第3話 イド

 街なかに戻りようやく走るのをやめて明るい街灯の下でガイを見ると、サングラスは既に無く、その白皙の美貌には緑色の泥のようなバイパーの血がこびりついていた。雅也は制服のポケットからハンカチを出してガイに無言で差し出した。

「……ああ、ありがとう」

 ガイはそれを受け取り、無造作に顔を拭いた。

「あんたのことは信じるよ」

 雅也は言った。

「……あんたたちがいなかったら、多分俺は死んでたと思う……」

 『死ぬかもしれない』と考えたことなどそれまでの雅也の人生には無かった。平和で平凡な、普通の高校生の雅也には、死を身近に感じたことなど今まで無かった。ところが、いきなりその只中へと追いやられ、ただただなすすべもなく逃げるしかなかった。生まれて初めて、真の恐怖を感じたのだ。しかし、感じたのは恐怖だけではない。自分が本当にバイパーを倒す為に生まれてきたのだとしたら、このまま逃げ回るだけではいけないということ、両親や友達の為にも、自分がやらなければならないということを、なんとなくではあるが感じていた。もしかしたらそれは自分の中にある本能の声なのかもしれない、封じられた記憶というものがもたらしたものなのかもしれない、と雅也は思った。

「……怖いけど……俺がやらなくちゃならないんだよな?……俺しかできないことなんだよな?」

 見上げた雅也に、ガイはうっすらと微笑を返した。

「そうだ。他の誰でもない、きみにしかできない」

「……本当に俺にできるんだろうか?」

 思わず呟いた雅也だったが、ガイは大きく頷いた。

「きみが記憶を取り戻したいと強く願うのなら」

 雅也もガイを見つめて頷いた。

「わかった。……俺、やるよ、やってみる」


 雅也は電車を乗り継ぎ自宅からは遠く離れたガイの隠れ家に連れられて行った。そこは郊外の山の中にある古ぼけた一軒家で、周りに民家はない。

 ガイは雅也が思ったより深手を負っていた。服装に乱れはなかったし、それほど痛そうにもしていなかったが、隠れ家に着いてからその黒づくめの服を脱ぐと二の腕や首には無数の真っ赤な痣が残っていた。一番酷いところは皮膚が爛れ、じくじくと膿んでいる。聞けばバイパーにイドを吸われるとこうなると平気な顔をして答えた。

「で、でも、イドを吸われて死んでも何の証拠も残らないって言ってたよね?こんな状態じゃ絶対不審死扱いだよ」

 雅也が言うとガイはふんと鼻を鳴らした。

「イドの吸い方には二通りある。今回のように敵と見なして襲う場合と、餌として吸う場合だ。敵の場合はいちいち吸い方にはこだわらずにこういう風に酷い痕がつく。餌の場合は……」

 ガイはそこまで言うとちらりと雅也を見た。

「まあとにかく吸い方はいろいろだ」

「いろいろって……なんだよ?」

 ガイには珍しく言い淀んでいるように見え、雅也はつい聞き返した。

「それよりもその傷、このままにしといて大丈夫なのか?薬塗ったり病院とか行かなくても平気なのかよ?」

 人間ではないガイが病院に行くとも思えなかったが、いや、行くとすれば動物病院なのだろうかとも思いながら雅也は言った。

「……この傷を治す薬はないが……」

 ガイは上半身裸のまま、爛れた上腕部に視線を落とした。

「……完全に治すには、イドが必要だ」

 イドを吸われたのだから、失った分のイドを補充すればいいということなのだろう。ということは、今ここにいる雅也のイドをガイに与えれば傷は治る筈だ。雅也自身、本当なら自分を助けてくれたお礼の意味でもガイにイドを与えるべきだとは思った。だが傷の状態を見てしまったことと、自分があの触手から受けた激痛を思い出すと雅也はイドを吸われるのが怖かった。そんな心の動きが分かったのか、ガイは唇の端を上げた。

「きみは心配しなくていい。イドは誰かから吸わせてもらうことにする」

「誰かって……?」

 おそるおそる尋ねる雅也にガイはくくっと笑った。

「誰でもいい。もう一度町に出て男でも女でもひっかける」

 ちろりと舌を出して薄い唇を舐めたガイは雅也もぞくりとするほど妖艶だった。ガイの言う通り、男でも女でも簡単にひっかけられそうだ。腕の膿みをティッシュで拭うとガイは部屋の隅にあったロッカーから黒いシャツを取り出してそれを羽織った。

「ま、待って!すぐ出掛けるのかよ?俺を置いて……」

 雅也の脳裏に一人きりになったらまたあの触手男のような奴が襲ってくるかもしれないという不安が浮かんだ。

「俺、嫌だよ、こんなとこに一人で留守番なんて」

 ガイはそんな雅也の感情が不可解だったらしい。

「きみは、私の傷の状態とこの家に一人になることのどっちが心配なんだ?」

 雅也はうっと答えに詰まった。確かに、ガイの傷を治すにはガイはどこかに出掛けて餌となる人間を探す必要があり、雅也の傍にいたらそれはできない。

 ガイは雅也の顔をじっと眺めていたが、やがて口を開いた。

「では、きみのイドを吸わせてくれるのか?」

「お、俺の!?」

 雅也は素っ頓狂な声を上げた。

「い、いや、俺のイドはきっと旨くないんじゃないかな~……なんて……」

 あたふたと冗談めかして雅也は言ったが、ガイに冗談は通じない。ガイはくくっと喉の奥で笑った。金色の瞳が細められる。

「旨い不味いは関係ない。それに私は別に腹も減ってないから、全部吸い取る訳じゃない。普通の人間にとっては影響も出ない程度の量だ」

「で、でも!……確か言ってたよな?イドを吸われるのは苦痛だって……」

 ガイは鷹揚に頷いた。

「ああ。だが吸い方にはいろいろあるとも言ったろう?苦痛を伴わない吸い方もある」

「そ、そうなのか?」

 雅也はごくりと唾を呑み込んだ。イドを吸われるということに恐怖と抵抗はまだ充分にあったが、あの触手男のような奴に襲われて全部吸い取られてしまうよりは、ガイにほんのちょっとだけ吸われた方がいいに決まっている。

「じゃ、じゃあ、いいよ。……痛くないんなら……」

「無理はしなくていい。きみが嫌なら私は狩りに出るだけだ」

 ガイは『狩り』という言葉を使い、殊更に人間を餌として見なすような言い方をした。

「そんなこと言うなよ!」

 雅也はついかっとなって言った。

「あんたたちは人間を餌とは考えてないんだろ?イドが不足して、イドを補充するだけなんだろ?だったら『狩り』なんて言うなよ……」

 『狩り』とはまるで動物を屠るようにしか思えなかった。人間も他の動物を『狩る』ことで生きている。生きる為には仕方のないことではあったが、自分たち人間がバイパーに狩られる側だという事実をあっさり突き付けられたようで雅也の胸は軋んだ。

「……俺のイドを吸うなら『狩り』はしなくていいんだろ?……いいよ、俺の気が変わらないうちに早いとこやってくれよ」

「……そうか」

 ガイは頷いて袖を通したシャツを再び脱いだ。

 上半身裸になったガイは、雅也の手を取り隣の部屋に向かった。隣は広い洋室で、大きなベッドが置いてあった。雅也をそのベッドに座らせると、ガイはおもむろに雅也の両脇に腕を着き、圧し掛かるように顔を近付けた。雅也の両脚の膝の間にガイの片膝が割り込んでくる。

「うわっ!ちょっ、ちょっと!な、なに!?」

 思わず背中を仰け反らせ、肘をベッドに着いた雅也の顔のすぐ眼の前に金色の瞳があり、それはなんとなく妖しい輝きを帯びていた。

「雅也、きみは男がいいのか、それとも女がいいか?」

「はあ!?」

 眼を白黒させている雅也にガイはくくっと笑って続けた。

「我々には雌雄の別がないのでね」

「そ、そんなのイドを吸うのに関係あるのかよ!?」

 ガイの妖艶で端正な顔が至近距離に迫り、雅也はどうしていいのか分からないままだ。ガイの方は雅也の反応を愉しんでいるようにも見える。

「いや、ない。単に人間の好みだけの問題だ」

「吸われるのはおんなじってことなんだろ?そ、それじゃ俺もどっちだっていいよ!」

「そうか……」

 ガイは薄い唇の端を上げると、片手で雅也の顎をくいっと持ち上げた。

「ぅわっ……んんんんっ!!……」

 雅也が顔を反らすより早く、ガイはその唇を奪っていた。僅かに首を傾げるようにして少し乾いた薄い唇が雅也の唇に重なり、それだけでも雅也にとっては初めてのことだというのに、あろうことか熱い舌まで潜り込んできた。驚きの余り茫然としてその舌を受け入れ、その熱が歯列を割り口の中を縦横に動き回るのを感じるに至って、ようやく雅也ははっと我に返った。

「んんーっ!!」

 離せ、と叫んだつもりでどんどんとガイの胸を叩くが、ガイは雅也の顎を捉えたまま一向に離れない。雅也の舌を吸い、口腔の粘膜を舐りたて、しまいにはガイのなのか雅也自身のものなのか分からない唾液が口中に溢れ出し、雅也は思わずそれを呑み込んでしまった。

 ごくん、と嚥下した喉の動きを感じたのか、ガイはゆっくりと唇を離した。

「い、いきなり何するんだよ!?お、俺、初めてだったんだぞ!?……ううっ、絶対好きな子としたかったのに……俺のファーストキス……」

 それなのに……した相手は、男でも女でも、しかも人間ですらない生き物だなんて……雅也は言いながらだんだん情けなくなってきた。

 ガイは雅也の顎を持ったまま、その情けない雅也の顔をじっと見つめた。

「……そう言えば聞いたことはあるな。人間にとって最初のキスは特別な意味があると」

「そうだよ!!とーっても大事なものなんだよ!!そ、それも最初っから舌まで入れやがって!」

 雅也は言いながら真っ赤になっていた。

「いたいけな高校生に何するんだよ、全く!!……あ、あれ?……」

 真っ赤になった雅也は自分自身の何かがおかしいと思い始めていた。頭の芯がぼうっと霞んだようになって、くらくらする。それに真っ赤になったのは顔だけではない。思わず自分の手を見ると掌も真っ赤だ。学生服の首元に触れてみる。首も熱い。身体じゅうが熱い。

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