第6話

「はぁ〜。どうすっかなぁ……」


 学内にある食堂の外で、ナイアスは落胆していた。

 風雨に痛んだ木製のベンチが置かれたその一画には、他に人はいない。一つだけ灰皿が設置されているが、これは学内に数人いる喫煙者の教授のために設けられたもので、普通の学生が煙草を嗜むことはない。煙草は、帝国の支配地域から輸入される嗜好品で、かなり高価なものだからだ。


「真面目に講義するしかなさそうだなぁ、あー面倒……」


 背もたれに寄りかかりながら、ナイアスはぼやく。

 これまで案内していたリズはというと、学食内に残っている。

 彼女にお茶を勧めた自分がこんなところで無聊を託っている理由は単純で、リズの研究室参加を阻むための目論見がすっかり外れてしまったからだった。

 どんな質問をしても、当意即妙に答えられてしまう。

 終いには、逆に返された大学に関する質問に、ナイアスの方が答えられないでバツの悪い思いをする、などということもあった。

 結論としては合格を出すしかなく。

 直前に呟いた通り、これから彼女を指導していくことは避けられそうもない。

 もともと、そういう風にハイフェック教授と約束したのだから、そうするのが当然ではあるのだが。これまで、学生を受け持っていなかったのだから、面倒なことこの上なかった。


「あーあ……。……ん?」


 ふと、気になる光景がナイアスの視界に入った。

 一人の少女が、彼から見えるところで、奇妙な動きをしていたのだ。

 小柄な体格に長い黒髪といった外見からは、中等部から高等部の生徒のように見えたが、リズも同程度には幼く見えるナイアスでは、彼女の正確な年齢を推し量ることは無理だった。

 袖丈の長い薄手のセーターと、丈の短い砂色のキュロットスカートを組み合わせていたが、学生の珍妙な、そして時にそれ以上に不可解な服装をする、一部の講師の服装を見慣れているので、そこにもなんら違和感はない。

 問題なのは、少女の態度だった。

 なぜか、彼女は先ほどから道半ばで足を止め、じっと一点に視線を集中している。だが、その視線の先にあるものはというと、ただの水道の蛇口だった。

 水飲み場用の、上向きに固定された状態の蛇口に「いったいこれはなんだろう?」という目を向けている彼女を見て、ナイアスはベンチから立ち上がる。


「なあ、そこの君。何か困っているのか?」


 問いかけに、少女は不思議そうな顔でこちらを見つめてきた。

 知らない男性に話しかけられて、警戒しているような様子はない。それどころか、その表情に、感情の色があまり見られないことにナイアスは気がついた。


「いいえ、特に困っていることはありません」


 不意打ちのような言葉。彼女の口が動いていなければ、目の前の少女が発したものかどうか分からなかったに違いない。


「ふうん……じゃあ、何してるんだ、ここで」

「意図的に、何かをしているわけではありません、が。あえて、言葉にするのなら……そうですね、観察を行っています」

「……観察、ねぇ」


 戻ってきた返答は、流暢なようでありながらも、語句の選択や区切り方にたどたどしい部分があった。留学生か何かだろうか、とナイアスは考える。


「もしかして、ここでの観察は、禁止事項なのでしょうか?」

「いや、そんなことはないけどな……」

「そうですか。安心しました」


 これで会話は打ち切り、とばかりに、謎の少女は口を閉じて、彼女の言うところの観察に戻ってしまった。


「その蛇口が、そんなに珍しいのか?」


 口を突いて出てきた一言に、少女はがばっと振り返った。


「蛇口……これは蛇口の一種なのですか?」

「見たことないのか……? ああでも、この形のやつはちょっと珍しいかも知れないな。ほら、こうすれば……」


 銀色の棒の脇にあるハンドルを捻ると、天辺にある小さな穴から水が飛び出してくる。


「おお」


 それを見て、謎の少女は、少女らしからぬ反応で驚きを表現した。どうやら、本当に初めてこれを見たようだ。

 国によって水道の整備状況には違いがある。シレーネ共和国は、水源が豊富だったこともあり、都市ではかなり昔から水道が整備されていた。もちろん、それは水路を中心とした原始的なもので、秘術を活用した、近代的な水道に移り変わったのは最近のことではある。

 それでも、田舎のほうではまだ近代水道は行き渡っていない。

 とすると、国や地域によっては、この手の蛇口式の水栓を見たことがない住民がいることもありえるのだろう。そのナイアスの思考を裏付けるように、少女は、


「しかし、これはなぜ上向きになっているのですか? これまで見た蛇口は、下向きでしたが」


 と、問いかけてきた。


「ああ、これは……こうするんだ」


 上向きに噴き出している水流に口をつけて飲んでみせる。ハンドルを回して、水流を止めつつ向き直ると、少女は感心した表情でこちらを見ていた。


「なるほど、納得しました。手を器にすることなく、水を飲むための構造なのですね」

「まあ、そういうことだ」

「あなたはこういったことに詳しいのですか?」


 少なくとも水道の専門家ではない。いや、と首を振りつつ、珍妙な言行の目立つ彼女に、ナイアスは反対に問いかけた。


「……ところで君は、新入生かい?」

「そのようなものです。名前はイリスです。よろしくお願いします」


 すんなりと彼女は首肯した。

 彼女の言う『そのようなもの』とはどういうことだ、とナイアスは首を傾げ——なかった。


「——イリス?」


 その名は、ナイアスにとってひどく懐かしい名前に、よく似ていた。

 ほんの一文字違いだ。思わず、古い記憶が想起される。そこに、


「はい。あなたのお名前はなんでしょうか」

「あ、ああ……」


 少女——イリスの問いかけがあり、まだ名乗っていなかったことに気付いたナイアスは、自分の名を名乗った。

 けれど、意識の半分は、かつての相棒——のことを思い返していた。

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