1-6

       ◇



「ハア、ハア」


 真希を背負い、もうどれだけの距離を走ったのだろうか。


 彼女自身の体重が重いとは口が裂けてもいえないが、それでも彼女の身体に力が入っていないこともあり、真也にかかってくる負荷は上がり、走る速度も次第に遅くなっていく。


 あの場から離脱して以降、真希には言葉を口にする程の余裕はなく、彼女と自身の途切れ途切れの呼吸音とアスファルトを蹴る音、そして、後方から聞こえる由佳の拳銃の発砲音と怪物の咆哮だけが、この場を支配していた。


 これだけの騒動に発展しているのにも関わらず、住宅地であるこのエリアからは人の姿が全く見られない。普通の思考回路を持っているのなら、これは明らかな異常事態だ。


「くそっ」


 だが、悪態を吐く真也にとっては、これは恨めしい程に正常な状況だった。


 真希がULに襲撃されたエリア、普段であれば彼女が通学路として使用するこの一帯は、一般市民からULの騒乱を秘匿する為の偽装住宅地としての機能を備えていた。


 かつては本当に人が住んでいたらしいが、架空の高速道路建設に関する立退きやそれこそ彗星症発症者が住んでいる等の風説の流布で、強引にゴーストタウンに仕立てたらしい。


 全ては赤宮真希という存在を守り、秘匿する為に計画、実行された。そして、肝心の計画主導者達、公安の連中は依然として現れる気配がない。


 元々、このバトルエリアは常駐する担当者だけでは手が追えず、ULが真希に最接敵した際に、増援を呼び組織的に対応することを目的とする、と真也は聞いていた筈だった。


 だが、それはいつになっても現れない。代わりに現れたのはあの素っ頓狂な転校生一人だけ。


 多分、彼女は公安側の人間じゃない。何故担当者が死んだ話を知っているかは分からなかったが。


 ……多分、捨てられちゃったと思うから。


「ッ!」


 今になって彼が背負う少女の言葉が放った言葉の重さを実感する。彼女は自らを食い殺そうとする怪物から逃げていただけじゃなかった。こんな軽薄な世界に絶望しながら逃げ続けていた。


 そして、それは今に始まったことじゃない筈だった。


「……ごめん、姉さん」


 真也はそれしか言えなかった。彼女の為にと行ってきた行動の数々が、全て実は無意味だったのではないかと思えてきた。


「……そう、呼んでくれるの、久しぶり、だね」


 真也の耳元に途切れ途切れの言葉が聞こえてきた。


「あっ……」


 彼女の指摘で自分が何を口にしていたかに気づいた。高校に入学してからは絶対に使わないように心掛けていた筈だったのに。


「真也が、謝ること、ないよ」


 とっても楽しかったんだから、と彼女は微笑んでいるように呟く。

 

「もう、いいから」


 諦観の声だった。


「……嫌だ」


 真也にだって諦めたくなる気持ちは痛いほど分かってきた。けれど、それ以上にその気持ちを認めることは出来なかった。


 ふと、真也の頬に冷たい感触が走る。空を見上げると、黒く重い雲から雨が落ち始めていた。大雨になるのは時間の問題だった。


 大雨に打たれたら真希の身体が持たない、そんなイメージが脳裏に浮かぶと、立ち止まる寸前だった筈の足に力が灯る。


 もう少し、もう少しだと真也は自分に言い聞かせて走る。そして、見えてきたのは既に使われていないバス停と、数カ所穴の空いたトタン屋根の休憩所だ。


 真也は廃止されたバス停の液晶式の看板に右手を伸ばすと、


「認証、開始」


 使うことはないと思っていた起動コードを口にした。


『認証完了』


「ッ!」


 手を伸ばした看板から電子音が鳴り響くと同時に、足元が地響きを鳴らしながら揺れ始め、目の前にあった休憩所が文字通り、地下へと沈み始めた。


 そして、地下へと消えた休憩所の代わりに地面から這い出てきたのは、対UL用に設計された移動式地下シェルターへの搭乗口だった。


「なに、これ……」


 真希が驚嘆の声を漏らす。やはり、聞かされていなかったらしい。


「もしもの時の緊急避難用のシェルター。姉さんには言うなってあの野郎が……」


 ごめん、とシェルターの座席に真希を降ろしつつ真也は謝罪した。公安のいけ好かない担当者への責任転嫁に陥る寸前で自己嫌悪が上回った。


 このシェルターの目的は、真希のような発症者を守る為のものではなく、真也のような普通の人間が発症者を置き去りにして逃げる為に作られたものだった。


 だから、シェルター起動の為の静脈認証は真也のものしか登録されず、その存在自体も真希には秘匿されてきた。


 使ってたまるか、と心に決めていた最悪の手段を、真希を救う為に使えたのは不幸中の幸いだったが、それでも真希を裏切り続けていた事実だけは変わらない。


 これでひとまず、真希の安全だけは確保出来た。


 だが、


「なあ、姉さん」


 真也は恐る恐る口を開き、


「一ノ瀬さん、助かるかな……?」


 背を向け続けていた、もう一つの問題について彼女に訊ねた。


「……多分、助からないと、思う」


 暫くの沈黙の後、目を背けながら真希は冷酷に事実を告げる。


「そう、だよな」


 過去にもULとの戦いを目にしてきた真希が言うのだ。素人目から見ても絶望的な戦いで、何か希望はあればと彼女の答えにすがろうとしたが無駄だった。


「真也は、悪く、ないよ」


 そう言って彼女は真也を慰める。


 雨音が強くなる中で、依然として発砲音が木霊していく。まだ、一ノ瀬由佳は戦っている、生きている。


 あの転校生の想いを汲むのであれば、このまま二人でシェルターを下降させ、助けが来るのを待ち続ければ良かった。全く動きを見せていない公安の連中も、流石に、長時間ULをのばらせたりはしないだろう。


 真也達は助かることが出来る。あの転校生を犠牲にして。


 ……本当にそれでいいのか。


「姉さん、教えてくれ」


 自らが姉と呼ぶ少女を見据え、


「あの怪物は、彗星症の人間じゃないと倒せないのか」


 ずっと心の奥底で抱いていた可能性を訊ねた。


 ……テレビや新聞の報道でULとの戦闘の話が出る度に、捕食対象である筈の彗星症患者が前線に出ている話を耳にしてきた。同胞を守る為、あるいは「身内の出来事は身内で片付けろ」と世界が彼らに厄介ごとを無理やり押し付けているが為に起きている事象なのではないかと、都合よく考えていた。


 でも、多分それは違うのだ。そうでなければ、燃料爆発で傷一つつかなかったあの怪物の身体が、真希の血を帯びた刃でいとも簡単に切り裂かれたことへの説明がつかない。


 そして、あの素っ頓狂な転校生が自身の症状をカミングアウトし、「ずっと戦ってきた」と言ったことにも合点がついてしまう。


「……うん」


 みんながみんなそうじゃないけど、と付け加えながら彼女は頷く。


 真希からの答えに、真也は何も言葉を返すことが出来なかった。


 己のあまりの無知さに心のうちで反吐を吐く。彗星症について更に詳しく知っておけば、今の事態も幾分かマシになった筈に違いなかった。


 ……思えば、今朝の出来事から、いや、ずっと昔からそうだった。寸前のところで臆病風に吹かれ立ち止まり、その瞬間に大切なものがその手から溢れ落ちていく。


 何故、真希を守ろうと決意したのか。それは自分のせいで、もう二度と大切なものを失わないと心に誓ったからではないのか。


 確かに真希は救い出すことは出来た。けれど、そのせいであの転校生は命を落とす。それでは何も変わらない。


 ……自分が出来た筈のことをやらずに後悔なんてしたくないから。


 ふと、必死で戦っている彼女の言った言葉が真也の頭の中で木霊した。


「俺だって、そうだよ」


 後悔したくない、真也もその想いでずっと駆け抜けていた筈だ。だが、今のままでは絶対に後悔する未来しか見えない。


 だから、動き出すしかない。真希を救う、そしてあの向こう見ずな素っ頓狂の転校生も助け出す。


 その為に必要なことは、


「ああ」


 ……答えは、最初から示されていた。



 ただ、ずっと俺が逃げてただけじゃないか。



「姉さん、ごめん」


 真也は今日で何度目になるか分からない謝罪の言葉を口にして、


「えっ……」


 真希の驚嘆の声を無視し、彼女の両肩に手を伸ばしていった。

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