第5話 猿の英雄神ハヌマーン
戦場を後にし、無人の荒野をしばらく飛ぶと岩石散らばる不毛地帯に入っていった。やがて山岳地帯に入り幾つかの山谷を抜けた先にひと際高くそびえる山が見えてきた。
ガルーダはその山の中腹に向かって飛んでいった。アパッチが着陸できる場所に降り立ち、上空のキャロルに顔を向けた。
キャロルはアパッチをガルーダの横に着陸させた。
「こんなところに何のようがあるのかしら」
キャロルは殺風景な天界の山の景色に飽きて独りごちた。
メインローターが停まるまで待ってからゆっくりとヘルメットを脱ぎ、機体から降りて、辛抱強く待っているガルーダに近づいた。
「ねぇ、なぜ、私のチェーンガンはアグニ神に傷を負わせることができたの? ラーフ神にはまったく効かなかったのに」
「呪いのせいなのだ。天界が荒涼した地になり、デーヴァ神族が不死の力を失ったのも呪いのせいなのだ」
「呪いって解けないの?」
「アムリタを飲めば良いのだが、もうほとんど残っていないのだ。あのアグニ神でさえ与えられていないのだ」
「なるほどね。この戦いは少ない資源の奪い合いってわけね」
「さぁ、行こう」
「ちょっと待ってよ」
キャロルは背中を向けたガルーダに慌てて声を掛けた。
「まだ、何をするか聞いてないわよ。それに私は協力するとも言ってないんだけど」
ガルーダは振り返って鷲の目でキャロルを見つめた。キャロルが何を言っているのか分からないようだった。神の依頼を断ることなど想像できないのだろう。
「戦いを止めるのだ」
「それは聞いたわよ」
戦う使命を帯び、戦うことを生業とし、戦うことに生きがいを見出してきたキャロルだったが、人殺しが好きな訳ではなかった。戦わなくても済むならそれにこしたことがない。だが、どうやって戦いを止める?
戦争を無くすことなどどうやっても不可能なのだ。
「どうやって、止めるの?」
「それは私にはわからない」
「ちょっと、鷲頭さん、私をこんなところまで連れてきて、分からないは酷いんじゃない? もうそろそろ帰りたいんだけど」
「待て、兵士キャロルよ。ヴィシュヌに知恵を借りるのだ」
ヴィシュヌ神。シヴァ、ブラフマーとともに三位一体の最高神の一人だ。インド人なら知らないものはいない最も有名な神だった。ヴィシュヌ派でないキャロルでもその姿を簡単に脳裏に浮かべることができた。
千の頭を持つ竜王ナーガラージャの一人シェーシャを従えた神。太陽の輝きと共に描かれ、四本の手に円盤、こん棒、法螺貝、蓮の花を持つ偉大な神。
そして十のアヴァターラ、つまり化身を持っていた。
第一の化身、半神半魚のマツヤ。
第二の化身、宇宙を支える亀のクールマ。
第三の化身、大地を復活させる巨大な牙を持つ猪のヴァラーハ。
第四の化身、人身獅子頭のヌリシンハ。
第五の化身、三界を跨ぐ小人のヴァーマナ。
第六の化身、斧を持つ聖仙のパラシュラーマ。
第七の化身、魔王ラーヴァナを倒す英雄ラーマ。
第八の化身、褐色の親愛神のクリシュナ。
第九の化身、仏教の開祖のブッダ。
第十の化身、世界を終末から救う白馬の王のカルキ。
こんな偉大なヴィシュヌ神なら、戦いを止めることが出来るかもしれない。だがどうやるのだろうか。
「とりあえず付いていくわ。私の役割がヴィシュヌへの生贄でもいいわよ」
キャロルはヴィシュヌ神に問いただしたかった。この世から戦争を無くすことが出来るかどうか。
ガルーダは頷いて山を登り始めた。
「ちょっと、鷲頭さん、生贄のところは否定してよ。冗談なんだからね」
その時がくればきっと自分の役割は分かるのだろう。キャロルはガルーダからの説明は諦めて歩き出した。
しばらく上り続けると山肌に掘られた巨大な神殿が現れた。アンコールワットが山に埋め込まれているようだった。しかも極彩色に彩られていた。
キャロルは圧倒された。まさにこの世のものでは無い建物だったが、その大きさや装飾のせいではなく、神聖な霊力のようなものが溢れ出していたからだ。入口から目に見えない霊気が流れ出し、キャロルの身体に纏わりついてくるようだった。
一歩一歩と神殿の入り口に近づくにつれ、水の中を歩いているように足が重くなっていた。
巨大な門を幾つもくぐり、やっと建物の中に入った。そのころには神聖な空気にもなれキャロルの歩みも通常に戻っていた。
その様子をガルーダが満足げに見て頷いた。
「何よ、そのしたり顔は。悪いけど、あんた達の期待には応えられないわよ」
ガルーダとキャロルは石の広間を奥に進んでいった。天井は高く、左右にはいくつも石柱がたっており、壁には様々な種類の宝石とレリーフで装飾が施されていた。窓から差し込む光のせいで、中はとても明るかった。床の石は磨かれ、自分の姿が映るほどだった。
キャロルはいつヴィシュヌが目の前に現れてもいいように気を張り詰めていた。
「あんなのが突然、現れたら絶対、心臓がとまってしまう」
独り言をつぶやくと少し肩の力が抜けたような気がした。喋ると言葉と共に無駄な力が抜けていくようだった。
石の広間が終わり階段の前に辿り着いた。階段を数段、登るとさらに広間が続いているようだった。
突然、視界の隅で赤い影が動いた。石柱の陰から何かが飛び出してきた。
「キョエーーッツ」
耳をつんざく叫びと共にそれが襲い掛かって来た。
ガルーダが翼を広げ、その攻撃を受け止めた。一瞬、柄の長い棍棒が見えただけで敵の姿は確認できなかった。
狙われたのはキャロルだった。
キャロルは床を転がり、距離をとった。起き上がりながらブローニング・ハイパワーを抜いた。
片膝立ちの態勢で銃を構え、引き金を二度引いた。
銃弾の発射と全く同じタイミングでガルーダが翼を閉じた。
翼の陰にいた敵はキャロルの姿を目にした瞬間に、避ける間もなく眉間に銃弾をくらった。
半獣神のハヌマーンだった。片手に棍棒を持ち、兜を被り、首には幾重にも首飾りを巻いていた。
ブローニングの9mmパラベラム弾は猿の英雄神になんのダメージも与えていないようだった。
キャロルはハヌマーンの右目を狙って再度、二発撃った。敵の追撃を抑止するための銃撃で、致命傷を負わせられると期待した訳ではなかった。
銃弾は傷を負わせるどころか当りもしなかった。ハヌマーンの身体が一瞬で子猿ほどの背丈にまで縮んだのだ。弾丸はハヌマーンの頭上を通り過ぎた。
キャロルはさらに後方へ飛び下がり、また距離を取って膝立ちで銃を構えた。
「止めろ、ハヌマーン!」
ガルーダが叫び、翼を広げたが、さらに小さくなったハヌマーンはその下を潜り抜けてキャロルに迫って来た。
キャロルとハヌマーンは直接対峙することになった。
キャロルは迷わず、ハヌマーンの膝に向けて撃った。
「小さくなればなるほど、弾丸の威力は増すんじゃないかしら」
これで効果がないなら、もう打つ手は残っていない。
銃弾はハヌマーンの膝には命中せずに股の間をすり抜けて行った。
「クケッーーツ」
ハヌマーンは瞬時に巨大化した。三メートルほどの巨大な猿が怒りの表情で棍棒を振り上げた。
「でかくなれば、動きは鈍くなるんじゃないかしら」
キャロルは棍棒の柄の中心に残りの七発を全弾、打ち込んだ。全て命中し、柄にめり込んだが破壊するまでには至らなかった。
キャロルは横っ飛びでハヌマーンの一撃をかわした。巨大な棍棒がさっきまでキャロルのいた石床を叩き、粉砕した。
キャロルは凄まじい衝撃と振動によろめきながらもブローニングのマガジンを交換した。だが、それは軍人としての習慣がそうさせただけで、もう撃つつもりはなかった。
「次はどうする? 私を丸飲みにしてくれれば、胃袋の内側から撃ちまくってやるんだけど」
キャロルは両手を下に垂らしたまま立ち上がり、ハヌマーンに向かい合った。
ハヌマーンはキャロルの方に体の向きを変えながら、棍棒を再び振り上げた。
その時、バッキッという音がし、柄の中心が折れた。キャロルの放った弾丸がハヌマーンの棍棒に損傷を与えていたのだ。
しかし、支えを失った棍棒の柄頭がキャロルの頭上に落ちてきた。
脱力していたキャロルには避ける隙もなく、咄嗟に腕を上げて顔を覆うしかできなかった。
だが、柄頭はキャロルに当たることはなかった。間一髪でガルーダが飛んできて柄頭に体当たりしたのだ。柄頭は轟音を立てて、壁にめり込んだ。
ガルーダはハヌマーンの横に降り立つといった。
「止めろ、ハヌマーン、このものはラーフ神の使いなのだ」
「だから攻撃したのだ。邪魔をするとお前も容赦はせぬぞ」
「アスラと敵対するいわれはなかろう」
「いや、アスラが攻め込まなければ天界は平和だったのだ」
「それを言うのであれば、デーヴァがアムリタを独占することに非はないのか?」
キャロルの頭上でガルーダとハヌマーンが諍いを始めだした。
「ちょっと待ってよ。二人とも勘違いしないでよ。まず私はラーフ神の使いじゃないわよ」
キャロルが抗議したが、ハヌマーンは黙殺し、ガルーダに詰め寄った。
「お前も俺と同様に、インドラ神の祝福を受けたもの同士ではないか。お前がアスラの味方をするのも解せぬ」
「私はアスラの味方をしているわけではないのだ。ラーフ様が戦を終わらせようとしているのを手伝っているだけなのだ」
銃声が二発、石の宮殿に響いた。キャロルがガルーダとハヌマーンの間に入り天井に向けて撃ったのだ。
二人の半獣神は揃ってキャロルをみた。
ハヌマーンはガルーダやキャロルと同じサイズになり、柄だけになった棍棒の残骸でまたもキャロルに打ちかかろうとしていた。
キャロルは微動だにせずに、ハヌマーンを睨みつけていった。
「謝りなさいよ」
ハヌマーンは動きをとめた。
「何だと?」
「私をラーフの使いと思って攻撃してきたのよね。あんたは勘違いで私を殺すとこだったのよ」
ハヌマーンは言葉を詰まらせ振り上げた腕を下ろした。そして改めてキャロルを見た。ブロンドの長髪を後ろに束ね、青い目をした人間の女兵士が不死の英雄に怯むことなく立ち向かっていた。
「女よ、では、お前は何しに来たのだ」
キャロルは腹を立てていた。警告もなくいきなり攻撃されたのだ。子供の頃、大好きだった不死身の猿の戦士だったが、許すわけにはいかなかった。
「ちょっと、お猿さん、話を変えないでよ。まず、ちゃんと謝罪してよね」
ガルーダが間に入って何か言おうとしたが、キャロルがガルーダに視線を送り黙らせた。
「何をいうのだ、人間の分際で。ここがどこだか分かっているのか。ヴィシュヌ様の神殿で……」
キャロルが片手を挙げて、ハヌマーンの言葉を遮った。天界でも『黙れ』のジェスチャーは通じるようだった。
「また、話を変えようとしたわね。あんたは変幻自在で、山をも運び、不死で、時間の流れさえも止める力があるのよね。そんなあんたが、謝るなんて簡単なことができないの?」
ハヌマーンの赤い顔はさらに赤くなっていった。
たまりかねた様子のガルーダが静かに声を掛けた。
「キャロル、もう許してやれ」
キャロルの怒りは収まらなかったが、ガルーダに免じて許してやることにした。だがキャロルにはもう一つ、片づけないといけないことがあった。
「まぁ、いいわ。貸しにしておくからね」
キャロルはガルーダに向き直った。
「じゃあ、次は、あんたの番よ。あんたが私を連れて来なければこんなことには、ならなかったのよ。ちゃんと説明してよ」
今度はガルーダが目を剥く番だった。
「分かった。説明する」
「今よ、今」
「分かっておる。お前からヴィシュヌ様に頼んでほしいのだ。ヴィシュヌ様は、どちらか一方の頼みは決してお聞き下さらないのだ」
キャロルは腕組みをした。自分がヴィシュヌに会うのも口をきくのも全く想像できなかった。
「争っている当事者の片方の望みは聞けないってわけね。贔屓しないってことなのね」
ガルーダはハヌマーンに顔を向けた。
「ハヌマーンよ、我々をヴィシュヌ様に取り次いでくれ。この果てしない血みどろの戦いを止める方法をお伺いしたいのだ」
「分かった。この先の階段を上って奥に行け、ヴィシュヌ様をお呼びしておく」
ハヌマーンは言い終わらないうちに、奥の広間に向かって飛んでいった。
「逃げたわね。まぁ、いいわ。それと、あいつは空も飛べたのね」
「さぁ、キャロルよ。頼みをきいてくれ」
「分かったわ。戦争を終わらせる方法があるなら私も知りたい。でも、もう一つ聞きたいことがあるの」
キャロルは組んでいた腕をほどいて、自分の頬に手をやった。
「なぜ私なの?」
「ラーフ様がお前の中に何かを見出したのだろう」
ガルーダをそれだけ言うと先に進み始めた。
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