第17話

 目覚めたナイアスが最初に気付いたのは、辺りに漂う消毒薬の匂いだった。


「ここは……?」

「学内の診療室です」


 答えたのは、聞き覚えのある声。

 彼女に言いたいことは当然あるが、それより先にナイアスは自分の声に驚いた。

 ひどく、しゃがれていたからだ。少し前の嘔吐の影響だろう。あのあと結局、続く発作にこらえきれずに戻してしまったのだ。


「……ああ……」


 仰向けになった自分の視界に、心配そうにこちらを見ているリズの顔が入っている。


「そうか、そういやそんなものもあったな……」

「はい。診察されたお医者様が仰るには、外傷はないから心配はいらないはず、とのことだったんですが……痛いところとか、ありませんか? お医者様はちょっと席を外されてるんですが、先生のお具合が悪いようなら、すぐに呼んできます……っ」


 揉み絞るように手を動かしながら、彼女は言った。


「いや、大丈夫だ。その……天機兵から降りれば、すぐに落ち着くんだ」

「先生……? それは一体、どういうことですか?」


 一度は言い淀んだナイアスだが、結局、素直に体調不良の原因を告げることにした。


「うーん、つまりだな……なんて言ったっけ、そうそう……」


 この症状が出るようになって、医者に言われた言葉をナイアスは思い出す。


「——トラウマ……ってやつで、俺はもう天機兵には乗れないんだ」

「……え」


 目を丸くするリズに、ナイアスは頬を掻こうとする。腕を持ち上げたために、シーツがはだけると、リズが目を逸らした。


「んん……? ぁ」


 なぜか、上半身が裸だった。


「あのその、お医者さん曰く、先生の搭乗服が汚れてしまっていたので、それで脱がせたと……」

「んん……そういうことか」


 狭い操縦室コクピットの中で嘔吐したのだから、酷いことになっていたのだろう、とナイアスは納得した。


「戻したぞ」


 はだけたシーツを直してから、ナイアスはリズに呼びかける。

 見られて減るようなものではないのだが、変に反応されるほうが気詰まりになるな……。

 彼女が視線を戻した後も、どことなくギクシャクした空気が流れているのを感じて、ナイアスはそんなことを思った。

 雰囲気を戻すために、空咳を一つする。


「それよりだな……。どうして遅刻したんだ、リズ」


 責めるような響きにはならなかった、とは言えない。


「すみません……」

「理由を聞いているんだが」


 彼女が予定通りに到着していれば、ナイアスが搭乗することはなく、当然、このようにここで寝込む必要もなかった。それに……試合に、あそこまで無様な負け方をすることもなかっただろう。

 そう思うと、自然に言葉の調子がきつくなってしまう。


「ここに来る途中で、道ばたで倒れている女の子がいたんです……。その子を病院に連れて行ってあげて……それで、遅刻してしまいました」

「……そりゃまた……」

「ごめんなさい」


 予想もしていなかった話を耳にして、ナイアスは反応できなかった。そこに、さらに神妙に詫びるリズ。

 日頃から生真面目な彼女がつまらない嘘を吐くとは思えない。


「いや、そういうことなら……仕方ないな。行き倒れか何か……かな? この近く?」


 ナイアスは怒りの矛先を納めて、どこで起きたことなのかを確認する。

 この都市の治安はそう悪くないが、暴漢に襲われた可能性もある。場合によっては、教務課に連絡して、学生に注意を促す必要がありそうだ。そう感じたナイアスに。


「ええと……サンセット通りの裏手の道です。行き倒れ……というよりは、急病かと思ったんですけど」


 リズは、自分がそう考えた根拠と、彼女を病院に連れて行くことになった経緯を詳しく説明する。


「——なるほどな。俺でもそう思うだろうし、病院に連れて行ったのは正解だと思うぞ。それで、どうなった?」

「ありがとうございます。それで……病院に案内して、診察が始まったところで、試合に遅刻しそうだと思って、こちらに急いだんですけど……」

「まあ、それは仕方ないことだから」


 彼女が重ねて謝りそうな雰囲気を感じ取ったナイアスは、横になったまま、気にするなと言うように頭を動かしてみせた。


「……しかし、なんだか——」


 リズが説明した少女に、どことなく覚えがあるような気がした。


「どうかしましたか」

「ああいや、その女の子だけど……っと?」


 唐突な扉の開閉音。首を動かしたナイアスが、音の発生した方向を見ると、部屋の入り口の扉から入ってくる、見知った顔の持ち主がいた。


「……アル、お前か」

「……ん、元気そうじゃないか、ナイアス先生」


 ベッドの側まで近寄ってきたアルフレックは、無感動な目つきでナイアスを見下ろす。


「どこをどう見たらそう見えるんだ。……で?」


 言葉の通り、ナイアスの体調はまだ不十分で、軽く目眩がしているぐらいだ。

 こんなときに、お前との会話を楽しむ気にはならないから、早く用件を言え。

 ナイアスは言外にそう伝えていた。


「ふむ。試合の推移を見ての、審査の結果を伝えにきた」

「あ、あの、アルフレック先生! 今回の試合は、私の遅刻のせいでこんなことになったので——」


 アルフレックの入室時から、椅子から立ち上がっていたリズが、焦った口調で割って入ろうとする。だが、気難しそうな顔つきの彼は、その表情をいっそう厳しく引き締めただけで、彼女を無視して続けた。


「今回の出展申請を認めよう」

「ですから、あれは——ええっ!?」


 発言の途中で、アルフレックの言葉の意味に気付いたらしく、リズはすっとんきょうな声を上げた。

 そんなリズの大声を、耳障りに感じたのか、アルフレックは眉をひそめると。


「不服かね? 申請者のリーズレット君」

「えっ、いや、その、そんなことは……ぁ、ありません……」

「ならばよい。出展は許可したが、万が一にも準備不足での出展不可などにならないよう、準備は怠りなく進めるように。いいね?」

「は、はい、分かりました」


 頭上で、二人のやりとりが行き交う。ナイアスは、それには特に口を挟まなかったが、用件は済んだとばかりにアルフレックが退場しようとしたとき——。


「アルフレック。お前、最初っからそのつもりだったろう」


 ぴたり、と呼びとめられたアルフレックが、背を向けたまま立ち止まる。

 リズがよく理解できないという視線をナイアスに向ける。その直後。

 アルフレックが振り返らないままに、言葉だけを投げてきた。


「さっきのは懐かしい呼び方だった」

「……は?」


 何の話だ? と、ナイアスは困惑する。そして、記憶を遡って……


「……ん、あれ……そう呼んだか、俺?」


 ナイアスが呟いた時には。すでに、気難しい顔の男は診療室から姿を消していた。

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