1-10 Jacque Cousteau Never Get That Low
♠♥.
コンクリートの階段は夜半ばのために影というよりはどす黒い闇を落とし、入ったら二度と出てこれぬような得体の知れなさを醸し出している。桜達はその暗闇を抜けて、“
「あ〜あ。絶対あのクソジジイガタガタ抜かすぜ」
装備を突っ込んでそれなりに重いバックパックを何でもないように背負う桜はインターホンを押すと、きまりの悪い顔をしてそうボヤいた。その“クソジジイ”と呼ばれた男が機嫌を損ねるであろう理由が自分であるという事を察している陽菜子も落ち着かないのかそわそわしている。やがてインターホンのマイクからいつも通りの――少なくとも桜とジャックにとっては、だが――ドスの効いた声が聴こえてきた。“モンク”の荒井のものだ。
「誰だ」
「チェリーボムとジャックドウ、加えて客人一名だ」
「その客人が誰だと聞いている!」
その声は転じて怒鳴り声に変わり、陽菜子は怯んで後ずさった。
「無関係の少女。武装も私達に危害を加える気も無し。仕込まれた殺し屋なら今頃市ヶ谷かどっかに革命後の亡国よろしく私とジャックの生首が晒されてるだろうよ」
「お前らを利用して俺達の
「安心しろ“モンク”。それは無い。少しばかり説明に時間を要するが、な。」
荒井の発言に割って入ったのは普段通りのジャックのような調子で話す見知らぬ少女だった。拳銃の
「貴様は何故俺の肩書き《コールサイン》を知っている?どこのボンクラだ」
そう凄む荒井に少女は眉一つ動かさず、自分のこめかみを指さして答える。彼女もまた、拳銃を構えるようにして。
「私がジャックドウだ」
しばらくの沈黙の後、ドアの錠が解除される小気味いい音がコンクリートづくめの廊下に響いた。再び声、ドア越しに。
「入れ」
そして桜はドアを開けて、ブーツも脱がずに上がった。ジャックもそれに倣うのを見て陽菜子がおどおどとしているのに気付いた桜が言う。
「靴は脱がなくていいぞ。そういう決まりになっている」
そう言う彼女に陽菜子もこくりと会釈して続いた。そしてリビングに通され、中の様子を窺う暇も無く陽菜子の視線はそれに釘付けになった。荒井が陽菜子に向けて右手だけで構えるUSP45自動拳銃。今日は彼女にとってどこまでもツイてない日だった。何度もこんな殺しの道具を向けられる。
「そこの見知らぬガキがジャック。じゃあジャックの顔したお前は誰なんだ?」
「わ、私は・・・」
「早い話、身体が入れ替わったのさ。私と、彼女」
怯えてロクな返事をする事もできぬ陽菜子を庇うように前に進み出たジャックが言った。
「何だと?」
「身体が入れ替わったんだよ。私だって信じられないがな」
そしてジャックは悪戯な笑みを浮かべてその身に纏う制服のリボンを持ち上げた。顔はもちろん声も背丈も、身体の発達具合も全くの他人であったが話し方と態度はもどかしい程にジャックそのものであった。荒井は自嘲気味に笑って拳銃を下ろし、側の椅子に勢いよく腰を下ろす。
ここまで来てようやく陽菜子は周りの様子を窺う事ができたが、埒の外側で銃を扱う人間達の
「頭でもブツけたのか?」
「いや、ただ半グレに犯されかかってた彼女を助けて介抱していただけだ。そしてその時、不可思議な光景を目の当たりにした」
「ほう?」
「非常に懐かしい感覚だった・・・変な事を言っているのは百も承知だが原初からの記憶を辿っているような・・・それが何時間かけての旅だったのか?私には解らない。もはやそこに時間という概念が存在したのかさえも」
桜を含めた一同が不思議そうな顔をしてジャックの回顧に耳を傾けているなか、陽菜子だけは
「やがて闇が現れ、私は―――いや、私達は刹那の吐息毎に濃さを増していく暗黒と共にどこまでも落ちていった。どこまでも・・・どこまでも・・・そして目覚めた時に私達は入れ替わっていた」
「まるで宗教家のタレるスピリチュアルナントカみたいな言い草だな。そのガキに変な催眠でもかけられたんじゃないのか」
「そんな事は無いし私は神を信じてもいない。だがアレは精神の奥底に沈殿した澱・・・いや、やめとこう。私も上手く説明できはしない。ただ1つ言えるのは※クストーだってあんな深淵には潜れなかっただろうという事だけだ」
そうジャックが艷やかな黒髪をかき上げてくしゃくしゃにしながら言った時、荒井は先の強面からは想像もできぬ程に愉快そうな表情を顔に浮かべ、やがて堪えきれぬといったふうに大声を上げて笑い始めた。
「ジャックドウだけにジャック・クストーか?笑わせる。中々スカした皮肉だ」
「クストーはジョークのつもりで言ったんだが皮肉と取られてしまった。桜が言うようにやはり“モンク”にはシャレが通じない。ちなみに今言ったこれが皮肉だ」
再び荒井は大声で笑い、
「確かに見知らぬガキだが生霊が取り憑いたかのようにジャックそのものだな。おかしな話もあるもんだ。だが―――」
荒井は顔を先の険しいものに戻して言う。
「共に数多の仕事をこなしたと言っても所詮お前は桜が連れてきた得体の知れない外人だ。お前を買ったのは得体の知れない者を雇うリスクとお前の飛び抜けた戦闘スキルを秤にかけて後者が重かったってだけの話。デタラメ言って組織を抜けて情報をバラ撒くんじゃねえか、みたいに俺達に勘繰られても仕方ないだろ?」
「何変な事言ってんだよ“モンク”!」
そう不穏な事を言われてもジャックは身じろぎもせず荒井を見つめるのみだったが彼の発言に憤った桜は眉間に皺を寄せてその会話に割って入る。
「ただでさえ私達は存在自体が違法、マスコミに情報なんかが流れりゃ大スキャンダルって身なのになぜ今ジャックがそんなスッ飛んだ事をする必要があんだよ!?そんな事するってんなら今までにいくらでもチャンスがあったろうが!」
「そう先走んなよ。別にジャックを始末するなんて言ってる訳じゃないんだぜ」
声を荒らげる桜を荒井は冷静な口調で諭し、指をパチンと鳴らした。指がなる前からそうするつもりだったとでも言いたげな神速さで荒井の後方に立っていた男達が銃を抜く。彼らが狙う先はジャックと陽菜子だった。急な展開に桜は一挙動遅れるも同じように素早く下腹部の前にクリップされた隠匿携帯用のホルスターから自分のP226自動拳銃を抜いた。彼女が照準するのは荒井の脳天だったが。
「イカれてるぜお前!何するつもりだよ!?」
「銃を下ろせ桜。こいつらに抜かせたのはあくまで保険の為だ」
「何だと・・・?」
「身体の入れ替わりなんざクストーどころか全人類が初めて経験するようなケースだろうよ。だが俺達は皆自衛隊や警察の精鋭チーム出身だ。どんな
桜にそう返すと彼は立ち上がり、右手のUSP45をテーブルの上に置くと彼の真横に設置してある戸棚からまた別の拳銃、桜のものと同タイプの拳銃を取り出した。しかし彼が握ったのは
「えっ・・・?」
「お前、名前は?」
「結城・・・陽菜子です・・・」
「よし陽菜子、最終確認の為に挺身してやろうじゃないか。俺を撃ってみろ」
「何だと!?」
桜はそんな彼の言動に驚愕したが、構わず荒井は続ける。
「お前が俺を撃つまでの挙動を細部まで観察して何も知らない素人か手練か見極める――俺の仲間がな。わざとらしい取り扱いミスは避けるこった、俺達は必要性があるが故に尋問官としての教育も受けている。下手な芝居は全部見抜いてやるさ」
「そ、そんな・・・私は!・・・私は!!」
恐慌した陽菜子は桜達に発見された時のように再び足を震わせ、顔には脂汗を浮かばせている。張り詰めた空気が室内を満たしているせいで誰もそれに気付いている者はいなかったがジャックだけが僅かに微笑んだ。まるで荒井の思惑を全て見通しているかのように。
「君が素人のように素のへっぴり腰でぶっ放して俺の身体に一発でも当たれば君は潔白だ。そして手慣れた構えで俺を射殺した後に室内の全員を葬ろうと試みたり逃走しようとするものなら君もこの小綺麗な部屋に血肉をぶち撒けるのみ、さ」
そして荒井は陽菜子の手にP226を握らせた。陽菜子は人生で初めて銃を握り、その銃自体のものとは別に指の動き1つで人の命を1つ消す事のできる道具として呪いのように与えられたその重みも小さな手で受け止めようとしていたが、どうしようもない程に手が震えた。そして荒井は先程座っていた椅子まで引き返すと再び腰を降ろして言った。
「撃ってみろ」
「私・・・私・・・できません・・・」
「撃て!!」
荒井の怒号にひるんだ陽菜子は危うく銃を落としかける。
「撃てなくてもお前を殺す」
「こんな事バカげてる!やめろ!!なんでお前らも黙って銃構えてるだけなんだよ!」
桜も堪らず黒鎧一同を怒鳴りつけたが、荒井は陽菜子以外の何者にも視線をくれる事なく座すのみ。そしていよいよ陽菜子が拳銃を持ち上げ、荒井に向けた。涙で顔をびしょ濡れにして。
「陽菜子ちゃん!やめっ・・・」
桜の制止も虚しく、陽菜子は銃の引き金を引いた。
※ジャック・クストー=フランスの海洋学者。元仏海軍将官。
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