第一章 発端
第2話
「はい?」
ナイアスは、高い書棚に目一杯収められた本の匂いが漂う一室で、対面する教授が発した言葉に、そんな間の抜けた声を返した。
「ええと……俺が、ですか?」
「他に誰がいるのかね」
聞き返した教授に、ナイアスは一瞬考えて、同僚の名を挙げた。
「アルフレックがいるじゃないですか」
「彼の研究室はもういっぱいだ。それに引き替え、お前はまだ指導する生徒を持っていないだろう」
少しは仕事をしろと言わんばかりに、椅子に座ったままの教授が、じろりと鋭い眼光を飛ばしてくる。
「そりゃまあ、学生の一人や二人、そろそろ受け持たないといけないってのは分かりますけど……」
王立秘術技師養成大学の
「その学生が王女様ってのは流石に勘弁ですよ。平民も平民、ド平民の俺なんかじゃなくて、それこそイェーツ先生が直接お教えになったらいかがです?」
ナイアスが固辞しようとしている理由の大半はそこにあった。
普通の学生ならいいが、よりにもよってこの国の王女では、気苦労が絶えないことが容易に想像できるからだ。
そういう面倒な学生は、地位も名声もある対面の人物——イェーツ・ハイフェック教授にこそ引き受けてもらいたいところだ。高名な
「……」
だが、長いため息を吐いた教授は、首を縦に振らなかった。
「率直に言おう。ナイアス。お前の立場は危うい」
「えっ……」
代わりに切り出された一言に、ナイアスはぽかんと口を開く。
「えっ? ではない。当然だろう。四年前に秘術技師として採用されて以来、お前が何かの成果を出したと胸を張って言えるのか。生徒は受け持たず、研究の実績も乏しい。そもそも、採用時点で、当校の基準を満たしていたわけではないのだからな」
「いやでも、それは……その、事情が」
「事情はさておいてだ。ともかく、このままではお前を庇いきれなくなる。確かに、すぐに
んぐ、とナイアスは言葉に詰まった。
確かに……実績らしい実績が何一つないのは、自分で身に染みてわかっている。しかし、研究予算がゼロとなってしまうのは……。
「それは困ります」
「だったら、話は単純だ。学生を受け持て。それがたとえ王女だろうと、学生は学生だ。お前には焼け石に水とはいえ簡単な実績になる。それに——王家の血筋とはいえ、もはやこの国は共和制に移行している。王女と呼ばれる存在ではあっても、たいそうなものだと考える必要はないぞ」
焼け石に水では意味が無いのではと思いながらも、ナイアスは教授が続けた後半部分に中途半端に頷く。
確かに、現在のこの国における王家の立場は、国を統治する君主の一族としてのものではない。
王家は、かつてこの国を統治していた。が、現在はその統治権を国民の代表である議会に譲渡した、かつての支配者であり、そしてそれ以上の何者でもない。
けれども。
「共和国になってから、まだ十年も経っていないじゃないですか……」
ナイアスが言うのもまた事実で。平和的な民主化が行われたこの国にとって、王家は今なお国民に敬愛される存在だった。
仮に粗略な扱いでもしようものなら、市民に批判されることになる。それはぞっとしない。
「そうだな、一つ忠告がある」
「忠告……ですか?」
首を傾げたナイアスに、教授はあくまでしかつめらしい表情を崩さずに言った。
「手を出すなよ?」
「——はあ?」
一見すると巌のように変わらぬ表情に、茶目っ気を湛えた瞳があるのを見て、ようやく、それが教授のつまらない冗談だと理解したナイアスは、ため息をつく。
「それで……どんな生徒なんですか? 資料は?」
「詳しいものではないが、参考にしたまえ」
受け取った紙切れの薄さに眉をひそめつつ、ナイアスは書かれた情報に目を通す。
「あれ? 今年の学部生じゃないですか」
王立秘術技師養成大学、長いので王立秘術大と略してもなお長い名称のこの大学では、秘術以外の他学問と同様に、学士、修士、博士の称号を得ることを目的とした、三段階に分かれた教育課程を採用している。
その中でもっとも下位である、学士の取得には、論文を提出して認められることが必要ではあるものの、論文作成は研究室に所属する三年次からの話で——つまるところ、それまでの間は専任の指導者など必要ではない。
「それだけ優秀な学生ということだ」
「いくら優秀だと言っても、学部生に担当の講師とか必要ないでしょうに」
「彼女の希望でね、短い時間でより多くのことを学びたいそうだ」
「結局はお偉いさんらしく、横車を通す、ってことですか……」
ナイアスが肩をすくめて、辟易した心情を示すと、
「忘れたのか? ここは『王立』秘術技師養成大学だ。共和国化したと言っても王室の資産が失われたわけではない。この建物も、敷地も、彼女の家の持ち物だよ」
「ははあ……スポンサーの言うことは聞かなきゃなんないというわけですね」
当然だ、と頷いてみせる教授に、ナイアスは頭をかく。
「分かりましたよ。まあ……やるだけやってみます」
正直に言えば、あまり納得はしていないのだが。固辞できる状況ではないのなら、なんとかしなければならない。
こうして、ナイアスは一人の……そして、自身にとって初めてになる、学生への指導教官を引き受けた。
このときには、この受諾があのような未来につながるなどと、想像すらしていなかった。
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