第8話 万華鏡

いよいよ明日、芦田のストーカーを止める。俺の経験で大学受験の前夜は特に寝る事が出来ない。でも、寝れたからって、安心出来るものでもない。ここまで来たら頑張るしか無い。職人に言われた言葉を思い出す。俺も絶対に成功したい。この期待を裏切らない様に頑張る。ただそれだけの事だ。その為にその日の前夜はとても重要になる。だからこそ、今が本番よりも重要だ。この場で芦田と別れた。今は俺と職人しかいない。

「初日からこんなに働いてもらって悪かった」

「いいえ、明日の成功の為に、このくらいしなければ解決出来ないと思っていますから」

「これからちょっと付き合ってくれないか?」

「分かりました」

この言葉を職人から聞けるなんて思っていなかった。その言葉は芦田の口から聞きたかった。俺と職人は有料駐車場に戻る。職人は腕時計を見て、苦しい顔をしていた。でも、その後、職人の顔が微笑んでいた。俺はと思った。ただ、誰かの悩みを解決出来る。職人にとって、これ以上の嬉しいものは他にはないのかも知れない。仕事は時に自分を苦しめる。だけど、必ず自分にも良い事は絶対に起きる。それだけは絶対に言える。何故なら、職人の様な人間に会う事が出来たから。俺と職人は車の中に入る。さっきの3人でカフェに行った時と同じ配置で車に座る。この車の花はいつしか消えていた。スーツを着た2人が黒い車に乗っている。それだけで第3者から見ればやばい光景だ。このまま道路に出たら職務質問される気がする。そんな事も怯えずに職人は車を動かす。

「三島先輩。これから何処に行くのですか?」

「体を鍛える為の場所さ」

「ジムとかですか?」

「似た様な所だ」

そう言って、運転手は車のアクセルを踏む。車はアクセルを踏まなければ、前に進まない。だから、どんな状況でもアクセルを踏み続ける。誰かがアクセルを踏んで、俺はただそれに従って、何処か分からない場所に行っている。それが今の俺だ。大学に行って、次代の社長として頑張りたい。自分の本能が決めたのか、誰かが言っていた事を自分に当てはめて決めたのか、そんな事が今でも分からない。でも、今、俺は進んでいる。成長しているのかどうか分からない。でも、自分でも分からない場所に行っていたとしても、進めている事に違いは無い。それに気がつけただけで俺は嬉しかった。誰も俺の事を気にしてくれなかった。家族も気にしてくれなかった。だからこそ、こんな職人がいて、俺に頼ってくれる。それがとても嬉しかった。どんな場所に行くかは具体的には分からない。でも、今なら何処でも行けれる。そんな気がした。

「着いたぞ」

「ここは私立探偵事務所『ミステーロ』ですよね?」

「確かにここは私立探偵事務所『ミステーロ』だ。何も間違っていない。だが、それは2階だ。1階も自由に使わせてもらっている」

「どう言う事ですか?1階は駐車場だと思っていましたが」

「ここの駐車場の横はリングだ」

想像した場所とは大きくかけ離れていた。でも、今なら何でも出来る。そんな気がする。バンテージを巻いた人が2人リングに立つ光景を俺はテレビで見た事がある。その2人はチャンピオンベルトを得る為に今まで頑張った事を頭に蘇らせて試合が始める。登場する際に音楽をかけて入場するが、これは演出の為でもあり、自分を最大限に発揮する為でもある。それは、勉強も一緒だ。目標に向かって、ただ練習していく。これの繰り返し。楽しいなんて思った事もない。そう無理に思おうと思っても、それを持続させる事は無理だ。だけど、達成感が欲しくて、観客全員が俺のチャンピオンベルトを着けている自分の姿を見て欲しくて、応援してくれる人に恩返しする為にやっている。あんなにボコボコ殴られて、顔も痛そうで、なぜ殴り合うのかを納得出来ない人間もいるだろう。でも、やっている人間にはそれぞれにプライドがあってやっている。やっていない人間には誰にも絶対に理解出来ない事がある。でも、やる。そんな精神がいつしか、実るかも知れないし、実らないのかも知れない。でも、その姿は誰かの勇気になる。そう信じて挑戦する。だから、チャンピオンベルトは結果として付いてくる物で、結局はみんなに勇気を与えたい。そんな思いでやっているだろう。俺は今からいろんな事を教えられる。俺は職人兼ボクサーと共に更衣室(男性用)に行った。何故か職人兼ボクサーは活き活きしていた。

「この体格だったら、このサイズが丁度いいだろう」

「あの、俺、最近あまり運動していないんですけど、大丈夫ですかね?」

「だから、体を動かすんじゃないか」

「確かに、明日の俺に体があるかどうか分からない。死んで解剖される時は少しは引き締まった体になっている方が、解剖する側も少しだけいい気分になれるかも知れないですけど」

「解剖する人から見たら、結局は体の中身を見るんだから外身はあまり関係ないかもな。でも、俺もそう思ってこのボクシングのリングに入った。どうせ死ぬなら、引き締まった体の方がいいと思っていた。でも、重要なのは体でなく、その戦う意思が重要なんだ」

「では、何故柔道とか剣道とか色々選択肢があるのにボクシングに限定するのですか?」

「俺たちは礼儀を持って戦う余裕がある程、強くは無い。剣道の様な竹刀が道端に転がってある訳でもない。だから、拳で戦う。足は体を支える為の物であって、蹴る為にあるのではない。だから、ボクシングなんだ」

「では、キックボクシングでは無いんですね」

「一番強い奴は動かない奴だ。自分に向かってくる奴だけをただ殴る。無駄な力を掛ける必要が無くて、100%の威力を拳に集中する事が出来る」

「100%の蹴りはダメなんですか?」

「現実はリングの様にロープがある訳でもない。人の家のレンガを踏む事には抵抗がある。しかも、あのジャンプや飛び蹴りは客に見せる為のものだ」

「そうですか。では、ボクシングは1日でマスター出来るものなんですか?」

「そうでなければ、多田野君、君をここに連れて来ないからな」

彼の言い分はボクシングが出来る奴は強い。その理由を聞いて納得する。

「パンチンググローブも現実には落ちていないですから、付けないんですか?」

「付けるに決まってるだろう。付けなきゃ骨折するぞ」

「明日は付けますか?」

「いや、付けないが」

彼の理論は狂っているが、俺はボクシング初体験だった。1度やってみたい様なやってみたくない様な複雑な気分だ。だから、これを逃すと2度と出来ない体験だろう。

「やります。三島先輩お願いします」

「さあ、やるか。手加減するなよ」

リングの上に立って分かった事がある。このリングから見た光景はとても熱気に包まれて、観客の全員が自分に応援しているのだと俺を錯覚させた。やっている人間の気持ちが理解出来た。やっている人間にはこんな目線で相手は戦っているのだと俺は今知った。互いが相手を倒したくて堪らない。でも、相手を見るからこそ自分が弱く見えてしまう。誰だって、怖い。本番はもっと怖い。本当に死ぬんじゃないかってほど怖いと思う。でも、死にたくないから戦う。死ぬかもしれないけど、戦う事しか出来ないから戦う。

「先ず、基本の姿勢を練習しておく。何があっても腕で顔を守れ。後、膝を少し曲げろ。そうしたら、前に出やすい」

「なる程、そうかも知れません」

「そうだからやってんだよ。次にジャブだ。これで相手の隙を見つけて殴る。それと反対側も守り続ける」

「確かに、これは最強だと思います」

「最強だからやってんだよ。最後にワン・ツーと呼ばれる動きを習得する。それで、相手が動けなくなる。又は、ビビられたら、それでいい」

「それだけで全てマスターですか?」

「全てをマスターする必要はない。探偵だから、これ以上の技を習得すると、相手が死んでしまう」

「分かりました。これをずっと今日は練習するんですよね。明日はパーカーで仕事します」

「勿論。いいだろう。ボクシングするのにスーツは無理だろうからな」

この練習を3〜4時間ずっとしていた。たったこれだけの技をただ往復していた。最後には職人兼ボクサーにもこれで十分だと言われるくらいまでした。今までは俺の手の主な利用方法としては筆記用具を持つ為だけだった。中学生まではサッカーをしていた。たいして出来た訳では無かったが、俺の父がJ1のサッカーチームのスポンサー契約をしていて、もし、サッカー選手になれたら、テレビや新聞紙、雑誌を俺一面に載せる事も可能だった。表向きは、一杯頑張る姿を世に広めたかった。でも、本当はメディアに出て有名になりたかった。だが、そんな事も出来るはずもなく、高校の時は学級委員の帰宅部だった。俺の手は筆記用具を握るだけの為に生まれてきたと言ったが、今はその理由でさえも使えない。今日の練習が終わって、すぐ家に歩いて帰る。一刻も早くシャワーを浴びたい。俺みたいな金持ちは浴槽が多く置いてある。でも、お湯を入れる事のが面倒で、掃除するのも面倒だ。だから、いつもシャワーしか浴びない。顔や体を洗って、お風呂場から出る。誰かがタオルを置いてくれる訳でもない。だから、自分でタオルを持ってきた。フェイスタオルやバスタオルは全て高級品だ。ボクサーにこんなタオルをインターバルで拭く事が出来たなら、次のラウンドも戦える気しかしないと思う。洗面台でファイティングポーズをしてみる。観客にはこのファイティングポーズを見てどう思うのだろうか。プロでもアマでもこのポーズは欠かせない。高田もどう暴れてくるかも想像する事が出来ない。映画やドラマなら、刃物を持って襲ってくるかも知れない。そんな時に、高田に勝つ事が出来るのだろうか。また、高田が逃げたとして、追いかけるべきなのだろうか。今の俺には不安材料が多い。でも、今は練習を自信にして生きていくしかない。明日の準備の為に多田野家の近所のコンビニに行って、ついでに晩ご飯も買う事にした。出来るだけ油分が多い食べ物は避けて選ばないといけない。また、乾パンの様な非常食も買う事にした。持ち場を離れる事は出来ない。1つ1つの行動が後に影響する事になる。飲み物もゼリーの様な軽くて蓋が出来る物にした。いつも値段を見ないで籠の中に入れる。いつもなら、クレジットカードを提示、会計終了。だが、今日は現金で払った。小銭はいざという時に必要になる。そんな事を気にかけて生活する事は今までなかった。初めてした事があって何故か嬉しかった。1個人として普通の人間界に降り立った気分だった。コンビニを出ると、外がこんなにも寒かった事に気がつく。早く帰ろうと走る態勢になって、昔やっていたサッカーを思い出す。こんなにも走る事が楽しいと思えたのは何年ぶりだろうか。家でもボクシングをしたくなった。もう暗くなっている。でも、体は鈍る事を怖がっている。だから、動き続けなければならない。疲れてから寝る事も出来る。今は精一杯、体を動かす事にした。職人兼ボクサーから教わった事。それは予習はせずに、復習だけ。その姿はまるで講師の様だった。ただ、講師に従って練習をして、今日という長い1日が終わった。目覚ましを設定した時間にベルが鳴る。昔の人はどうやって朝起きていたのか想像も出来ない。今の生活は何もかもが便利だ。それに依存しない生活は必要だ。でも、今日が大切な人にそんな悠長な事は言っていられない。今日も目覚ましがなって助かった人は多い。その内の1人が俺だ。機械がしたという付加価値によって、より信頼度が高くなる。今はスマートフォンにもそんな機能が付いている。そんな時代に生まれる事が出来て本当に良かったと思う。だか、そのベルは試合開始の合図であるゴングの様だった。


考察とは物事を明らかにする為に調べる事。結果を知って、自分なりに考え、表現するこれが考察と呼ばれるものだ。そして、それを科学的な法則だったり、仕組みを利用して正しいと証明する事を結論と人は言った。結果から出た情報が少ない時や新たな疑問が出ると、また実験をする。十分な情報とこれ以上の実験は不要となると初めて考察する事が出来る。この世の中にもまだ不便な事がある。それは治らない病気がある事だ。私の1番目のお父様は肺がんのステージ4だった。この段階でもう長生きできない。1番目のお父様は生物の知識を多くの生徒に伝えて死んだ。もし、新たな遺伝子で治らない病気を治す事が出来るのなら、作って世に広めるべきだ。日本の医療分野を変えるのは、今までの医薬品でも、テクノロジーでもない。新しい遺伝子のメカニズムだ。昔話に出てくる不死の薬があるのなら、その時代の動物や野菜を調合するしかない。そう考えると、不死の薬が出来ないのは絶滅した生物が関係あると仮定する。それを考えると先ず、その遺伝子を作り直す事が大切だと考える。それが世界を変える1歩だ。私は多田野君とその場を別れた。別れたくなかったと言えば本音だけど、全てはこれからの将来の為だ。いよいよ明日、私のストーカーを止める。約2年間の空白の後はやがて長編小説の様な物語が待っている。きっと終わる事のない長い物語。その初めの1歩。その為にその日の前夜はとても重要になる。だからこそ、今が本番よりも重要だ。革命前夜と言っても過言ではない。この場で2人と別れた。革命を起こす者は多くの時間と人材を利用して革命を起こした。革命はたった一瞬で起きて世を変える。歴史の教科書には2ページくらいにしか書かれない事だけど、その2ページは血と汗と涙の結晶だ。

「今話していいかしら高田君」

「いいですよ。芦田さん」

「明日の事で言いたい事があるの。高田君は今何処にいるの?」

「今大学にいますよ」

「私も今大学の近くにいるんですよ。大学の食堂で話しませんか」

「それでは、変な噂が流されたら困るから、人目の少ない3階と4階の東側の階段で話しましょう」

「分かりました」

私は急いで大学の中に入った。目的地に行くと高田君の姿が見えた。今日した事と明日する事を事細かく言った。

「これで以上よ。何か質問があったら言ってね」

「いいえ、これといって質問はありませんが最後はどうしますか?芦田さんはどうしたいと思っているのですか?」

「出来るだけ多田野君には驚いて欲しいの」

「そう思っているなら、俺は殴られても構わない」

「どうしてなの。俳優なんて顔でも腫れたら大変じゃないの?」

「まあ、大変だけど、それで芦田さんの願いが叶うのならどうなったって構いませんよ」

「分かったわ。明日は絶対に成功させましょう」

大切な話し合いは無事終わった。研究室に行って生物に餌を与える。すると、市川いちかわ菜々子ななこ教授が私に近づく。

「なんか今日は楽しそうね。芦田さん」

「市川教授。今日、実は私、楽しい事がありました。高校の同級生と会ったんですよ」

「それは良かったですね。私の同級生達はもういなくなってしまいました。今は骨になっていて、風通しが優れているそれぞれの所で寝ています。でも、あの頃は楽しかったんですよ。だから、芦田さんも楽しめる時に楽しんでください」

「はい。これからも楽しみます」

「喜怒哀楽って四字熟語があるけれど、人間は人間の感情を読み解くのは比較的簡単だと思うわ。でも、昆虫や魚の感情を読み解く事は人間には絶対に出来ない。芦田さんは何故だか分かりますか?」

「すいません。分かりません」

「人間は感情を表す時に、口角の位置が変わる事やまぶたの大きさが変わる事を人間は変化としてそのパターン1つ1つに感情として名前を付けた。でも、昆虫や魚は1つ1つの部位が小さく、感情の変化が現れ難いの。他の生物でもその変化のパターンが多い生物もいれば、少ない生物もいる。同じ生物でも個人差があって、その感情が必ず正しいとは言えないの。人間も根暗でもいれば、根明でもいる。私達は人間を100%理解しているつもりでいるけど、100%理解する事は絶対に理解出来ないんだ」

「確かに人間はいろんな種類の感情が存在して1つに括る事が出来ない。どんな人間にも当てはまる感情は4つはあると仮定した人間が喜怒哀楽と言った。人間は誰でも4つの感情しか分からないのに、他の生物の感情は知る事は出来ませんよね」

人間は4つの感情を必ず持つ。私は多田野君の感情を4つも見た事は無い。私の生物学の研究材料に新たな生物が増えた。研究も一種の格闘技だ。目標を達成する為に日々鍛錬する。バンテージを巻いた人間が2人リングに立つ。その2人はチャンピオンベルトを得る為に今まで頑張った事を頭に蘇らせて、試合が始める。選手の妻もこの日の為に多くの努力をしてきた。コーチや選手の後輩も共に今まで頑張ってきた仲間だ。今の私の立場は2人の選手を応援している立場だ。相手の妻も仲が良い。しかも、八百長の試合。それならば、もう戦って欲しくない。選手が傷つく必要は絶対に無い。でも、そこまでしなければ多田野君は私に振り向いてくれないだろう。この戦いが終われば、多田野君に全ての事情を伝えようと思う。全ての事情を伝えた後は多田野君はどんな感情になるのだろうか?それによって、私はどんな感情になるのだろうか?

「市川教授。聞きたい事があります」

「はい。芦田さん何ですか」

「何故、生物は生存し続けようと思ったのでしょうか?」

「具体的には分からないわ。でも、生物の進化だったり派生した事は事実。その事実から考える事は初めは環境に合わなかった生物がいた。その生物はそれを解消する為に生物はいろんな進化を遂げた。環境が合う様になって自由に生きたかったんじゃないかな。だから、生物は生存し続けようとした。つまり、自由になりたかったって事ね」

「確かにそうかもしれません。しかし、今でも環境に合わない生物もいます。蟻はいろんな進化や派生をしましたが今でも働き蟻がいますよね。何故、働き蟻が存在するのだと市川教授は思いますか?」

「働き蟻に限らないで言える事がある。進化や派生の上限があるとしたら、それ以上の進化や派生は見込めない。それと生物が生きている間は、他の生物に変わる事が出来ない」

「どういう事ですか?」

「つまり、蛇がまだ進化出来るなら蛇はもう存在しない。しかも、蛇は龍にはならないし、龍は蛇にもなれない」

人間として生まれたら人間の生き方しか出来ない。人間は鳥類や天使の様に飛べる訳ではないし、深海類の様に深く海に長時間潜れる訳でもない。人間は何でも出来る様で何でも出来る訳ではない。人間は神様にはなれない。だから、運命を変える事も出来ない。

「でも、芦田さん。安心して。蛇は龍の様にかっこよく生きる事は出来る。そして龍は蛇の様に可愛く生きる事も出来る」

「そうですよね。誰だってやりたい様に生きる事が出来ますよね」

「あなたがやりたい様に生きるなら、どんな事をやって生きていくのかしら?」

「今だったら、大切な人間を支えたて生きていたいです」

生物の生き方は人間の生き方と共通している部分が多い。私はこんなにも近くで生き方を教えて頂ける人間がいるなんて思わなかった。どんな生物だって大切な何かを守る為に戦う。

「もし、ある人間が私の為に戦うのだとしたら、私はどうしたらいいですか?」

「芦田さんの為に戦う。その前向きな気持ちを知る事が出来たら、どんな結果になってもいいのですよ。芦田さんの為に戦ったんですから」

私の1番目のお父様も市川教授の様な優しい先生だったら良かった。市川教授は女性だからなのかもしれないけど、優しい。優しい事は多田野君とも同じだ。唯一、私の1番目のお父様と多田野君の共通点は男性と頭がいいだけだ。

「市川教授。今日はいろんな質問を聞いて頂きありがとうございます」

「いいんですよ。疑問はとても大切ですからね。成長する上でも」

私が大学を出ると、外は暗かった。本当にストーカーが出てきてもおかしくなかった。それ程、外は静かだった。学園都市と言えど、夜になれば静かになる。でも、少し歩くと車の通りが多い道に出る。そこは騒がし過ぎる所だ。静かな所で住みたいと私は言った。しかし、ストーカーが出るくらいなら静かな所では住みたく無い。守ってくれる人がいるなら話は別だけど、今はいない。近い未来、この願いは叶うかもしれない。だって、守ってくれる人が私の近くにいるからだ。この静かな暗闇に私の腹部からお腹が空いたという指令が音で知らせた。私は近くにあるスーパーに行った。自分で料理を作る事は好きだった。私の料理の決め方はいつも決まっている。それは料理紹介サイトのレシピ表を携帯に表示して、目を閉じたままスクロールして目を開いた時に親指の先に表示されているレシピを作るという決め方だ。そうやって今日の晩ご飯を毎回決める。今日は肉じゃがだ。まだ良かった方だと思った。たまにハズレを引く日もある。そのハズレクジは牡蠣だ。牡蠣のバター焼きを作った事もあった。私は猫舌だからあまり熱い状態で作りたくない。案の定、食中毒になった。でも、今日はそんな危険はない。こんな日に牡蠣なんか食べたら、大切な明日を失う事になっていた。私は何故か安堵していた。よく言われる事がある。肉じゃがだったらスーパーのパック売りで売ってあると。確かに肉じゃがはスーパーでも売っている。でも、作りたい。今頃、多田野君は私の2番目のお父様とボクシングの練習をして頑張っている。私も多田野君の様に頑張りたい。先ず、肉じゃがなのだから、牛肉とジャガイモの売り場に行く。これがないと肉じゃがとは言わない。次に、人参と糸蒟蒻と玉葱の売り場に行く。これはサブな役目だと思う人もいるかも知れないがなかったらなかったで寂しい。最後に、インゲンやサヤエンドウ、松茸の売り場に行く。これは自由枠だ。私はレシピに忠実だから、サヤエンドウをカゴに入れる。米はまだあるから買わなくて済んだ。今日の買い物は軽くて済んだ。この量なら2食分のおかずになりそうだ。歩いて自分のマンションに戻った。戻ると少し散らかっていた。今日の朝にここまで興奮していた事が怖かった。買ってきた食材をキッチンの上に置く。洗面台で手洗いとうがいをする。タオルで拭いてキッチンに行く。エプロンもちゃんと付けて、まな板と包丁を取り出す。包丁はリズムよく音を立てた。携帯に書かれた手順に沿って作る。2食分を作る事が出来た。2つの皿に1食分ずつ盛る。その内の1つの皿は冷蔵庫に収められた。炊飯器から1合を茶碗に入れる。一応、ランチョンマットを敷いて肉じゃがとご飯を乗せた。携帯のカメラを起動する。携帯のアルバムには可愛いパンダの隣にこの料理の画像が載る。頂きますの合図で食べ始める。料理レシピが載っているサイトはほとんどが美味しい。これが今の時代では誰でも美味しい料理が作れる事が出来るなんていい時代だと思う。ご馳走様と言ったのは立ったの20分後だった。この20分間は幸せだった。食べた後、食器を水につけて、すぐにお風呂場に行く。私は普段シャワーしか使わない。風呂を入れてもいいのだが、その分お金が掛かる。たった1人が数分間の為にお金を使うのは嫌だ。しかも、長風呂は乾燥肌の原因になる。顔や体を洗って、お風呂場から出る。体を拭いてバスタオルを巻く。髪も2枚目のバスタオルと髪留めを使って乾燥させる。服に着替えるなら広い場所で着替えたい。リビングに行って、パジャマを着る。頭につけたバスタオルも髪が乾いたから次第に外した。テレビの電源を入れると、プロレスの日本チャンピョンの決定戦やドキュメンタリー番組、旅番組が放送していた。何故か見る気になれなくて、テレビの電源を切った。スマートフォンで恋愛漫画を読む。何故か胸がドキドキする事はなかった。またテレビの電源を入れる。今度は恋愛ドラマやサッカー中継、ニュース番組が放送していた。この恋愛ドラマは1話目だった。この時間帯は元々バラエティー番組がやっていたが、視聴率が低くて辞める事になったとネットニュースで知った。私には凄く面白かったけど、コンプライアンスがギリギリだった事と時間帯の悪さが問題だった。恋愛ドラマは熟女をターゲットにしたのドラマだ。私は面白くないと思ったから、もう1度テレビの電源を切った。つまらなくなって、眠たくなった。ソファーで寝てもいいのだが、寝返りが悪い私はソファーで寝る事に怯える。ベットで体を横にした。眠たいのに眠りたく無かった。私はピーチジュースの動画を見る事にした。ピーチジュースの顔は眠気が無くなる程、綺麗だ。綺麗な顔から幼い声が聞こえる。

〈全国の女子の皆さ〜ん。今日も私を見てくれてあ・り・が・と・う。今日もメイクの上達法を教えるよ。今日のお題は〜彼氏が思わず、K・I・S・Sしたくなる様な口紅の塗り方〜では、早速教えるね〉

私は目を全開に開けてピーチジュースの動画を見た。

〈先ず、口紅を人差し指につけて。自信が無い人は少しずつでもいいよ。そうしたら、唇にポンポ〜ンって感じに塗るの。自分の顔を見て見て。唇の縦ジワにも馴染んでいて、K・I・S・Sしたくなる様なプルルル〜ンって感じの唇になってるの。でも、ここまではまだ普通なの。ここからがピーチポイント!みんなメモしてね。口紅を塗った人差し指を唇に当ててみて。これで色っぽく見えるよ。男の子はもうメ〜ロメロ。それで後ろを振り返るなんてしたら、男の子は膝から倒れちゃう。これでもっと色っぽくなったね。女の子の強みを最大限に活かして生きていきましょ。チャンネル登録をお願いしま〜す〉

私は女の子だけどメロメロになった。こんな女の子が学校にいたら凄い事になると思った。私はそんな事を考える力が残っていなかった。最後の力を振り絞って携帯の目覚ましをセットした。このマンションのの光が1つ暗くなった。この町から1つの光は暗くなった。この国から1つの光は暗くなった。この惑星から1つの光は暗くなった。この宇宙から1つの光は暗くなった。目覚ましを設定した時間にベルが鳴る。昔の人間はどうやって朝起きていたのか想像も出来ない。今の生活は何もかもが便利だ。それに依存しない生活は必要だ。でも、今日が大切な人間にそんな悠長な事は言っていられない。今日も目覚ましがなって助かった人間は多い。私はその中の1人だ。機械がしたという付加価値によって、より信頼度が高くなる。今はスマートフォンにもそんな機能が付いている。そんな時代に生まれる事が出来て本当に良かったと思う。だけど、そのベルは試合開始の合図であるゴングの様に思えた。

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