第27話

 ふにょんっ。

 ナイアスが腕を伸ばした先にあったのは、そんな感触だった。


「んん……?」


 それが何なのか確かめるように、手を握ったり開いたりする。そのたびに、水の詰まった柔らかな袋のような、ふにふにとした触感が返ってくる。

 これは一体何だろう……?

 そうしている間に、視界が真っ暗なのは、目を瞑っているせいだと気付いた。そして、自分が機体調整の真っ最中だったことを思い出す。

 ならば、先ほどまでの、記憶に焼き付いたあの情景は、夢だったのだ。


「ああ……最悪だ」


 望まない別れの記憶を呼び起こされたことへの、やるせない不満をぼそりと呟いて、重い目蓋を持ち上げると。


「——そうですか」


 目の前には、肩をふるわせる金髪の少女の顔。

 眼鏡のレンズの向こう側で、伏し目になっている瞳はこちらからはよく見えない。

 が、声の調子に怒気を感じるのは難しくなかった。


「げっ」


 ナイアスは慌てて手を離した。

 その手が置かれていたのは、リズの胸元だったのだ。置かれていた、というより、がっしり掴んでいたのだが。


「『げっ』じゃ、ないです」

「あ、いや、その……」


 掴まれていた胸を自身の両手で抱きしめるようにしながら、リズがナイアスを睨んだ。頬を赤く染めた彼女は、続けて口を開いた。


「それに、『最悪』ってどういうことですか?」


 問われたナイアスはぽかんとする。

 何のことを言っているのかが理解できなかったのだ。

 その沈黙をどう解釈したのか、リズの目に光るものが盛り上がり始めた。


「あっ、あっ、ちょっと待てってば。これは! そういう意味じゃなくて!」

「じゃあどういう意味だったんですか」


 ぐぬ、と詰まりそうになるが、ここで黙ってしまっては彼女が泣き出すのを止められない。

 仮に、ナイアスに冷静になる暇があれば、リズの言っていることが、ナイアスが夢に対する感想として漏らした一言のことだと気づけたのだろう。

 しかし、ナイアス自身、思わぬ接触に慌てていたのと、その状況に加えてリズの涙目の顔を見てしまったのとで、半ば取り乱していたのだ。普通なら分かるようなことでも、とても気づけない。

 だから、言ってしまった。


「最悪、じゃなくて、発育、だよ。思っていたより育ってるな……って……」


 辺りの空気が冬の朝のように冷え込んだ。

 ぞくりとくる寒気。にも関わらず、ナイアスの背中からは汗が噴き出す。操縦席を覗き込んでいる少女が発する無言の圧力に、縮こまるしかない。

 これなら、魔族の将と対峙していた時のほうがよっぽど気楽だった。


「——なるほど。なるほど……そういう意味だったのですね。納得しました」

「あ、ああ……分かってくれたか」


 うんうんと頷くナイアスだが、表面上のやりとりとは別に、危機感は高まるばかりだった。


「はい。先生のお心は完全に理解しました」

「うぅん……それは……まあ、よかった」

「これまで私のことをどういう目で見ていたかも、しっかり理解しました」

「そ、ソウダネ……?」


 先ほどから、リズは半眼のままこちらを見つめている。

 ナイアスの神経が、しきりに警鐘を鳴らす。

 今すぐ逃げろ、でなきゃ死ぬぞ! とか、そんな感じに。


「ところで先生? ご存じかどうか尋ねたいことがあるのですが」

「……ええっと……、なにかな?」


 だが、天機兵の操縦席の出口は一つしかない。

 胸の装甲を跳ね上げると、前面が大きく開くので、そこから乗り降りする形なのだが、そこにはリズが腰に手を当てて陣取っている。

 退避は物理的に不可能だった。


「王家に対する侮辱罪の法律は、共和国下でも有効なんですよ? ちなみに……最高刑は死刑です」

「……ソウダッケ?」


 口元がひくひくと痙攣しているリズの引きつった笑顔に、ナイアスは冷や汗が止まらない。


「ええ、本当ですよ。こんな大事な話で、嘘を吐いたりしません」

「いやもう、リズのことは信頼しているから……」

「そうですか」

「はい……」


 直接的に非難されているわけでもないのに、圧力が高まっているのはなぜなのか。

 この空気に耐えきれず、ナイアスは頭を振った。


「あのですね、リズさん」

「なんでしょう」

「……すみませんでした」


 もう謝るしかないよね? の心境に至ったナイアスが、全面降伏の宣言をする。

 ところが。


「そうですか」


 ……これである。

 会話が一方通行になるのが、こんなにやりづらいとは知らなかった。


「本当に悪かったと思ってまして……ええと……お詫びに何かできることはあるでしょうか」


 なんとか機嫌を取ろうと思って、下手に出ても、


「いえ。先生は機体の調整で忙しいでしょうし、特には」


 取り付く島もないのだった。


「……ううむ」


 自分に非があるのが分かっているだけに、謝る以外の手立ては思いつかないわけで。

 ナイアスは肩をがっくりと落とした。

 そこに、リズからの冷たい指摘。


「調整、続けなくていいんですか? もう朝ですよ」

「あ、そんな時間か……まずいな」


 展示されている天機兵も夜間には格納庫にしまわれる。防犯の観点からも当然のことだったが、格納庫の中で、さらに操縦席にいたのでは、外の様子は分からない。

 思っていたよりも長い間眠り込んでいたと知ったナイアスが、そのときばかりは敬語ではなく、素に戻って反応した。そこに、リズの一言。


「終わってないんですよね? 急いだ方がいいですよね?」

「あっ、はい……すぐにやります……」


 残りの調整にかかった時間は、半時ほどだったが、その間ずっと、二人はこんな調子で。

 結局、ナイアスの迂闊な発言は、最後まで許して貰えなかったのだった。 

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