1-9 アマツカ、某所。


 ♠♥.


 「着いたぞ」


 その身体がまだジャックの物だった時に身に着けられていた装備品の数々を外し、身軽になった陽菜子は眼帯で右目が隠されているのに慣れないといった様子で残された左目を凝らしながら窓の外を望んだ。住むに悪くは無さそうなアパート。桜達のような稼業の人間が隠れ蓑として使っているとは思えない程そこは平穏な日常の気配を感じさせた。

 桜はギアをパーキングに入れてセダンを停め、エンジンを切るとドアを開いて外に出た。陽菜子達もそれに倣う。外に出ると、天使あまつかの夜風が冷たく、だが優しく陽菜子の肌を撫でた。

 彼女はそっと自分の頬に触れてみた。身体は他人ひとのもの。でもたましいは自分のもの。そんな戸惑いがある分悪漢達に陵辱されかかった為に心を蝕んだ恐怖が先刻のように胸をいっぱいに満たす事は無かったが、なんとも言えぬこの不思議な情緒が彼女をまた違ったベクトルでもどかしくさせていた。


 『お風呂の時はどうするんだろう・・・?』


 ふと、そんな疑問が彼女の脳裏を過ぎった。他の女の子の身体を・・・私が?いや、今となってはこの身体は私の物だから何もヘンな気持ちになる事は、でもいずれ返さなきゃならない借り物の身体だから・・・陽菜子の思考は沸騰し、顔も茹でダコのように真っ赤に染まり始める。


 「おい、行くぞ」


 腰に手を当てながらそんな陽菜子を訝しむように見て言う桜に、陽菜子は慌てて首を振って歩き出そうとしたが借り物の身体の為か上手くバランスが取れなくなった陽菜子は足を絡ませつつ前のめりに転けた。


 「あいたた・・・」


 陽菜子は苦悶の声を漏らすと、膝を見た。膝の肉に砂利がクレーターを作り擦り剥けて滲んだ血が赤黒く色を着けていた。


 「バーカ何してんだよ」


 桜はそう言ってやや面倒くさそうに膝を庇っている陽菜子に歩み寄った。


 「かすり傷だな。ツバ付けときゃ治るさ・・・フツーに立てるか?」


 そう言って陽菜子に手を差し出す優しくも頼もしい桜の態度は兄を思わせると同時に母の慈愛さえも感じさせた。それに相まって先程は防弾着プレートキャリアで隠されていた桜の豊満な乳房が目に入り、陽菜子の頬を再び紅潮させる。陽菜子は礼を言ってから彼女の手を取り、赤くなった頬を隠すように俯きながら立ち上がる。そしてふいに冷えるような視線に気付いた彼女はジャックの方を振り向くとギョッとした。自分の顔をした少女がかつて浮かべた事も無いような虚無の表情で見つめていた。そんなジャックに陽菜子は気まずそうに言う。


 「あの・・・ジャック・・・さん?ごめんなさい」


 謝罪を受けたジャックは鼻から短くフッと息を吐いてからそれに応じた。


 「構わない。私だってこの借り物の身体で怪我をしてしまう事があるかも知れない。ここで君を責めるようではいざ私もそうなった時に何と釈明すればいいか解らなくなるからな。行くぞ」


 そしてジャックも歩き出そうとしたが彼女も慣れない身体で同じようにバランスを崩して転けてしまった。陽菜子と同じように。そんなジャックの醜態を見て桜は腹を抱えて近所に響くくらいの盛大な笑い声をあげながら言った。


 「ギャハハハ!仲良しかよお前ら!!」

 「・・・・・」


 ジャックはそんな桜を不機嫌そうに睨めつけた。陽菜子は苦笑いしつつもそんなジャックを見て安心した。どこか機械的に思える彼女にもちゃんと感情があるのだ、と。されど先行きは思いやられた。これから私の日常はどう変わってしまうのだろう・・・と。そして陽菜子は空を見上げる。天使不在の天使あまつかの夜空から答えが返る事はなく、ただ星達が見下ろしているのみだった。それが陽菜子の心に水面を打つ雫の如く寂しさを響かせた。


 


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