第2話 母の一周忌

 介護孤児その2 母の一周忌

               §

 父との再会したのは七年前だった。母が他界したのは、そのまた八年前だった。

 母も長いこと闘病していたし、父にも発作という持病があったから、二十代後半で東京から帰ってきた私は、以後、一度も心晴れることなく、ずっと暗く沈んだ気

持ちのまま生活を送っていた。

 父の真夜中の発作は、私を気づかってか、母が看病していた。だが母も病身である。徐々に身体がままならぬ状態になっていった母は遂に、二階で寝ている私を階段の下から呼び起こして助けを求めてくるようになった。

 大抵は真夜中の二時ごろだった。

「いわと、降りてきて。お父さんがちょっと……」

 だから、そのうち二時まで起きていることが習慣になってしまった。そんな状態が十数年続いた後、母は胃ガンで入院、そして他界した。

 残されたのは父と私だけ。

 母が生きていた時は少なくとも、父が発作を起こした後に私を呼んだから、それまでは眠れた。しかし、母がいなくなった後は、いつ発作がおきるか分からない父の気配を常に気にしながらの浅い眠りの夜が続いた。ストレスが溜まっていった。

一年が限界だった。

 私には兄がいた。

 母の一周忌の時、東北から帰ってきた兄を父には気づかれぬよう近くの神社に呼び出して言った。

「一人では親父の面倒よう見ん。兄貴が引き取ってくれ。そっちには嫁もおるし、

飯もまかないで済むから、いちいち作らなくてもええからな。毎日、会社に行きながら朝晩、飯用意するの大変なんや」

 兄は東京で知りあった東北出身の女性と結婚していた。

 彼女は一人娘だったので、相手の父が娘を離したがらず、「こっちさ来たら寿司

店持たす」という約束で、兄は半ば婿養子状態で向こうの両親の近くで暮らしていた。私はそんな兄夫婦に父を任せようと思ったのだ。

 母は胃ガンになる前に患っていた病気は骨粗鬆(しょう)症だった。

 今でなら一般に知れ渡っているが、その当時はまだまだ、奇病の一種だったように記憶している。

 とにかく背骨の一つ一つがわずかな衝撃で次々とひしゃげていき、見る見る背中が曲っていくのである。ただ曲るだけではない、その背骨がひしゃげる度に、中にある脊髄の神経を圧迫して激痛を伴うのだ。

 だから母はトイレに行くのにも、その痛みと折り合いをつけながら、四つん這いになって行った。半時間はかかっていた。オムツをしたらと言っても、母はそれを拒否した。手助けも拒んだ。変に支えたりすると、それによって背骨が歪み、激痛を生じさせるからである。

 そんな様を十数年にわたって見せられてきた私は、発作の持病がある父を、次は一人で世話しなければならないという不安と恐怖に耐えられなかった。

 死の床についた母にその不安を私は訴えたことがあった。

「大丈夫、私がいないと発作は起きないから……」

 そんな言葉は単なる慰めでしかない。

 だから兄に、長男としての義務、それにあんな父と同居していたら嫁も来ないという理由も付けて頼み込んだのだ。兄は仕方なく、それを承諾した。


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