っていない。火星とぶつかるかもしれないと大騒ぎしたあの日々。まるで遠い昔のことのようにノアには感じられた。

「ただいま」

 ノアは高ぶる気持ちを抑えて、声をしぼりだす。

「疲れたでしょう。さっそく食事にしましょうね」

 母は娘の手から荷物をやさしく取り、微笑みながらノアをうながす。

「今度はどれくらいいられるの?」

 振り返り、静かに歩きだしながら母は言った。

「あ、うん。一週間」

 答えるノアの声は突き放したようにぶっきらぼうだ。

 彼女は妙に緊張していた。胸苦しさで息がつまりそうだった。

(お母さん……)

 それを打ち消そうと、ノアは目前に見える背中をじっと見つめる。

 必死に母の心のうちを知ろうとする。しかし、背中を見る限りでは何も感じられない。いくぶん淋しそうに見えるのも、見つめるノアの心がそう見させているといえなくもない。

(いいえ。きっと、つらくてしょうがないに決まってる。かわいそうなお母さん……)

 ノアはそっと首を振った。


 いつものように食卓をかこむふたり。休暇ごとに繰り返される行事だが、ふたりにとっては一番心の通い合うひとときだ。

 立体テレビは普段通りにつけられていて、今は音楽番組が流れていた。軽快な曲をバックにリズミカルに歌う女性が、実物の三分の一のサイズで宙空に映し出されている。

「………」

 ノアは食事を進めながらもチラリ、チラリと自分の母へと目を向けた。母は立体映像に視線を向けている。

 ノアはためいきをひとつつき、目前のスープに視線を移した。それをスプーンにすくうと自分の口へもっていく。

 そんな時、前触れもなくサリナが呟いた。

「……お母さんたち、一度だけお別れしそうになったこと……あったの……」

「ぶっ!」

 突然の母の言葉に、ノアはスープを吹き出してしまった。

「………」

 それを黙って拭き取るサリナ。

「お母さん……」

 ノアはなんといっていいやらわからず、口ごもる。そして、困惑したような顔で母を見つめた。そんな娘の視線をしっかりと受け止めるサリナ。

「お父さんはね。お母さんが浮気をしていると思い違いをなさったの」

「そんな!」

 ノアはびっくりして叫んだ。

「お母さんは浮気なんてしないよ!」

「ありがとう。ノア」

 サリナは弱々しく笑った。

「お母さん……」

 サリナの表情は疲れ切っていて、ノアはかわいそうで見ていられないというふうに目を細めた。

「それは確かにお父さんの思い違いだったんだけど、あの人がそう思うということじたいが問題だったのよ」

 サリナはつらそうに続ける。

「それはつまり、あの人は私を信頼してくれてなかったってこと……」

「そんなことって……お父さんはお母さんをあんなに愛していたのに……」

 ノアの目に涙が光った。ナオトの前でさえも泣かなかった彼女の目に涙が。

「そうね。それだけ愛してくださったってことにもなるわよね」

 サリナは今にも泣きそうな表情になった。

「すぐに思い違いだったということはわかってくださったけれど…でも、信用できなかったっていう事実は残ってしまった。それはもうあの人の心の奥底に刻み込まれてしまって消えることはなかったのよ」

「じゃあ……」

 ノアの目が大きく見開かれた。

「それじゃあ、何よ。お父さんが冷たかったのはそれのせいだというの? どうしてもお母さんが信じられないからって?」

 彼女は半分泣き笑いの表情で自分の母を見つめた。

「そんなのナンセンスだよ。お父さんってそんなに馬鹿だったの? 相手は誰だと思っていたわけ?」

「………」

 サリナは一瞬黙って下を向いてしまった。

「ケリーよ」

「え……?」

 ノアの顔が訝しげにゆがめられた。

 サリナは口をつぐんでしまった。ノアの表情がみるみるうちに驚きへと変わっていく。

「ま…さ…か…?」

 一語、一語、しぼりだすように喋るノア。

「もちろん……」

 サリナは顔を上げると、娘の目を真剣に見つめた。

「本当のことじゃないわ。ただ、私たちふたりは学生のころからの大の仲良しで、私とケンイチがそういう仲になるまではみんなに噂されていたものよ。少なくとも、私はそのころケリーに淡い恋心を抱いていたのは確かだわ。でもちっとも彼にはその気がなくて、そのうちにケンイチと出会ってしまった」

「え…? そうだったの? 知らなかった」 

 さらに驚くノア。

「あたし、最初はお父さんとおじさまが仲良しで、あとからお母さんがふたりの間に入ってきたのかと思ってた」

 サリナはかぶりをふった。

「私がケリーにそういう気持ちを持っていたということをケンイチは知っていて、どうやらあの人は、私の心からずっとそれが消えてないのでは、と思っていたらしいのよね」

「そんな……」

「私にはケンイチしかいないのに……」

 サリナの目からポロポロと涙がこぼれてきだした。

「あの人が何年も帰ってこないような深宇宙探査の旅に出たのも、きっと私と一緒にいたくなかったからなのよ! そうよ、きっとそうなのよ!」

 サリナは手で顔をおおってしまった。

「お母さん……」

 ノアはびっくりしていた。自分の母がこんなに取り乱すのを見るのは初めてのことだったからだ。

 母はいつも静かに微笑んでいて、何もかもわかっているような表情でそこにいた。どんなに馬鹿なことをやったり言ったりしても、多少はたしなめたりするけれど、決して声を荒らげるということはなく、冷静沈着であった母。それは悪い言い方ををすれば鈍いということでもあるが、ノアはそれでもそんな母が大好きであったのだ。

(でも……)

 ノアは心で呟く。

(今のお母さん、ステキ)

 母も女だったのだと感じられるのが、ノアは嬉しくてしかたないらしい。きっと父もこんな母を見たら、疑いなどまったく無くなってしまっただろう。残念なことだ。

「もう、話し合うこともできない」

 サリナの声は悲痛で、ノアはもう何も言えなくなってしまった。ただ、つらく見つめるだけしか彼女にはできないでいた。



「おかえり」

 リョウゾウは室内に入ってきたノアに声をかけた。相変わらず忙しそうに何やらデスクで書きものをしながらで、口調はあくまで事務的だ。

「やあ。ノア」

 反対にナオトは心配で心配でたまらないといった表情だった。

 いつものノアなら、そんなナオトの視線もまったく無視してしまうところだが、この時ばかりは違っていた。

「いろいろと、ご心配おかけいたしました」 

 深々とおじぎをする。

「ナオト博士にはなんだか失礼なことも言ってしまって……ごめんなさい……」

 ノアは顔を上げるとしょんぼりとした表情を見せた。

「?」

 その雰囲気を感じ取ったのか、リョウゾウが書類から顔を上げた。その目は意外だといわんばかりに見開かれている。

「いったい何があったんやら……」

 彼はそう呟いたが、ノアやナオトにはもちろん聞こえてはいない。彼は首を振ると、再び机上の書類へと視線を落とした。

「ノア……」

 ナオトは顔を輝かせている。まったく不謹慎な男だ。ひともんちゃくはあったものの、こうやって彼女がまともに口をきいてくれるのがうれしいのだ。おめでたいとしかいいようがない。

「………」

 ノアはナオトをじっと見つめた。

 普段の彼女なら、ここでかなりの不愉快さを感じるところである。だが、やはりゆうべの母との会話が深く心に突き刺さっていたのだろう。そんな気にはなれないらしい。いつになくしおらしいノアであった。

「ノアが来てるんだって?」

 そこへいきなりタカオが飛び込んできた。

「おじゃまします」

 そのうしろを遠慮しがちに入ってくるシンゴ。それでもやはりノアのことが気になるらしく、様子をさぐるようにそっと視線を彼女に向けた。

「やあ。シンゴくんにタカオくん」

 それを諸手で迎えるナオトであった。

「シンゴ……タカオ……」

 するとノアは複雑な表情を自分の友人たちに向けた。

「大丈夫か?」

 シンゴがやさしくそう言ってノアのそばにきた。

「なんていっていいかわかんないけど、元気だしなよ。僕たちでよければ相談にのるからさ」

 タカオが明るい声でそう言った。ノアの心を解きほぐそうとしてのことらしい。

「タカオ……」

 ノアはそう言ったきり、言葉につまってしまった。

「ノア……」

 タカオは少し拍子抜けしたようにノアを見つめた。いつもの彼女ならここで『デリカシーのないやつ』と怒るところである。だが、それ以上何も言わない。

「ありがとう」

 それだけ言うのがやっとであった。

 タカオの気持ちがわかったのであろう。ノアは半分泣きそうな表情を見せたが、なんとか笑おうと努力していた。



「しかし、せっかくアーネスト博士の息子さんが見つかったっていうのに、こんなことになってしまうとはね」

 足を組んで、少し行儀が悪い恰好ではあったが、リョウゾウはコーヒーをすすった。

「まったくです」

 それにこたえてナオトがうなずく。

 ふたりを取り囲むようにノアとシンゴ、タカオが椅子に座り、同じようにコーヒーカップを手に持って神妙な顔をしていた。

 彼らは休憩室にやってきていた。リョウゾウたちの仕事が一段落ついたからである。

「…………」

 ノアは両手でカップを持ち、じっと中身を見つめていた。

 すると、おもむろに顔を上げるとリョウゾウに問いかけた。

「リョウゾウ博士も父のプロジェクトのことを知っていたのですか?」

「ああ。詳しくは知らなかったがね。深宇宙探査のことはナオトくんのほうが詳しいはずだよ」

「そうですか……」

 それから彼女は、一瞬言いよどんだが続けて言った。

「では…おじさまも……フォレスト総統も知ってらしたんですか?」

 その質問はナオトに向けられたものであった。ノアの顔が心なしか青ざめている。

「御存じだったよ」

 そんな彼女の様子に気づいていないのか、ナオトは事も無げに言い切った。

「というのも、深宇宙探査の構想はもうずいぶん前からあったらしくて、総裁が学生のころから心に温めてこられたものらしいんだ。で、総統もそれにとても興味を持っておられて、総裁と総統と、そして総裁の奥方のサリナさんと三人でよく話し合っておられたそうだよ。いつか三人でその旅に出られたらっていうことで……」

「そ……う…なの…」

 ノアはナオトから視線を外すと、うつむいてしまった。手に持たれたカップがふるふると震えている。

「……?」

 それをめざとく見つけたのは、もちろんシンゴである。彼は『何かある』と思った。

「でも……」

 しかしシンゴは、何事もなかったような顔をして話しだした。

「ケレス総裁が亡くなって、探検センターの総裁の椅子はどなたが受け継がれるのですか。候補だけはすでにもう上がっているのでしょう?」

「その通り。すでにもう決まっているよ。候補というわけではなく、総裁みずから本人に通達がいっている」

 それに重々しくこたえたのはリョウゾウであった。

「あ、それってきっとリョウゾウ博士じゃないかな。年功序列ってやつで……」

 のうてんきな声でタカオがそう言った。シンゴもかすかにうなずく。

 

 センターでは四十代、五十代の人物がいないでもなかった。しかし、こう言っては失礼なのだが、みなそれほど優秀というわけではなかった。それに総裁という地位は研究ができるだけではすまされない。未知なる惑星での外交なども、総統に代わって遂行しなければならない場合もあるのだ。

 そういうことを考慮に入れれば、リョウゾウは若くはあるが、統率力もあるし、かもしだされる威厳というものもなくもない。多少偏屈なところが無きにしも非ずだが、それを言ってしまえばケンイチも偏屈と言えなくもなかった。だからリョウゾウが就任しても誰もおかしいと思う者はいないであろう。


「いや、私ではない」

 するとリョウゾウはあっさり首をふった。

「えっ…とすると…?」

「ナオトくんだ」

「え、ええぇぇぇぇ─────!?」

 一同びっくり仰天で叫んだ。

「なんですってぇ!」

 これにはさすがのノアも驚愕した。母たちの関係でやきもきしている場合ではない。

「総裁からそのお話をいただいた時は、私も正直いってびっくりしたよ」

 ノアたちの驚愕のまなざしを浴びながら、ナオトは照れたようにポリポリと頭をかいている。

「いったいどういうことなの?」

 ノアはナオトに詰め寄った。思わずカップのなかのコーヒーがこぼれかけ、彼女は慌ててそばのテーブルにそれを置く。

「説明してよ。なんでお父さんはあなたなんかに総裁の地位を約束したの?」

「ひどいなあ。あなたなんかって……そりゃまあ、気持ちはわかるけどね。私だってそう思ったものな……」

 ナオトは困ったような表情を見せた。

「ほら。ノアたちも覚えてると思うけど、きみたちが火星に出発する時に、私も一緒に行くはずだったのを総裁に呼ばれてあとで行くことになっただろ」

「あの時なの?」

 ナオトは、目をまんまるくして自分を見つめるノアを見つめかえした。

「………」

 なぜか彼の顔が赤くなった。

 今までそんなふうにノアから熱い眼差しを向けられることがなかったせいだろう。まるで年端もゆかぬ少年のようだ。

「こほん」

 ナオトは気持ちをしっかりと持つためか咳払いをひとつする。そして、あの時ケンイチに呼ばれて執務室に出向いたときのことを喋りはじめた。



「君を呼んだのは他でもない」

 唐突にケンイチは切り出した。

「はい。なんでしょう?」

 執務室は探検センターの上層部に位置し、白く清潔なそこは、かなりの広さだった。

 透明なクリスタルデスクが窓のそばに置かれてあり、その窓は壁一面がデスクと同じクリスタルガラスであった。もちろん、日光が直接入ってこぬように細工はしてある。そうでなければ窓全体が巨大な虫メガネになってしまい、執務室にいる人間はあっと言う間に焼け焦げになってしまうだろう。

 とかくこの時代の人間は『透明なもの』にご執心で、なんでもかんでもクリスタルでつくりあげてしまうようだ。

 ケンイチ・ケレス総裁は、そんな巨大な窓から外を眺めていた。

 彼はゆっくりと振り返り、ナオトに向き直る。相変わらず両手は後ろで組んだままだ。

「この度私は深宇宙探査のために外宇宙へと旅立つこととなった」

「そっそれは……」

 ナオトは驚いて声が引っ繰り返ってしまった。慌てて背筋を伸ばす。

「おめでとうございます……総裁の夢がとうとう叶うのでありますね」

 そう言いながらも、彼は少々複雑な表情を浮かべた。

(ノアはきっと知らないんだろうな)

 ケンイチはナオトの祝辞にうなずいたが、厳しい顔を崩さない。

「それにともなって、君には伝えておかねばならないことがある」

「はい」

 ナオトはそう返事をしたものの、いったい総裁は自分に何を言うつもりなのだろうと考えた。まったく彼には思い当たることがないのだ。

「ワープ航法のおかげで、遠方の星雲もそう遠いものではなくなった。しかし、調査のための旅は、ただ行って帰ってくるというものではない。深宇宙探査は、もちろん通常の探査と同じで星図を作成し、未知なる星系を探しだして地質調査や学術調査を行い、初めて遭遇する人類以外の生命体と交流を果たすというのがその趣旨である。一朝一夕で終わるものではない。しかも外宇宙となると、ほとんど未踏の場所だ。何もかも手探りの行程となる。おそらく今度の旅は永きにわたることだろう」

 ケンイチはここで一息ついた。そして自分の言っていることがナオトに浸透したであろうかといいたげに、目の前に立つ男の顔をじっと見つめた。ナオトはしきりにうなずいている。それを確認してからケンイチは続けた。

「最低でも三年……いや、五年は帰ってこられないだろう。そこで私が留守のあいだ、ナオトくん、君にこの探検センターを任せたいと思うのだが………」

「え……?」

 一瞬ナオトは何を言われたのか理解できなかった。ポカンと口を半開きにして尊敬する総裁の顔を見つめた。ケンイチはというと、至極まじめな顔をしながら言葉を続ける。

「君には私が戻ってくるあいだ、臨時の総裁に就任してもらう」

「ええっ?」

 さすがのナオトもケンイチの言わんとすることがようやく飲み込めたらしい。

「そして、もし私に何事かあった場合……」

 彼の口調は妙にさりげない。

「ナオトくん、いいかね」

 とたんに、さりげない口調から一変して、彼は重大な事を言い切った。

「君にはそのまま新総裁として私の後を継ぐことを言い渡しておく」

「!」

 ナオトは絶句した。



「………」

 話を聞きおわり、ノアはあからさまに憮然とした表情を見せていた。

「自分にはとてもそんな大任は無理だと断ったのだけどね」

 ナオトはため息をついた。

「総裁が、いったん決めたことをくつがえすはずもない……」

 ナオトの言葉をついで、リョウゾウがそう呟く。そしてさらに続けて言った。

「だが、私は別段変にも思わなかったな」

「ええっ?」

 リョウゾウの言葉にノアたちはびっくりした。

「なんでそんなこと言うの? リョウゾウ博士ったら!」

 ノアが叫ぶ。

「お父さんのあとを継ぐのに、なんでナオト博士がふさわしいのよ!」

「まあ、きみがそう思うのも無理はないかもしれないがね。ナオトくんは確かに見た目はたよりないからな……」

 まったくフォローになっていない。

「はは……」

 ナオトは同僚の言葉に力のない笑いでこたえた。

「………」

 リョウゾウは、そんな彼を意味ありげな横目で見つめた。

 だが、ノアはリョウゾウの含みのある目にも気がついていない。キッとナオトをにらみつけると怒鳴った。

「ヘラヘラ笑ってる場合じゃないでしょ。男だったら怒ってみなさいよ!」

「いや、ノア」

 視線をノアに移し、リョウゾウは怒鳴り散らす彼女に苦笑まじりの顔を見せた。

「そういう彼だからこそ総裁にふさわしいとも言えるんだよ」

「え…それってどういう……?」

 ノアは怪訝そうに首をかしげた。

「ナオトくんだって何もわからない馬鹿じゃあない。己のプライドを傷つけられた時は、彼だって心の中で憤りを感じるはずだ。しかし、だからといってそれを即顔に出していたら、人とのコミュニケーションは成り立たない。きみは四六時中彼の様子を見ているわけじゃないだろう? 彼にだって別の面があるということを考えてみたこともないのかね」

「ないわ」

 ノアは即座に断言した。

「ナオト博士はやっぱり、優しいだけのふぬけ人間だと私は思う」

「ふぬけはないだろ」

 ノアの言葉にナオトは苦笑した。それでもやはり怒る気配はない。

「ほら。こーんなに失礼なこと言っても、全然怒らないじゃないの」

「いや……ノア…それは…」

 さすがのリョウゾウもそれ以上は言いにくいらしい。するとそんな彼に代わってシンゴが事も無げに言い切った。

「それはナオト博士がノアに対して何も言えないからじゃないですか」

「それって……」

 ノアの表情が変わり『マズイ』といいたげに呟く。

「そうだね」

 するとナオトは満面に笑みを浮かべ口を開く。

「それは私が……」

「ストオォォォ─────ップ!!」

 ものすごい大声でノアが彼の声をさえぎった。

「こんな大勢の前で言うべきことじゃないんじゃないの。まぁったく、タカオと一緒でデリカシーのかけらもない人なんだからっ」

「………」

 いくぶん頬を赤くさせたノアの顔を嬉しそうに見つめるナオト。

「むっ……」

 そんな彼の視線に気づき、ノアはプイッと横を向いてしまった。

「なんでなんで? なんでそこで僕の名前がでてくんのさ」

 気まずい空気が流れる中、タカオの脳天気な声だけが虚しく響いている。

「とにかく……」

 タカオの言葉にはこたえずに、リョウゾウとしては珍しく慌てて話を続けた。

「私は彼のようにいつも穏やかでいるという芸当はできない。嫌なものは絶対嫌だし、したくないことは死んでもしたくない。嫌いな人間には口もききたくないし、ましてや人類以外のエイリアンなんてもってのほかだ」

 早口で喋っていくうちにリョウゾウも落ちついてきたらしい。

「ノア」

 あまり普段は微笑むということをしない彼が、珍しくニッコリ笑ってみせるとノアの目をじっとのぞきこんだ。

「きみが思うほどナオトくんはボヤッとしているわけではないのさ。その証拠が今回の抜擢だよ。ケレス総裁が選ぶからには、それだけの人物だという確証があるからなんだ。選ばれたというそれだけで、もう証明みたいなものということだ。つまり、ナオトくんを否定するということはケレス総裁も否定することになるんだよ」

「………」

 リョウゾウにそうまで言われてしまって、ノアはもう何も言えなくなってしまった。

 それでも彼女は、ナオトに恨めしそうな視線を流すのだけは忘れなかった。まったくノアらしいとしか言いようがない態度だ。

「お父さんとの話はそれだけだったの?」

 ノアは胡散臭そうに眇めてナオトを見ていたが、そのままの姿で彼に問いただす。やはり態度だけでは飽き足らず、ひとこと何か言わなければすまないらしい。

「え…いや、それだけだったけど…ほかに何があるというんだい?」

「えっ? ああ、いいのよ。それだけなら」

 逆にナオトに問われてしまい、ノアは面食らってキョロキョロした。

(おかしい……)

 さっきから黙って事の成り行きを見つめていたシンゴは考えた。

(これは見過ごしてはおけない。やっぱり何か彼女は隠しているぞ)

 彼は思った。

 どうやらノアの態度が気になってしかたないらしい。それはまさしくお節介以外の何ものでもない。

 シンゴとしては、友人として出来るかぎりのことをしてやりたいという気持ちからなのだろう。だが、人には踏み込んでほしくない領域というものがあるということを、賢明な彼がわからないはずないのだが。

 大人びた彼であっても、それだけまだ大人になりきっていないというべきか。いずれにせよ、それがシンゴの性格なのだから、しかたがないといえばそれまでなのだが。



「まさかね………」

 その夜のこと、ナオトは自分のベッドの上にあおむけになり、天井を見つめていた。

「総裁があんなこと言ったなんて、とてもノアには言えないよなあ」

 彼は大きなため息をついた。

 探検センターの独身寮の一室。昼間の出来事に、さすがの彼も疲れ切っているようだ。

 部屋はそんなに広いわけではない。昔風に言えば八畳くらいのワンルームマンションといった感じか。ナオトらしく室内はきちんと整理整頓されていて、とても独身男の居住といった雰囲気はない。

「………」

 彼はニンマリと微笑んだ。なんとも情けない表情だ。どうやら自然と頬がゆるんでしまうらしい。このたびのことを知っている者が見たら異例の抜擢に喜んで、ということになるだろうが、どうも彼の場合は少々異なっているようだ。

「私がノアにふさわしい男か……」

 ナオトは目を閉じた。そして、総裁との話の続きを思い起こした。


「ところでナオトくん」

 総裁の顔はさっきまでとは打って変わって柔和になっている。

「君はどうやらノアに好意を寄せているらしいな」

「はっ…? ど、どうして、それをっ…」

 ナオトは途端に真っ赤に顔を染めてしまった。

「すっすみませんっ。そんな噂を総裁のお耳に入れてしまうとは……」

 ナオトは平謝りした。それはまったく大げさな恰好で、土下座でもしかねない様子だ。

「はっはっはっ!」

 すると、いきなりケンイチが笑いだした。

「………」

 ナオトはきょとんとした顔を彼に向けている。

「私はね。ナオトくん。ノアには君のような男が一番ふさわしいのだと思っているのだよ」

「ええっ?」

 とんでもなくもったいない言葉にナオトはびっくり仰天してしまった。

 ケンイチはうなずく。ナオトを安心させるようにしっかりと。そして、問いかけた。

「あれをどう思う」

「ノアですか?」

 かすかな笑いを浮かべているケンイチに、ナオトはちょっと考えてみせてから喋りはじめた。

「客観的には見れません。恥ずかしながら私にとって彼女はすべてですから」

 ためらいもなくナオトは言い切った。

「そうだ。それでいい」

 ナオトの答えにケンイチは満足そうにうなずく。

「たとえ彼女が間違ったことをしたり言ったりしても、それを優しく大きく包み込める人間……それが男としては大切なことだと私は最近気がついたのだ」

「?」

 ナオトはケンイチの言葉の裏側にかくされた何かを感じ取った。

 鈍いと言われているナオトではあるが、実はこう見えてもけっこう敏感なところがあるらしい。といってもその敏感さは、ノアに対してだけは発揮されないみたいだが。

 しかし、相手がケンイチであるから、おそらくナオト以外の鈍い者でも感じ取れたかもしれぬ。

 というのも、この偉大な人物は普段から無表情で、己の感情というものをチラともかいま見せるということがない。そのために、ほんのちょっとの動揺がずいぶん如実に心をさらけ出してしまうことにつながるからだ。

 しかし、ナオトは賢明なことに何も言わなかった。じっと黙ってケンイチの言葉を聞いていた。

「私は灰色という色が非常に嫌いだ。つまり白か黒かどちらかはっきりしたものでないと気がすまないのだ。そのために他人にもそれを強制してきたところがなくもない」

 ケンイチは再びナオトに背を向けると、クリスタルを通して青空を見つめた。

「人の心とは難しいものだな。ナオトくん」

 彼はため息をつきながらそう言った。

「君はノアを、どんなことがあっても変わらず愛し続けるのだろうな」

 それはナオトに対する問いかけというものではなかった。ケンイチがナオトというひとりの人物に対して感じている正直な気持ちであるようだ。

「神にかけて、それは信じてくださってよろしいかと存じます」

 ナオトはきっぱりと言い切った。それに対し、ケンイチは問いただすように言う。

「もしも彼女が他の男に心を奪われたとしても……?」

 相変わらずケンイチは背を向けたままだ。

「私のことですから、おそらく彼女を取り戻すためにあがくでしょう。なりふりかまわずに。そうしてでも手に入れたい人ですから」 

 すると、ピクリとケンイチの肩が動いた。

「?」

 それはかすかなものだったが、ナオトは見逃さなかった。

「まったく……」

 ケンイチはゆっくりと振り返る。彼の顔には、今までにナオトが見たことのない微笑が浮かんでいた。

「……君という男は……男の風上にもおけぬ奴だな。せいぜい気をつけることだ。情けない男だと誤解を受けることになるからな。そんなことでは、彼女を手に入れるには苦労するぞ」

「それはもとより……」

 それに対してナオトは不敵にもニッと笑ってみせた。きっとノアがその顔を見たら驚くだろう。それほど彼らしくない表情だったからだ。

「私は私以外の何者でもありません。たとえ自分を偽って彼女を手に入れても、そこには本物の愛は生まれないでしょう。そんな愛を手にするくらいなら、私は一生誰も愛しません」

「それは人類に対する離反だぞ」

 ケンイチの表情が強張った。

「かまいません」

 事も無げに断言するナオト。

「私はかなり古風な人間なんです。愛のない関係など絶対に受け入れられません。それでたとえ人類が滅びようとも、私は必ず自分の気持ちを押し通すでしょう」

「………」

 ナオトの過激な言葉に、ケンイチは少なからず驚いているようだった。

「……君の本当の姿を、あの娘が知ったらどう思うだろうな」

「それは、いつか彼女に私自身が聞いてみることにします」

 自信たっぷりにそう言うナオトを見て、ケンイチは知らず頭を振っていた。

 彼はおそらく、ナオトは本質的には己と同じ種類の人間なのだと直感したのかもしれない。ただ、ナオトは自分と違ってその性格を充分把握していて、それをケースバイケースで使い分けている。

 しかしそれは、下手をすると卑怯者とそしられかねない。そんな危うさを、ナオトは自然体で受け入れている。それはひいてはケンイチよりも人間的に優れているともいえるかもしれない。

「やはり、ノアには君がふさわしいようだな。君の本来の姿もこうやって知ることができて、私は安心したよ」

「とんでもありません。私は私です。ノアに怒鳴られっぱなしの私が一番私らしい私なのですから……情けないことです」

 そう言いながらナオトは、いつもの気弱な微笑みを浮かべていた。

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