理想の生活6
みぞれさんの口から垂れ流される翰川先生への愛の言葉を聞き流しながら、隙をついて電話を掛けることに成功した。
「翰川先生?」
「!」
電話相手がわかった彼女はそわそわしている。
『どうした、光太?』
「あの……今ですね。みぞれさんが、ブラウスを先生に届けてくれるって言ってくれて。報告しておこうかなーと」
「何でバラすの裏切者……‼」
俺の首を締めんばかりに激昂しているが、ずいっとスマホを押し出してみぞれさんの耳に当ててやる。
『そうかあ。みぞれには、僕もミズリもお世話になってばかりだな。優しい妹だ』
嬉しそうな先生の声が漏れ聞こえると、みぞれさんは耳まで真っ赤になってもじもじし始める。
「……お、お姉ちゃん?」
『む。……光太め。代わってくれるならそう言ってほしいのだが』
精神的安定のため、みぞれさんから距離を取る。
しばらく会話してから電話を切り、俺にスマホを突っ返してきた。
「さっきの侮辱は撤回しよう。キミはお姉ちゃんが自慢する生徒なだけあって、なかなか気が利く男子だね! ありがとう!」
「……どうもっす……」
変態の人を真正面から相手にしているとメンタルにくる。頭痛を錯覚してきた。
きゃあきゃあはしゃぎながらブラウスを抱きしめているみぞれさんは、実態さえ知らなければ非常に可愛らしい。
「うふふーうふふー……これで、お姉ちゃんに手渡ししたら、お姉ちゃんがお礼言って褒めてくれる……」
野望があるらしい。まあ、それくらいのささやかな野望なら、害はなかろう。
「ねえ光太。僕が自費でパッキングし直すから匂い嗅いでもいい?」
害しかない。
「いやそれ洗濯してますからね⁉ 匂いなんて柔軟剤くらいですよ!」
「何を言ってるの? お姉ちゃんの優しい香りが洗濯したくらいで消えると思ってるの?」
「幻臭! どう考えても‼ 幻臭‼」
強い思い込みによって、みぞれさんの頭の中で再構成されて錯覚したもの。おそらくはそんな感じだ!
「キミもリナみたいに、お姉ちゃんの香りが化学成分に負けると思ってるんだね……あんな変態と気が合うのは業腹だけど、この点についてはミズリと共同戦線を張らなきゃ……」
「あなたも十分に変態ですが⁉ ってか、みぞれさん、リーネアさんと親友って絶対嘘ですよね!」
「リナの何を知っているの?」
「変態が苦手なところとか」
リーネアさんは、みぞれさんの同類であるミズリさんが天敵だ。パーソナルスペースを侵すタイプは見ていてぞっとするらしいので、どう考えてもみぞれさんと大親友な訳がない。
「……ちっ……京ちゃんに手出しする不届き者なら無条件でぶち転がすのかと思ってたら、とんだ計算違いだ」
「さらっと暗殺計画を吐露しないでください」
「お姉ちゃんを『秘密の家庭教師♡』にするなんて羨ましい。死んじまえ‼」
嫉妬の炎がメラメラと燃えている。勘弁して頂きたい。
そんなに甘い時間ではなかった。
「……あのですね。翰川先生とミズリさんには、ご飯ご馳走してもらったりなんだりでお世話になりまくりでしたけども、勉強のときは真面目でスパルタでしたよ。そんな甘い雰囲気……要はミズリさんを差し置いていちゃいちゃするような感じは一切ないです。天地神明に誓って言えます」
「わかってるよ。……お姉ちゃんはミズリにベタ惚れだもん。あと、ほんとにそうなってたらミズリがキミの頭をぶち割って海に捨ててる」
超怖いんですけど。
「僕を差し置いてキミとずっと一緒だなんて……いつもは僕がそこに居るのにい……」
えぐえぐと泣き始めてしまった。
彼女はあの翰川先生が相棒と呼ぶほどの人物。大学で共同研究室を受け持っているということも含めての意味であるだろうし、義足であるがために動くのが得意ではない翰川先生のサポート役というのも含んでいるのだろう。
夏休み中の出禁を喰らったことにより、常にないほど長らくお姉さんと引き剥がされて、みぞれさんも不安だったのかもしれない。
「……すみません。でも、俺は翰川先生とミズリさんに凄く助けられました。これから、あなたのお姉さんに最大限の恩返しをしていきたいと思います。普段先生をサポートしているみぞれさんにも、感謝します」
「…………」
彼女はレモン色の瞳を大きく見開き、それからふにゃりと笑った。
やはり、翰川先生とそっくりなのに別人だ。
「……別に僕なんかにはいいんだよ。僕はお姉ちゃんの影であり、杖なのだから」
「影って匂い嗅ぎましたっけ……」
「あ。せっかくいい感じに締めたつもりだったのに。細かいことを気にする男はどうかと思うよ?」
「ひっどいなこの人」
姉に変態を発揮する女性の方がどうかと思う。
もう疲れてきたので、単刀直入に聞くことにした。
「みぞれさんは、どこに宿泊するんですか?」
「? ここに決まってるよ」
いつ決定事項になったんだ。
「この家はお姉ちゃんが暮らし、お姉ちゃんが触れた家。光太は僕にここ以外のどこで過ごせというの?」
「ホテルとかですかね」
聞くに、ワークショップとやらは中央区の施設を借りて開催するらしい。どう考えても、中央区で適当な場所のビジネスホテルを予約した方が交通の便が良い。
「はあ……あのね、光太。僕はお姉ちゃんに関わることなら金に糸目は付けない。例えば、お姉ちゃんが触れたであろう冷蔵庫の持ち手を舐めさせてくれるというなら、10万円でも払うよ」
「汚いからやめましょうねそういうの‼」
「お姉ちゃんが触れればすべては聖遺物だと言っただろうわからず屋め‼」
彼女が本気で言っているとわかってしまうのが本気で怖い。
(……気が遠くなりそう……)
ミズリさんのことを変態だ変態だと思って恐れてきた俺だが、彼は、免疫のない俺に合わせて変態具合の露出を調整してくれていた。変態全開のみぞれさんと出会って初めてそれがわかった。
聞き流していると、耳の端に電子音。
「!」
スマホをポケットから取り出して通話ボタンとスピーカーボタンを押す。スピーカーにするのはみぞれさんへの威嚇音のようなものだ。
『よう、光太』
「こんちはっす。どうかしました?」
みぞれさんの語りは電話がかかってきた時点で止まっていた。
『目途が立ったから、いつ帰れるか知らせようと思って。大体、11月15日前後』
「わかりました。三崎さんには?」
『先に電話したよ。エマちゃんと居た』
なら安心だ。
「リナリア」
『うお、みぞれじゃん』
彼は驚いてるんだか驚いていないんだか全く分からない口調で、何の気なしに文言を口走った。
『どうした。お姉ちゃんと入れ違いだぞ。お前からしてみれば気が狂いそうな状況じゃねえのか?』
「リーネアさん刺激しないでください……‼」
『お、おう……悪い……』
みぞれさんは頭をガンガンとソファに打ち付けている。なまじ翰川先生と同じ容姿であるせいで、サイコホラー感が増している。
身近な人が狂うとこんな感じなのかなと思わせてくれるというかなんというか。
「お姉ちゃんの匂いから離れたくない……」
救いを求めてリーネアさんの名を呼ぶと、彼は途切れ途切れに言う。
『…………。あれだ。佳奈子のばあちゃんが大家さんなんだろ。交渉して、家賃多めに払って居候したらいいんじゃねえの。お前んちの真下、空き部屋なんだよな? っつーか、そここそひぞれとミズリが滞在した家だし……』
みぞれさんの目が輝く。
「あー……実は、下……入居者入っちゃってて……」
みぞれさんが頭を打ち付け始める。
『悪い。ムリ』
「散々引っ掻き回しといてそれはないでしょう‼」
ぶん投げるなんてあんまりだ。
『だってこいつ……ひぞれのクロゼットに入り込んで昼寝するし……ひぞれの残り湯を成分分析にかけて……いや、これはさすがに言えねえ』
「ちょうやばい!」
語彙が吹っ飛ぶほどやばい。
「……お姉ちゃんと一つになりたい……」
しばらくぶつぶつ呟いていたみぞれさんは、ふっと顔をあげて俺に両手を出す。
「ねえ、お姉ちゃんのブラウス頂戴。心が死にそう」
「気っ持ち悪いぃ……‼」
顔だけ見れば翰川先生なのだから始末が悪い。見た目と言動のギャップが激し過ぎる。
サイコホラー。
『み、みぞれ』
「なに、リーネア?」
『あのな。こいつ、苦学生の受験生なんだわ。お前のためにあれこれ時間さかせるの可哀そうだし、今回はどっかのビジネスに泊まってやってくれ』
「家庭教師してあげるよ」
「うっぐう」
そこを突かれると痛い……!
『何を心揺らしてんだお前。もっと自分の身を大切にしろ』
「ねえー、光太あ。僕ね。演算能力はお姉ちゃんと一緒なんだよぅ? お姉ちゃんの隣に立つためにいー。たっくさん勉強して教授になったからあ、お勉強教えてあげられるよぅ?」
甘い言葉をささやかれ続け、さっきとは違う意味で心が引き裂かれそうだ。
「どうしたらいいですかねリーネアさん」
『宿泊を拒否しないとお前の心が死ぬと思うけど。……まだ変態フルスロットルじゃないっぽいし』
これで未だフルスロットルでないと判定されるのが恐ろしくてならない。
『ミズリなら……百億歩譲ってわからないでもないけどさ。大体、ひぞれは既婚で、お前の実の姉だろ? なんだってそこまで強烈に思い入れてんだか』
「そんなことわかってる!」
「お姉ちゃんは僕の癒しで憧れの人で聖母なんだ!」
俺とリーネアさんは、みぞれさんの怒涛の攻勢を受けて疲弊していた。
カルト宗教の主張をまざまざと見せつけられるかのような、あまりにしつこい勧誘に『はいはいわかりましたから』とうっかり言ってしまいそうになるかのような。
俺は結局、『決して人様に迷惑はかけません』という契約書にサインしてもらうことで、宿泊を許諾してしまった。
みぞれさんは虚空からトランクを出し、うきうきと荷物を解いている。わー可愛い。
「……リーネアさん」
『なんだ』
「長々と付き合ってもらったのに……すみません」
『や……あれは、仕方ねえわ。電話口で援護受けたくらいで断れたらその方が凄いから。不可抗力だ』
割とドライなリーネアさんでさえそう思うのか……
『逆になるが、避難したくなったらケイに頼んで、佳奈子も連れて俺の家行っていいぞ。みぞれは、ミズリと違って自制の機能が未熟なんだ』
「自制が未熟な変態を自宅に置いときたくないんですけど……」
『…………。辛いだろうけど頑張れよ』
「うあああああ……」
先行きが不安だ。
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