1-3


    ◇


 県立常乃倉高校2年2組教室。


「なあ、なんか嫌なことでもあったか?」


 5限開始5分前というギリギリの時間に戻ってきた真也に対し、後ろの席を陣取る直倉がそう訊ねると、


「……別に」


 顔に「不機嫌」の文字が浮かび上がりそうな程に表情を歪めた真也は友人の問いを無下に返す。


 本当に散々な昼だった。


 4限目の終わりの頃に起きた一ノ瀬由佳との邂逅、そして何の生産性もなかった口論の後、真也は極力彼女には会いたくないと思っていたが、その願望は悉く潰えた。


 昼休みの学食、元を辿れば此処に4限終わりのチャイムと同時に学食にフライングする為に4限をサボっていたのだが、その本来の目的地には彼女は既にいた。


 ……そう、決して認めたくはなかったが、彼女が4限をサボっていた目的はよりにもよって真也と一緒だった。急がなければならない、と彼女が華麗に宣言したその理由は、数量限定・早い者勝ちの日替わりAランチ目当てだったのだ。


 こんなことなら一昨日この学校に給食はない事を教えずにさっさと餓死させるべきだった。もっと言えば日替わりAランチの存在、今日の献立のカニクリームコロッケがオススメだとアドバイスするべきじゃなかったと激しく後悔する。


 あんな口論の後に、彼女と同じ列、それも近い距離で並べる程の図太い神経を真也は持ち合わせておらず、まず傍目で行列から彼女が去るのを見つめるしかなかった。この時点で彼の4限サボりの意義は消失した。


 由佳が行列から居なくなったのを確認し、真也もようやく並ぼうと思った途端に、今度は「Aランチ売り切れ」の立て札が窓口に立つ。真也が学食に来た意義すら消失した。


 仕方ない、持ち帰り出来るものを買って弁当組の直倉の与太話を聞いてやるか、と学食のテイクアウトコーナーに目をやると、テイクアウト一番人気のライスコロッケは昼練の運動部連中の買い占めによって既に売り切れ、他のサンドイッチ、惣菜パンも同じく売り切れで、残すは大不人気商品、コッペパンだけだった。


 毎度毎度昼休み終わりに値引きシールが貼られそれでも時々売れ残るこのコッペパン、貧乏学生向けに値引きシールを貼って提供することが前提になってる説や、数年前に販売中止になりかけた際、とある男子学生が学食にモデルガンを持ち込みコッペパン販売継続を要求するテロを起こし、在ろう事か学校側はそのテロに屈したから未だに販売されてる説など、どう考えたって頭の悪くなりそうな漫画を読みすぎた奴の与太話すらある曰く付きの商品に、真也は手を出す気にはなれなかった。


 口論ではあんなことになり、変に気を使った結果、目当ての定食には辿り着けず、挙句の果てにはあの囚人食みたいなコッペパンを食べる羽目になるのはまさに屈辱、だったら味気ない学食カツカレーを食べる方が幾分か負けた気はしない。


 そんな独自判断の結果、注文一歩手前でカツカレーが売り切れになり、更に味気ないプレーンカレーを選択せざるを得なくなった真也は、落胆に落胆を浮かべながら、カレーを受け取り空いてる座席を探すが、その最中で先に食事を取っていた由佳の今日の献立が目に入る。


「何やってるんだ……」


 その台詞をまた吐いてしまう程の彼女の献立は強烈と言わざると得なかった。


 日替わりAランチのご飯大盛、運動部所属の女子ならまだ理解出来る内容、ここまではまだ良い。だが、彼女のトレーないし皿には、単品で売っているメンチカツ(これも人気商品)に加え、テイクアウト一番人気のライスコロッケが二個、そしてトドメにあのコッペパンまで鎮座していた。


 とてもじゃないが女子の食べる量を超えた、普通の男子学生でもなかなか食べきれない量の献立が彼女の前にズラリと並び、彼女はそれを何のためらいも無く口へと運んでいく。1人で大食い選手権でもやってるのかこいつは。


「!?」


 そんな孤独な大食いチャレンジャーはあのコッペパンの包装を破ると、親指でパンを2分割したかと思えば、半分だけ残していたカニクリームコロッケを分割したパンでサンドする。コッペパンの活用法はそれか。



「……なに?」


「ッ!」


 彼女の奇行に目を奪われていると、その視線が奇行の体現者本人と交差してしまった。手元のコロッケサンドに頬を緩ませていた彼女が瞬く間に戦闘モードに移行するものなので、真也はロケットスタートでその場を離脱したが、急発進したせいで折角のカレーを少し零してしまった。


 その後、真也は彼女の襲撃の可能性に恐れを抱きながら離れた場所で普段以上に味気なく感じる昼食を済ませ、今度は廊下でばったり会わないように時間調整をしてから教室に戻ってきたのだ。


 だが、教室に戻ってみると、気に気を使いこれ以上の接触を避けようとしていた対象者の姿は無く、この調子だと5限目にも出席しない可能性が非常に高い。


 つまり、認めたくないが、昼食以降の真也の行動は全くもっての骨折り損だった。そして、再接触の不安と緊張から解放された真也を次に襲うのは、「なんで俺がこんなに気を使わなきゃならなかったんだ!?」という何処にもぶつけられぬ憤怒だった。


……閑話休題。


「悪いが、暫く話しかけないでくれ。特に銀髪の素っ頓狂の話とかされたら俺はお前に酷いことをしてしまいそうな気がする」


 真也は振り向くことなくぶつぶつと早口でそう直倉に警告する。一瞬冷静になると、さっき彼を無下にしたのは始末が悪いと思ったからだ。


 5限目のチャイムが鳴ると、午後からの授業、数学Ⅱの担当教員である佐用が欠伸を浮かべながら教室へと入ってくる。相変わらず教師としての威厳の欠片もない人だ。


 そして、チャイムの音にかき消されるような声で「なんで授業中まで草津に声かけなきゃいけないんだよ、というか原因一ノ瀬さんか……」と直倉が呟いていたが、真也はそれを辛うじて聞かなかったことにした。


「じゃあ、前の授業で予告した通り、小テストやるからね」


 そう、やる気のない声を出しながら先生は徐にテスト用紙を配り出すが、


 ……しまった。


 その残酷な事実をすっかり忘れていた真也は、今日何度目になるか分からない硬直状態に陥ってしまう。


 この授業、佐用先生のやる小テストは特別だ。中間・期末のテストの成績が悪くとも、この小テストをそつなくこなしていれば、最終的な成績に加味してくれる上に、小テストの範囲は直前の授業で事細かに予告してくれるので、ノート取りをして事前に復習しておけば高得点も難しくない。


 元々数学が苦手な真也にとってこの小テストは生命線、理解できるの有無に関係なくノート取りは確実に行い、どうしても理解出来ない箇所は真希に教えてもらってから小テストに挑むのが定番パターンなのだが、今回は前半のノート取りしか出来ていない。


「おーい、草津ぅ?」


 何もかもが手遅れな状況に焦燥しきった真也に対し、直倉が彼の背中を軽く叩く。我に返ると、目の前には後ろの座席に回す分も含めたテストの回答用紙が既に来ていた。


「わっ、悪い……」


 もう話しかけるなとかそんなことを言っている余裕は消し飛んだ真也は、回ってきたプリントの残りを直倉に回す。真也の表情から察したのかテスト用紙を受け取った直倉は小さく喪に服するジェスチャーをしてきた。



 こんなことになるなら昼休みにさっさと戻って直倉に勉強教えて貰うべきだった。


「よーし、回ったみたいだし始めるぞ。時間は15分まで」


 それじゃスタート、と真也の混乱に構うことなく試験が始まってしまう。こうなったら解けるところだけでも解くしかなかった。


 今回の試験範囲は複素数と方程式、単語の記述問題は直前のノート取りのおかげでぼんやりと覚えていたのでなんとか書けるが、記述と計算の入り混じった問題では全くもってシャープペンが進まなかった。


 そもそも虚数というのが真也には理解が追いつかなかった。なんで頭の悪くなるような漫画に出てくるタイプの単語がこうも堂々と教科書の中に載っていて、しかもテスト問題として襲いかかってくるのだ。理不尽にも程がある。


 多分、真希と直前対策勉強会をしたのであれば十中八九愚痴っていたであろう文句の数々が脳内でグルグルと回り出し、右手に握った筆は完全に止まった。


「!?」


 そんな時、制服のポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに振動し始めた。それもSNS通知の時の一瞬の振動ではなく、通話着信の連続したバイブレーションだ。


「マナーモードにしてるから別にいいけど、テスト中に開いたらカンニングだからなー」


 誰かはわからないけどいいなー?、と、生徒のバイブ音に気づいた先生が虚空に向かって忠告した。シャープペンの筆記音しか響かなかった教室の中では悪目立ちしてしまっていたらしい。


 ……真希だ。


 携帯は開けなかったが、真也は直感的にそう感じた。いつもであれば家に着いたならSNSアプリのトークルームに書き込みを入れて報告するが、直接電話というのは珍しかった。同じクラスメイトなのだから今のこの時間が授業中なのは分かっている筈なのに。


 長い着信振動が終わると、今度はSNS着信の振動が連続して来た。電話が無理なことに気づいたらしい。


 彼女が焦っていることは自身の携帯電話の振動パターンからある程度予想は出来た。


 あと3分だ。


 黒板の真上に真也も真也で今窮地に立たされているのだ。彼女の状況が気にならない訳ではないが、今の彼の優先事項は目の前のテスト用紙だった。


 ……もしかしたら、間違い電話かもしれない。


 不意にそんな都合の良い解釈が頭を過ぎると、彼はすぐにその解釈を正解にだと思い込み、集中をテスト問題に戻す。完全解答は無理でもせめて部分正解だけでも狙わなければ。


「はい。そこまでなー」


 パン、パンと手を二回叩いて佐用先生が小テスト終了を宣言する。結局、半分空欄の上に解答の見直しまでたどり着けなかった。


「お疲れさん」


 修羅場が背中に出ていたのだろうか、直倉が苦笑しながら後ろから回収した答案用紙を渡してきた。直倉の解答がちらりと見えたが、全ての欄にしっかり解答が書き込まれていた。


「着信、大丈夫なのか?」


「あっ……」


 とても同じ解答時間で出来上がったとは思いたくない友人の答案用紙に嫉妬の念を抱いている場合ではなかった。


 速やかに前の席に答案用紙を渡すと、先生に見つからないようにポケットから携帯電話を取り出して通知を確認する。


 ……間違い電話じゃなかった。


 通話着信もSNS着信も発信者は真希だった。通話着信の後、何枚かの画像が送信されており、その最後には


『たすけて』


 と、短い一文で締めくくられていた。


 ……なんだよ、これ。


 たった4文字の言葉を目にしただけで全身に悪寒が駆け抜けた。何故、彼女が普段とは違う方法で連絡を取ろうとしたのか、どうして彼女は焦っていたのか、それが一瞬で理解出来てしまった。


 そして、試験中の愚かな判断に加え、今この瞬間でさえ真希のもとで起こり得ている最悪の状況を否定したがっている自身の心情に虫酸が走る。


 後方の直倉にも見えないように彼女から送られてきた画像を開く。液晶に浮かび上がる写真が真也の網膜に投影されていく。


 焦点がずれた写真で全体の輪郭はぼやけていた。だが、そのぼやけた輪郭からでも写真に映る物体が、本来であればもう存在しない筈の異形であることは容易に推定出来てしまった。


 ……やはり、現実は残酷だ。


「先生! 体調が悪いので早退します!!!」


 携帯電話を握りしめると共に、必要最低限の持ち物、原付バイクの鍵を取り出すと、一気に教室を飛び出した。先生も含めクラスメイト全員が唖然とするがそんなことは気にしてはいられなかった。


 廊下に出ると同時に最大速で駆け抜けながら真希へ向けて通話を開始する。



「あぁッ!!」


 焦燥と自己嫌悪の入り混じった叫びが漏れる。何度もコール音が木霊するが彼女の声は帰ってこない。


 二段飛ばしで階段を駆け下り、生徒用の駐輪場へと急ぐ。一瞬、最悪の事態が脳裏に過るが、頭を強く横に振ってそれを否定する。


 落ち着け、落ち着け。


 出来もしない自己暗示をかけながら真也は電話帳アプリから真希とは違う人物の番号を開こうとするが、


「!」


 探していた人物に電話を掛けるよりも先に着信画面に切り替わった。画面には「赤宮 真希」と大きく表示される。


「ッ!大丈夫か!?」



 すぐさま応答ボタンを押し、叫ぶ。


『……ちょっと、だいじょばない、かな』


真希の声だ。真也の叫びに驚きつつも、少し笑ってるように聞こえた。


『まだ、逃げきれてない。自転車も壊れちゃったし、手榴弾も使い、切っちゃった』


 真也が訊ねるよりも早く彼女は彼の疑問に答える。走りながらの彼女の声は息切れの音が不規則に漏れていた。


「ひっ、平松の野郎はどうしたんだよ!?」


 電話越しの彼女の予想外の冷静さの違和感を覚えつつも、次に浮かんだ疑問を叫ぶ。


 彼女が怪物に襲われ、逃げているのは認めたくはないが現実だ。だが、その最悪の事態を未然に防ぐ為の策が全く機能していなかった。


『何度も、連絡したけど、繋がらなかった』


 直前まで真也が試そうとしていた行動は、当然ながら彼女も行なっていた。


「じゃ、じゃあ本部の連中を呼び付けよう! それだったら!」


 現地担当者への憤りを堪えながら真也は次善策を絞り出す。最悪の状況でも出来ることはまだあると信じたかった。


『意味ないよ、きっと』


 だが、真希の返答は酷く諦観に満ち溢れ、


『多分、捨てられちゃったと思うから』


 皮肉っぽく微笑んでいた。


「……やめろ。そんなこと言うのは」


 背筋に悪寒が走った。なんで死ぬかもしれないって時に何もかも諦めるような事を言うんだ。


『仕方ないよ。私たちはいつも、こういう扱い、なんだから』


 だから当然の結末だよ、と彼女は言う。


「やめてくれ」


 聞きたくない言葉だった。その諦観から彼女を救い出したかった筈なのに。


『でも、最期に、真也の声が、聞けてよかった』


「だからやめてくれ!!」


 悲痛な叫びだった。彼女の思考は既に喰い殺されることを前提としてしまっている。


「すぐに行く!!」


 真也が彼女の元に向かったところで彼に出来ることは何もないのは分かっている。だが、叫ばずにはいられない。


『うん』


 その頷きは実に空虚だった。既に期待は望まれていないことを暗に示すように。


 スピーカー越しに異形が発したと思われる咆哮が木霊する。彼女の最期を宣告するかのように。


 反射的に目を瞑ってしまう。これから聞こえてくるであろう絶叫に耳も覆いたくなった。


 だが、


『えっ……』


 実際に聞こえてきたのは、絶命に繋がる叫びではなく、


『きゃあ』


「うおっ!?」


 驚愕を示す悲鳴と、携帯端末を落とした衝撃音、


 そして一発の銃声音。


「おい! 何が起きた!?」


 続けざまに異形の悲鳴が聞こえる最中で、真也は大声で叫ぶ。恐らく真希は携帯を耳元から離しているが、聞こえないことは無いはずだ。


 ……平松の野郎が、間に合ったのか?


 あのいけ好かない現地担当者の姿が脳裏に浮かぶ。彼女からの返答はなく、銃声音が続けざまに木霊すると、


『何をしているの! はやくそこから逃げて!』


 今度は、真希を救ったであろう人物の咆哮が聞こえてきた。


「っ!?」


 真也は思わず耳を疑った。声の主はいけ好かない現地担当者とは全く異なるものだったが、同時にひどく聞き覚えのある声でもあった。


「なんで」


 溢れるような声で真也は呟く。


 真也の聞き間違えでなければ、その声は、教員相手に堂々と正論で啖呵を切ったかと思えば、その後の授業に全く顔を出さなかった、あの素っ頓狂な転校生にあまりにも酷似していたのだから。




 

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