1-7


「このっ!」


 由佳は拳銃の弾倉を再度変更し、ULへ銃弾を数発叩きつける。右側の翼と腕を失った衝撃で耐性バランスがリセットされたのであろうあの怪物は、絶叫こそしなかったが、その場で怯ませることぐらいは出来た。


「ぐっ」


 敵が動きを止めた隙に距離を取ろうとするが、彼女も彼女で左脚の悲鳴で思うように動けない。即席で作った薙刀の柄を杖代わりにしてやっと動き出せた。


「はぁ、はぁ」


 必死で走った由佳は、路地へと逃げ込む。傷を負ったせいなのか、普段よりも息が切れるのが早い。そしておまけに雨まで降り始めた。


 ……これは、無理、かな。


 薙刀の刃に塗りたくってあった赤宮真希の血が、雨で少しずつ洗い流されている様を見て、彼女は皮肉っぽく笑う。


 赤宮真希と草津真也を逃した後、由佳は真っ先に観測手の男に連絡を取り、この絶望的な状況を伝え、自身の父親への遺言を託けていた。


 当然、観測手の男には怒られた。何があっても生き残れと叱咤された。


 ただ叱咤されただけではない。役に立たない公安からの支援を諦め、由佳達の所属する組織からの増援、更には"岩国"経由で米軍の支援も取り付けてくる、とあの男は豪語した上で由佳に持ちこたえろと指示してきた。


 肯定とも否定とも取れる曖昧な返答をして通信を終えた由佳は、とんでもないことになってきたなと内心思った。


 たかがランク2のUL、それも満身創痍の敵に米軍まで担ぎ出してくる事態になるとは。普通であれば米軍も聞く耳持たずで終わるだろうが、あの男のコネクションなら話は別だ。


 何処からかの基地から米軍本体か、あるいは支援要請という名の圧力で米軍から指示を受けた自衛隊が文字通り飛んでやってくるだろう。


 対UL兵装を充実させた軍の装備ならあの敵の排除は難くないし、満身創痍の赤宮真希への適切な救助も見込める。


 由佳がULを倒し赤宮真希を保護するという当初の目論見が瓦解した絶望的な状況下で、軍事的な支援はまさに一筋の希望だ。


 だが、その一筋の希望も観測手の男の交渉が完了しないと動き出さない上に、支援の到着にも時間がかかるに違いない。


 結局、由佳が時間を稼ぎ続ける必要があることには変わりはない。だから自身に過度の負担を与えぬように戦い続けてきたが、それもそろそろ限界だ。


 更にダメージを与えたとはいえ、あのULには左の鎌と巨大な顎が残っている。最初のうちは銃弾を撃ち尽くし、敵を弱らせた後で、真希の血が塗られた刃で奴に残された右足を切断するつもりでいた。だが、雨が降られてしまってはそんな悠長なことも言っていられない。


「やるしか、ないか」


 そう自分に言い聞かせ、薙刀を握る手に力を込める。極力リスクの高い手はこれ以上取りたくなかったが、ここで躊躇したままであれば、ULを完全に足止めするチャンスそのものを失ってしまう。


 決意を胸に、由佳は再びULと対峙する。翼を失い、機動力を失った敵の視線は、変わらず真希達の逃げた方向を向いていた。文字通り眼中にないらしい。


 左足の激痛を食い縛りながら、由佳は敵の右側、あの大鎌の届かないギリギリの間合いを目掛けて走り出す。ULの視線も由佳の方へと向くが、彼女の意図に気づくのには遅すぎた。


「喰らえ!」


 大きく振りかぶった薙刀の刃を、敵ULの右脚の根本、太ももに近い箇所を目掛け一気に振り下ろす。刃先の長さから完全な切断に至るには難しい位置だが、確実に致命傷になりうるポジショニングだ。敵の断末魔が脳裏に浮かぶ。


 だが、


「……あ゛ぁ」


 先に声にならない悲鳴を上げたのは由佳だった。


 敵の鎌が彼女の身体を貫いた訳でも、敵の牙が彼女の腕に食らいついた訳でもなかった。ただ、心臓にだけ氷水をかけられたような衝撃と不快感が彼女を襲い、振り下ろしかけていた薙刀が手からすり落ちた。


 ……こんな時に!!


 別に初めての不快感ではなかった。だが、タイミングが最悪すぎた。


 由佳は落とした薙刀を急いで掴み直し、咆哮する敵から全速力で離脱する。感触が心臓に集中しているせいか、足の痛みを意識しないで済むのが救いだった。


 攻撃は、失敗。それどころか更に最悪の事態に陥った。


「……なんで今更、気づくのよ」


 息を切らしながら毒気つく。敵はようやく由佳も捕食可能な人間であることに気付いた、いや、敵の嗅覚(実際そうなのかは分からないが)の中に入ってしまうほどに由佳が回復しきってしまったと表現するのが正しいか。


 どちらにせよ、ずっと真希達の方向を見つめていた敵の目は、正反対の方向にいる由佳を捉え、鈍重になったその図体を由佳へと向けて動かし始めた。奴の標的が由佳へと切り替わった何よりの証拠だ。


「っ!」


 彼女の心臓を襲った寒気は循環する血液を通して全身に浸透していく。本能的な警戒が止まらない。由佳は武器を拳銃へ切り替え、発砲。敵の足が止まった隙を狙ってその場から一目散に離脱する。


 左足に思うように力が入らず、時折薙刀を杖代わりにしなければならなかったが、それでも足という概念を一つ失っているあの怪物よりは素早く動くことは出来た。ULとの距離は次第に離れ、ついに姿は見えなくなった。


「……いっ」


 心に一瞬の油断があったのか、麻痺していた身体の痛みが全身から噴き出し、由佳はその場に崩れ落ちた。再度立ち上がろうにも腕に力が入らない。

 

 彼女は自らの胸に手をやり、心臓の冷たさを確認する。まだ感覚は変わらない。あのULの標的は依然として自分のままだ。

 

「……よし」


 危機的状況であるにも関わらず、由佳の口から漏れたのは安堵の言葉だった。


 またしても目論見とは違う展開になってしまったが、「真希達を救う為の時間稼ぎ」の視点に立てば、別に悪いことではなかった。


 ヒットアンドアウェイで足止めする必要はない、ただ私が逃げ続ければ敵は勝手に追いかけてくる。私が食い殺されない限り、真希達に危害が向かうことはない。


 由佳の生命の保障を計算に入れないのであれば、最も合理的な時間稼ぎ。そして、その歪さを由佳は良しとしていた。


「……あぁ」


 塀に背中を預けながら由佳はあることに気付く。己の命を賭してでも何かを守りたいと心から想えたのは今回が初めてなのではないか。


 今までの戦いで手を抜いてきたつもりはない。自身に後悔が残らないように全力で戦ってきた。死ぬかもしれない、と覚悟することはあったが、最初から進んで自分の命を差し出すような真似はしてこなかった。


 それが今では、己の命を散らしてでも赤宮真希、いや、あの2人を守ろうとしている。自分の身体の状況も計算に入ってはいるが、それはあくまで2人を確実に助ける為の変数に過ぎない。自分が2人の生存確率を引き下げる阻害要素になり下がれば、自身を切り捨てるつもりですらいた。


 自分自身でも狂っていると今更ながら思う。


 ……だが、狂気に駆られ、それを良しとしてしまう程に、彼女の瞳に映ったあの一瞬の光景、赤宮真希と草津真也の関係性が美しく、愛おしく想えたのだ。


 どうせ、本人は気付いていないと思うが、草津真也のような彗星症患者の為に奔走する非感染者なんて稀有な存在だ。その僅かな存在も大半は政治や金目当ての打算的な連中ばかりで、彗星症を手段に何かを為そうとする連中を由佳は何度も目にしてきた。


 でも、彼、彼らは違う。


 たった2日と少しだけ学校にいただけでも簡単に分かってしまう2人の関係性、微笑ましい恋愛関係だと思っていたが、赤宮真希は彗星症患者で、草津真也はそのことを知っていた。


 ……ありえないことだと思っていた。ただの人間が、彗星症の人間を想うなんて。


 何かの打算に使われないのなら、彗星症は他者に害を及ぼすだけの壁にしかならない。なのに彼、草津真也はその壁を乗り越えてまで、彼女を守ろうと奔走した。


 その姿、その光景は由佳にとってずっと追い求めていた理想の一端だった。彗星症の人間とそうでない人間が互いに心を通わせる世界、その未来を掴む為に彼女は武器を取ったのだから。


 所詮借り物の夢物語だ、と双方の立場から嘲笑され続け、何度も心が折れそうになった。それでも、諦めてしまっては私自身の存在価値が無くなる、と自らに言い聞かせ、立ち上がってきた。


 そして、その信じていた理想の世界の一端が、目の前に転がり込んできた。それを見た瞬間、報われた、そんな感情が全身を駆け抜けたのだ。


 ……まあ、手を伸ばした人物が、言動にも行動にも馬鹿が滲み出ているあの保健委員だったのは、かなりのマイナスポイントだったが、由佳に注文をつける権利までは流石にない。


 兎にも角にも、一ノ瀬由佳は己に希望を与えてくれた2人を守らなければならない。心臓の冷たさを堪えながら、杖代わりの薙刀を掴み立ち上がろうとするが、


「……っく」


 腕に、掌に力が入らない。雨が更に酷くなってきた。生き残る為の希望だった刃の血もどんどんと流れ落ちていく。


 敵の足音と比例するように心臓の冷たさが加速する。身体に熱を込めようとも、降り注ぐ水滴が全身の熱を奪っていく。


 ……駄目、か。


 自分が生き残る変数は完全に消失した。せめて出来ることは、這い蹲ってでもこの場から逃げ、私が食われる時間を1秒でも遅らせることくらいだ。


 それが私に残された使命、選ばれなかった私にしか出来ない唯一の悪足掻きだ。


 せめて、2人に幸あれ、と願い、薙刀に再度力を込めようとしたその時、


「……なに、やってんだよ」


 彼女の耳に、逃げ切った筈の男の声、それも数時間前に聞いた台詞が響く。走馬灯の始まりにしてはあまりにも最悪過ぎる。


 そう思いながら、幻聴の聞こえてきた先へと頭を向けると、


「……!」


 そこには口元を真っ赤に染めた、あの馬鹿な保健委員が立っていた。

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