第37話 書庫の猫

 その一室は千代田区永田町の国立国会図書館の地下に造られていた。


 アキとナナフシは教授の助手でサンと名乗る猫に案内されてこの一室に通された、黒柴犬のクオンは流石に猫の棲家に立ち入る訳にもいかずに外で待ってもらっている。室内にはうず高く様々な本が足場の無いほどに積み上げられていた。


「 サン 遅いではないか いったい何をしておったのだ おや お客さんかな 」

 本の山の間から1匹の毛足の長い年老いたトラ猫が顔を出した、ペルシャ猫のようにも見えるが少し違う種類のようである。


「 サン どちらさんかな?」

「 教授 教授に聞きたい事があるとのことで新宿エチュードの方からの紹介です 」

「 ほう 私にかな 」

「 あっしら東京西部の方から来やした 今日はちょっくら学者猫先生にお尋ねしてぇことがありやして 」

 ナナフシが頭を低くしてサンが教授と呼んだ猫に挨拶する。


「 こちらナナフシさんとアキさんです 」

 続いてサンが紹介をしてくれた。

「 ふむふむ 学者猫などとはおこがましいが私なんぞで役に立つなら何なりとお答えしますぞ 」

「 それじゃぁ単刀直入に 教授 アナクフィスィという猫をご存知ですか?」

 アキが真っ直ぐな目で教授に問い掛けた。


「 懐かしい名じゃな 知っておるぞ 昔 よく本を読みにここへ来ていたものだ 」

「 それは何時頃の話ですか 」

 アキが続けざまに質問する。

「 さぁな かれこれ10年以上前の話じゃろうな まだ若く聡明な猫であった 」

「 それ以来会ってはないのですか 」

「 いや 5~6年前に一度訪れたのは覚えておるぞ 」

「 何をしに来たんですか?」

「 はて 他愛も無い昔話じゃったと思うのだが 」


「 彼はどの様な猫なのです?」

「 どの様なと言われてもなぁ 深くは知らんよ 確か人間の家族に飼われておる家猫じゃったのう ここへは家を抜け出して来ると言っておった 飼い主の人間夫婦も博識な人物らしく家にも本は沢山あるが全部読んでしまいここに本を読みに来ておったのじゃ 本についての会話ばかりしておったからの 古代ギリシア語やラテン語も読めたようじゃ 私なんかよりよほど学者らしかったぞ 」


「 それで 彼は何に興味を持っていたとかわかませんか 」

「 さて 人間の宗教観や科学に対する造詣は深かったが 興味は全てにおいて尽きる事はなかったであろうな 」

「 彼の最近の噂などはご存知ですか 」

「 いや 私はここに籠もりっきりで外の世界の事など無知もいいとこじゃ 滑稽じゃな 知識を求めるあまり誰よりも無知な猫になってしもうた それで アナク君がどうかしたのかね 」


「 彼は何か途轍もなく大きな事をしようとしてます この世界を絶望で満たす器にするとか何とか 」

「 ほう それは興味深いのう 絶望に満たす器か それで現実には何をした 」

「 僕らの地域で伝染病を振り撒きました あとはぐれ猫を集めてます 」

「 伝染病にはぐれ猫とな それは どの様なやまいなのかな 」

「 酷い吐き気と体調不良みたいです 人間からワクチンを接種された猫はまだ症状は出てないようです 」

「 吐き気か 吐しゃ物により病原菌を拡散するタイプで空気感染力は弱いじゃろうな それで死者は?」

「 いえ 今のところは ただ二次感染が広がってます 」

「 ふむふむ いまいちわからんのう 猫に伝染病を広めてどうするつもりじゃ しかも死に至る病では無い それがどう絶望なのか 」


「 思い付く可能性は?」

「 可能性ならいくらでも推測出来る じゃがあくまで推測の域じゃ 」

「 推測で構いません 」

「 そうじゃなぁ 例えばまだ単なる実験段階なのか 或いは失敗作なのか はたまた変異性のウィルスなのか 」

「 変異性?」

「 そうじゃ ウィルスというものは変異を起こしやすいのじゃ 例えば毒性は低いが感染力の高いウィルスと毒性が猛烈に高いが感染力が殆ど無いウィルスが接触して変異を起こすと感染力が高く毒性も高いキラーウィルスが生まれる可能性がある 」

「 意図的にその様な物を作り出す事は可能なんですか 」

「 それは私のような猫にはわからんよ 知識は得る事が出来ても それを実用するほどに猫は器用では無いからのう 人間の様に高度な道具を作り出し使いこなせなければ不可能じゃろう 私の知る限りアナク君は精密な人間の手では無くごくありふれた猫の手であったぞ 」


「 人間の協力者がいます 」

「 そりゃ驚きだな 」


「 学者猫先生 驚いてねぇよな 」

 話に置いてけぼりだったナナフシが教授に怪訝な目を向ける。


「 これは失礼 実は彼が特定の人間となら会話が出来る事は知っていた それがどの様な仕組みなのかは知らんがな テレパシーの様なものだとアナク君は言っていた テレパシーとは意識で繋がった状態の事だ 意識が繋がっているのなら協力者であっても不思議では無いからのぅ 」

「 それで 人間の手を借りたなら可能なのですか 」

「 可能性としてならな 流石に私には何とも言えん 生憎人間と会話した事など無いからのぅ 人間の技術がどの程度進んでいるのかが分からんしな 」

「 もし そうだと仮定したなら 」

「 猫を媒体にして世界にキラーウィルスを拡散させるつもりなのかも知れん それなら絶望と言うワードと符号する 」


「 じゃぁヤツは病をバラ撒いたが今はまだ大した病じゃねぇ だけどそのうち俺ら皆んな死んじまうのか 」

「 アナク君の言う世界というものが何を意味するものなのかが分からんと何とも言えんな 猫の世界なのか 人間の作り出しだ世界なのか 神の作り出した世界なのか ただ ウィルスに感染すると体内で抗体が作られる この抗体を持っていると同じゲノムを持つウィルスには二度は感染しない 人間からワクチンを接種された猫が症状が抑えられたのはウィルスのベースが猫特有の感染症だったのかもしれんな どの様に変異するウィルスかが分からんと何とも言えんが もしかすると一度感染した猫は変異したキラーウィルスからも抗体により守られる可能性はあるのぅ 」


「 ナナフシ わかった?」

「 いや さっぱりわからんぞ 」

「 つまり 死者の出てない今のうちに病気になっといた方がいいってことですか教授 」

「 もしかしたらの話に過ぎんぞ 」


 アキは難しい顔をする。


「 それで アナキーは何がしたいんだと教授は考えますか 」

「 それは直接本人に聞くしかあるまい 彼の考えてる事など誰にも分からんよ 聞いたところで誰も理解も出来んかもしれんしな 彼は異質だ この世界において唯一人異質な存在なのかもしれん 彼を理解しようなどとは思わん方がよいぞ 」


「 教授は彼の事はよく知らないと言いながらも随分お詳しいですねぇ 」

「 なんじゃ 私を疑っておるのか若者よ じゃがそれはとてもよい事じゃ 何事にも疑いの目を向けることは大切じゃ 君はなかなか見込みがあるぞ 正直に言おう 私はアナク君に嫉妬しておった 彼は若くして私の求めるものを持っておった それは私がどれ程までに切望しても手に入れる事の叶わぬものじゃよ それが何なのかは言葉で現すのは難しいのぅ 天啓とか啓示とか真理とか呼ばれるものなのかもしれん 私が求めて止まぬものを生まれながらにその身に宿した猫 私は深く嫉妬したものじゃ 自分の持たぬものに嫉妬する 愚か者なのじゃよ だから彼を知りたかった 彼が何処から来て何処へ向かおうとするのか 出来る事なら共に歩みたかった だが私はそうしなかった 臆病者じゃ 私から君等に話せる事はこれくらいじゃのぅ 彼を止めれるなどとは思わぬ方がよいぞ だが活路は他にもあるはずじゃ その路を探すことをお勧めするよ お役に立てずに申し訳無い 」

「 いえいえ お話が伺えて光栄です 困った時はまた伺ってもいいですか?」

「 構わんぞ それより ナナフシ君じゃったかのう ちょっとばかし解剖させてもらえんかのぅ 君は研究対象として非常に興味がある 最初は奇形種かとも思ったがどうも根原的に違う気がするのじゃが 」


 教授が爛々とした目をナナフシに向ける。


「 よかったなナナフシ 解剖してホルマリン漬けにしてくれるってさ 」


「 じょ 冗談じゃねぇ 用が済んだならさっさと帰るぞアキ 」

 そう言うナナフシに引きずられるようにアキは教授の本に埋もれた部屋を後にする。

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