第二章 学内審査
第10話
横殴りの雨が、窓硝子をしきりに叩いている。
リズがやってきて一ヶ月。かつて、ナイアスの研究室を埋め尽くしていた雑多な品々は、すっかりと姿を消していた。
図書館から借りだした大量の書籍。天機兵のパーツ類の中でも特に小さいネジやら抵抗などの余剰分。書きつけのメモ。回覧の書類や、官報の類など。
研究に必要と思われるものは全てこの部屋に放り込んでいたのだが。リズの目には、ただの無精にしか写らなかったようだ。数日かけての大掃除で、きっちりと整理整頓されてしまった。
床に敷かれていた絨毯が見えるようになっただけではなく、そこに積み重なった埃の層も綺麗に払われた。
今のナイアスは、研究室に来客を迎え入れることも可能になっている。
その、様変わりした研究室から、ナイアスは外の光景を眺めていた。ここから見下ろせるのは凹型になった教官棟の中庭の部分だ。特に目を惹かれるものはない。もともと、景観のよい部屋ではない。
見晴らしの良さそうな部屋であれば、ナイアスが就任したときまで空き部屋ではなかったろう。
ざあざあと降りしきる雨音。手にしたマグカップから立ちのぼる緑香茶の澄み切った香り。それらは、ナイアスに心の平穏をもたらすはずだったが。
「アルフレックのやつが、審査委員長だったとはな……くそ、嫌がらせか?」
手元の申請書に視線を落として、ナイアスは愚痴る。
それは、汎大陸博覧会における、天機兵の展示会イベントの申込書だったが、大きな不受理の印が押されていた。添えられた理由には、書類不備、とだけ書かれている。
「アルフレック先生は、完璧主義な方ですし……。ちょっと見せてもらっていいですか?」
ソファから腰を上げたリズが、ナイアスが机の上に放り出した申請書を確認する。
「あ、ここですかね。ここの項目が、空欄になっています」
「んん? どれどれ……。期間内の賃金の総額? ってこれ、説明員を外部で雇う場合だろ。そんな余裕ないし、案内係はなしにしてるんだが」
「その場合、ゼロを記入しないといけないようです。記入の要領にそう書いてあります」
リズが指さした先には、確かにそう書かれていた。めちゃくちゃ小さい字で書かれた補足説明のところに、だ。
「記入例には書いてないじゃないか……。っていうか、こんなんで差し戻すか? やっぱり嫌がらせだろ、これ」
「まあまあ……仕方ないですよ、書き直して再提出しましょう」
朗らかにリズが言う。
はあ、とため息をついて、ナイアスはリズに向き直った。
「アルフレックの奴と俺は、昔から折り合いが悪いんだよ。そもそも、俺とあいつは、イェーツ先生の弟子になるんだが……」
唐突に語り始めたナイアスに、リズは興味を惹かれたようだ。
「ナイアス先生の方がお若いですよね?」
「ああ、いくつ下かは忘れたが……アルフレックが兄弟子で、俺が弟弟子ってところだな。いや、間にアイリーンがいるから末弟子かな?」
「アイリさんと先生は、ずいぶん仲が良いですよね?」
いつの間にやら、アイリーンを愛称で呼ぶようになっていたリズが、確認の声音で問いかける。
「そう見えるか? いやまあ、アルフレックの奴と比べれば、だいたいの奴とは仲がいいことになるな……」
そういう話ではないんですけど……と話を続けようとするリズ。アイリーンとナイアスの関係が気になっているようだが、それは鈍感なナイアスには伝わらない。
ナイアスは「ともかく、アルフレックのやつだが……」と強引に話を戻し始める。
「なんていうか、とにかく陰険な野郎なんだよあいつは。あいつに付けられた二つ名、リズは知ってるか?」
「あ、はい。たしか……《高潔》でしたよね。天機兵の研究への真摯な姿勢から名付けられたと聞いています。この大学でも若手随一の研究者ですよね」
「ま、それはそうなんだが……」
意外にもあっさりとその高評価を容れるナイアスに、リズは小首を傾げて続きを待った。
「天機兵については確かに真摯……というか執拗なぐらいに細かく行き届いた研究をするんだが、あれは性格だから、人間に対してもやり方が変わらないんだよ」
「はあ、そうなんですか」
「あまりにもアレなもんだから、この大学の一部では《いやみ》の二つ名のほうが有名なぐらいだ」
「その一部って……」
疑念たっぷりの表情になって、リズが質問する。
「主に俺の中で」
「……駄目じゃないですか」
リズが肩を落とす。研究室に来てしばらくの間、ナイアスを目上の人間として扱っていた彼女だが、ナイアスの駄目人間っぷりに接するにつれ、この程度のことは口にするようになっていた。
だが、それを意に返さないのがナイアスである。
「細かいことは気にするな。……それで、だな。一つ思いついたことがあるんだが。頼まれて貰えるか?」
飲み干したマグカップを机の資料の上に置いて、ナイアスは子供が悪戯を仕掛けるときの笑顔を浮かべた。
「えっと? 私に頼みごと、ですか?」
彼女の同意を待たずに、ナイアスは思いつきを語り始めた。
話が進むにつれて、リズの表情が引きつっていく。
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