一、変な女!

 朝、目が覚めると私は猛烈な吐き気に襲われていた。

「気持悪……」

 こんなんじゃ仕事なんかに行けやしない。

 吐きそうになりながらなんとか職場に休むと連絡をし、あとはずっとトイレにこもっている。

 どのくらいトイレにこもっていただろう。

 朝だったはずなのに、何とか吐き気もおさまってトイレから出てきたときにはすでに空は真っ暗だった。

「うう、気持ち悪い……」

 暗い部屋の中、電気をつける気力もなくそのままベッドに転がり込み、ほうっと息をつく。

 具合が悪いのは自業自得。

 だって昨夜、私は寝る前に家にあった鎮痛剤をすべて胃におさめてしまったんだから。

 死にたい、と明確に思っていたわけじゃなかった。

 ただ、現実から逃れたかった。

 それほど私の現実は荒んでいるのだ。

 昨夜はその我慢の限界が来てしまって、衝動的に家にあった鎮痛剤を全部飲んだ。

 朝目が覚めなかったらどんなに楽だろう。

 これで明日の朝起きなくてもいいんだ。

 そんな妙な安心感に包まれて意識を手放した私だったが、朝は普通に目が覚めてしまったのだ。

 強烈な吐き気付きで。

 市販薬とはいえ容量を超えて飲んだんだからそれくらいで済んでよかったというべきだろうか。

 明日も吐き気が続くようなら、仕事は休んで病院行きかな……。

 そんなことを考えながらうとうとしていると、不意に男の声がした。

「なんだ、お前。今日も具合悪いんだ?」

 声はベッドの左側にあるベランダのほうからした。

 私がそちらに目をやると、知らない男が立っていた。

 顔は上着のフードをかぶってるからよく見えないが、声の感じと話し方からして若そうだ。

 体形は、だぼっとした服を着てるからわかりにくいが、結構スレンダーな印象だ。少なくとも私よりは身長は高いし、私よりは体重も軽いんだろう。

 最近の男性は、痩せてる人が多いし、私の体はお世辞にもスレンダーだといえるほうじゃないから。

 そんなことを思いながら、見知らぬはずの彼の声をどこかで聞いたことがあるような気がして思わず彼をガン見してしまう。

 彼は上着のポケットに手を突っ込んだまま、こちらに近づいてきてそのままベッドの縁に腰かけた。

 ぎっとベッドのスプリングがきしむ。

 彼はそのまま私の額に手を当ててきた。

 額がひやりとした大きな手で包まれる。

「熱ないじゃん。風邪?」

「風邪じゃ、ない……」

「ふーん」

 彼は興味なさそうに言いながら、部屋をぐるっと見回しサイドテーブルに置きっぱなしの鎮痛剤の空箱と数枚のシートに目をとめたようだ。

「熱もないのに解熱剤飲んだんだ?」

「……」

「具合悪いのってそれ全部飲んだから?」

 私が答えなかったのを彼はどう受け取っただろう。

 彼は私の返事を待っているかのように見下ろしている。

 そのとき、それまで雲に隠れていた月が出たのだろう。薄い月明かりに彼の顔が照らされ、彼の冷たく紅い瞳が私を射抜いた。

「死にたいの?」

 彼は唐突にそう聞いてきた。

「……、わからない」

「ふうん?」

 私が言うと、彼は私の首にそっと手をあてがう。

「死にたいなら、俺が殺してあげようか?」

「殺して、くれるの?」

「いいよ?」

 どうする、と言いながら彼の指先に力が入っていくのがわかる。

 彼の冷たい手が妙に心地よく、私は目を閉じた。このまま彼にゆだねていれば私の現実は終わりを告げるのだろう。

 すべてをあきらめようとした私に、ふと小さな未練が胸をよぎった。

 何もかも無になってしまったら、この冷たい手と目を持つ男ともこれっきりなんだな。

 見知らぬ男に、首をしめられているというのに私はその男にまた会いたいと思っているのだろうか。

 わからない。

気づけば私は自分の首に回った冷たい指に添わせるように自分の指を重ねていた。それは苦しいからやめてほしい、という意思表示ではないから全く力は入っていない。

 と、彼の指から力が抜ける。

 どうしたのか、と思って目を開けてみると、彼は少し驚いたような顔で私を見ていた。

「抵抗しないんだ?」

 そして私の首に指を這わせたままくすりと笑った。

「変な女」

「あなた、誰」

 私は、ぼんやりとした頭のままそう聞いた。

「昨夜言わなかったっけ?」

 彼は少しあきれたように言った。

 昨夜?

 ああ、そういえば昨夜も男がいつの間のか部屋にいたな。

 昨夜の彼はなんて言ってたっけ。

「……、死神?」

「覚えてんじゃん」

 おかしそうに彼が喉の奥で笑った。

 死神。

 死神って顔が骸骨で黒いローブを着て手に大きな鎌を持ってるんじゃなかったっけ?

 いや、別に本物を見たことはないけど、物語によくでてくる死神ってだいたいそんな感じだし。

 今、私目の前にいる男はどう考えても実在の人間っぽいけど。

 でも、まぁ本人がそういうならそうなんだろう。

 頭がよく働かない私は考えるのが面倒になって「そっか」とだけつぶやいた。

「で? お前は結局どうしたいの?」

「わかんない。けど」

「けど?」

「あなたにはまた会いたいと思う」

 一瞬彼が息をのむのが分かった。

「変な女」

「そっかな……」

「クスリ飲みすぎてラリってんの?」

「そうかも」

 とにかく今は吐き気もひどいし眠りたい。

「ラリった女なんか連れてく気も起きねー」

「死神なのに?」

「紳士だから、さ。俺」

「自分で言った」

 私がくすりと笑うと彼は私の首から指をはなし立ち上がった。

「どっか、いくの?」

「死ぬ気もない、ラリった女の相手すんの飽きた」

 散々な言われようだが、私は彼の上着の裾を軽くつかんだ。

「何?」

「また会える?」

「さーね」

「ね」

「何だよ」

「もうちょっとそこにいてほしい」

「はあ?」

 彼は今度こそあきれ返ったように少しだけ大きな声を出した。

「お前、ホント危機感なさすぎ。いいの? 俺が何するかわかんないじゃん? お前を殺すかもしれねーんだぞ?」

「ん、何でもいい。ただ、もう少しそばにいてほしい」

「あのなぁ……」

「殺したかったら殺してもいい。ほしいものがあるなら持っていってもいいよ。でも、私が眠ってからにして?」

「なんで俺がおまえの言うこと……」

「お願い?」

 彼は私を見下ろしていたが、やがて大きなため息をついてどかっとベッドの縁に再びに腰を下ろした。

「まじでお前変な女!」

「ありがと」

 私はお礼を言って目を閉じた。

 もう眠さは限界だ。

 人肌が恋しくてそっと指を伸ばすと彼の上着に指が届いた。

 その感触だけで深い安心感が体を満たす。

 一人じゃない。

 そう実感できたから。

 このままもし殺されても文句はない。

 私が意識を手放す瞬間、彼の冷たい指先が私の指先に触れた。

「あり、がと……」

 彼が何か言うよりも早く、私の意識は闇に溶けた。


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