第4話

 アイリーン・リッテンベルクの襲撃を受けたのは、ナイアスが研究室の自分のデスクでうたた寝をしていたときのことだ。


「ふへっ?」


 頭のてっぺんに軽い衝撃を感じて、心地よいまどろみから引き戻されたナイアスの前に、彼女は仁王立ちしていた。

 価格の高さから庶民はあまり利用しない眼鏡をかけた、彼女の目に睨まれたナイアスは、顎を反射的に拭ったが、そこには無精髭以外には何もなかった。

 彼女の片手に円柱状に丸まった紙の束があるのを見て、ああ、と呟く。

 どうやら、さっきの衝撃の原因はそれらしい。道理で、頭部に痛みが残っていないはずだと一人で納得する。


「目は覚めた? はい、これ。図書館の本の再貸し出しの申請書。さっさとサインして」 


 ため息交じりに、アイリーンがナイアスの手に用紙を押しつけてくる。


「んん……こんな本借りてたっけ……?」

「私が知っているわけないでしょうが」


 ごもっとも。

 なんせ、ナイアス本人ですら記憶していないのだ。

 部屋を見渡すと、そこかしこにうずたかく積まれた本の山があるが、その半数ぐらいは、大学付属図書館から借りて、そのまま放置しているものだ。

 正直に言って、どれを借りて、どれを研究予算で買ったものか、まったく覚えていない。


「図書館の司書さんからね、泣きつかれたのよ。ナイアス先生が手続きをまったくしてくれないんですぅ、って。本当ならちゃんと返して欲しいんだろうけど、仕方ないから再貸し出しってことにしてもらったの」

「ああ……いや、助かる」


 サインのためにペンを探しながら、ナイアスは礼を言った。


「同期だからって、いつもいつも、こんな運び屋を頼まれる、私の身にもなってよね? ……って、何してるの」

「うん、この辺にあったはずなんだが、ペンが」


 デスクの下を覗き込んで見るナイアスの目に入るのは、変わり映えのしない絨毯の模様だけだった。


「技師が、ペンひとつ手が届くところにおいてないとはね……呆れたわ」

「定義の問題だな。この辺で見つかるなら手の届く範囲だと言っても過言じゃないんだが——おかしいな。そっちの方まで転がってないか見てみてくれ」


 机の下に入り込んだナイアスが声をかけるも、アイリーンは鼻を鳴らして返した。


「冗談でしょ? 掃除もしてなくて埃だらけのこんな部屋で床漁りなんかやったら、服が汚れちゃうじゃない。どうぞ、お一人で頑張ってくださいな、ナイアス先生」

「同期のよしみでそこをなんとか……」

「だーめ、同期の優しさはもう品切れよ。ここから後はそれ相応の誠意が必要ね……」


 彼女が含むような笑みを浮かべたのを声音から感じ取ったナイアスは、


「ペンごときのために、誠意を表現したくはないな……。まあいいか。安心しろ、俺にはこの部屋からペンを見つけ出すに足る能力がある」

「ない方が問題よ、それ」


 至極もっともなことを口にして、アイリーンは部屋のソファセットに腰掛けた。半分ぐらいは本置き場になっているのだが、一人だけなら座ることができる。

 ナイアスの捜し物からは完全に興味を失ったらしく、机の下を手探りで探す彼のほうは見もしない。


「ねえ、ナイアス。あなた——いつまでそうやってるつもりなの?」

「もう終わる」


 期待通りに奥に転がっていたペンに伸ばした指先をかけて、ナイアスが返事をするとアイリーンはため息を吐いた。


「そのことじゃないわよ。わかってる癖に……。いつまで、無駄な研究員生活を続けるのかってこと」


 その話か……と、ナイアスは思わず肩をすくめた。


「何度も言うが、別に無駄ってことはないと思うぞ」

「私も同じことを繰り返すけど、ことあなたに限ってはここにいることの意味は乏しいわ」

「いつもの平行線だな……」


 このやりとりに、食傷気味になってきていたナイアスが結論を急いだ。結局のところ、自分の意志は変わっていないのだから。

 自分が天機兵の技師にはいまいち向いていないことをナイアスは自覚している。だからと言って、はい、そうですかと辞められるわけではない。

 なぜなら……。


「私の家に来ない?」

「へ?」


 いつもの繰り返しになると思っていたナイアスは、思ってもみない言葉に目を丸くした。


「知ってるでしょ、私の実家が軍用の天機兵を製造しているってこと」

「ああ……っていうか、知らないわけがないだろ」


 アイリーンの実家、リッテンベルグ家はシレーネ共和国が王国だった頃から、天機兵の生産で名高い。軍の制式採用機の八割を占めるほどだ。

 際立って高い性能をもつ機体は少ないが、オーソドックスな作りと部品の信頼性の高さから、高稼働率を維持しやすい。泥や湿度に塗れる沼地や、乾燥と砂塵が襲う砂漠でも、とにかく安定して稼働させられるということで、現場からの評判も悪くない。

 そのため、リッテンベルグ製という言葉は、シレーネ軍においては「信頼がおける」の同義語のようになっている。

 当然、ナイアスにもその知識はあった。

 そもそも、この国の秘術技師であれば、知らないほうが珍しい。


「共和制に移行してもう五年になる。先の決戦で失った天機兵の機体を補充するための製造は今も続いているけど、それだけで終わりじゃないわ」

「まあ、そうだろうな」


 ナイアスは頷く。

 七年前の魔族による大侵攻は、当時のシレーネ王国の天機兵の大半と、さらに支援にきてくれた大陸諸国軍の増援部隊を投入した一大決戦により、人類の勝利に終わった——

 わけではない。

 公式にはそういう建前になっているが、実際には痛み分けだったとナイアスは認識している。

 投入した天機兵の残存率でいうと、全損——機体喪失に近い水準が約四割。

 損傷を起こした天機兵の総数は七割強にもなる。そして、失った操機手も五割に達していた。

 さらに言えば。

 ——魔族が支配する、人類未踏領域に突入する最前線を受け持ち、命を散らした操機手は、その大半が熟練操機手ベテラン達だった。

 操機手を人並みに育てるだけで数年の訓練期間を要する。

 熟練操機手と目されるには、一部の例外はあれど、十年近い月日がかかるのだが。

 その多くを、たった一戦で失うことになったのである。

 七年経った今でも、天機兵の総機体数はともかく、実際の戦力としては当時の力を保有していないだろうとナイアスは考えている。


「だから、家の工房になら仕事はいくらでもあるわ。あなたが天機兵に関わっていたいのは理解したつもり。でも、似合わない秘術技師なんて続けなくてもいいと思う」

「それは——」


 言いかけて、ナイアスは口ごもった。

 何を言えばいいのか、自分にもわからなくなったのだ。確かにナイアスには天機兵に関わり続けたいという意志がある。

 諸々の事情というか、周囲の好意のおかげで、今こうして王立秘術技師養成大学の技師として納まっているが、自分に向いた仕事だと感じたことはない。

 だが——だからと言って、彼女の誘いに乗るのが正しいこととも思えない。そんな、理屈では説明できない直感めいた判断をどう言葉にするかを考えていたら、アイリーンが先に口を開いた。


「いいでしょう? 正直に言って、ここに居てもあなたはじり貧よ。なんて言っても——不真面目だし」


 その言葉は、的確にナイアスの胸をえぐった。自覚はしている。しているのだが、面と向かって指摘されたくない一言だ。


「お前な……」

「でも、家で働くなら違うわ。細かな書類仕事は助手を付けてあげる。あなたは、あなたの経験を生かして新しい天機兵を開発しさえすればいいの。……どう?」


 どうしてアイリーンがここまで自分を買ってくれているのか、そこに疑問はあったが、申し出自体はありがたかった。

 いや、ナイアスの現状に則して言うなら、破格ですらある。

 それを踏まえてナイアスは答えを——


「そんなの、困りますっ!」


 返そうとして、部屋の外から飛び込んできた声に遮られた。


「——誰?」


 アイリーンの問いかけはナイアスのほうを向いて発せられたが、彼はその答えを持ち合わせていない。

 閉じていなかった研究室の扉から姿を現したその人物は、まだ若い少女だった。ナイアスやアイリーンよりも五歳ぐらいは若い。

 アイリーン同様に、珍しく眼鏡を掛けているが、その縁は鮮やかな赤で、印象は大分異なる。長そうな金髪をひっつめて頭の後ろにまとめた彼女は、一見するに、地味な感じの少女だった。

 顔立ちは整っている。美少女と言っても差し支えはなさそうだが、大きな眼鏡に隠れてしまっているので、まじまじとよく見ないと分からない。

 外見の年齢相応に、育ち切っていない体型。スタイルとしては悪くないのだが、どう見ても妖艶とか豊満とかではない。天機兵的に言えば、心臓部バイタルパートの保護のための、前面装甲が不十分だと言われるところだ。

 最後に、品はいいものの目立たないことを第一の目標にしたような——これは、彼女の意図が事実そうだったのだが——控えめな装いで、印象の駄目押し。

 残念ながら、地味な少女としか言えないのだった。

 ともあれ、ナイアスは彼女の顔に覚えがないことを確認して、部屋を間違えているのではないかと指摘しようとした。そして、思い当たる。 


「もしかして、君は——」

「あなた、学生? いま取り込んでいるのだけれど、何のご用かしら」


 途中で会話を遮られた不快感を隠さないアイリーンの問いかけに、少女は優雅に一礼する。


「私は——」


 そうして語られた彼女の本名に、ナイアスは頷き、アイリーンは目を見開いた。


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