エピローグ

Side:忍

第44話 息子の恋、父の恋

「イヤよ」


 秋も深まってきたある日曜日。ランチタイムをすぎた『喫茶ミモリ』のすみっこで、ピシャリといって顔をそむけたのは、人好茜ひとよしあかね、七歳である。背後にツーンという文字が見えるようだ。


「なんで?」

「わたし、年下はシュミじゃないの」


 今度はガーンという効果音が聞こえてきそうなほどあんぐりと口をあけて、それからしおしおと背中をまるめてしまったのは見守譲みもりゆずる、五歳である。


 カウンターと四人がけのテーブル席がふたつあるだけのせまい店だ。ふたりのやりとりは、どこからでもまる見えのまる聞こえである。

 カウンターのなかでなりゆきを見ていたしのぶはうっかり吹きだしそうになって、ギリギリこらえた。こみあげてきた笑いを咳ばらいでごまかす。


 わずか五歳にして、人生はじめての失恋である。笑ってはいけない。おとなから見ればひたすらかわいいだけだが、本人は真剣で、必死で、そしてたぶん傷ついている。すくなくとも親である自分が笑ってはいけない。そう思いながら、となりにいる紗菜子さなこにふと目をやると、彼女はこちらに背中を向けて肩をふるわせていた。

 一方、テーブル席にいる、茜の母親であり紗菜子の親友でもある人好奈子なこも口を手のひらで押さえて顔をそむけている。どうやら気持ちはみんなおなじらしい。


「もう! メソメソしないで! だから年下はイヤなのよ」

「め、メソメソなんかしてないよ」


 ゴシゴシと目をこすっているあたりまったく説得力がない。


「しょうがないわね。コイビトごっこならしてあげてもいいわよ」

「ほんと!?」


 パッと譲が笑顔になった。そこでよろこぶのか。いいのかそれで。忍は息子の将来がちょっと心配になってきた。


 譲はにこにこと、茜はしかたなさそうに手をつないでカウンターのなかにはいってくる。


「おじゃまします」


 譲の手をひいたまま礼儀正しくぺこりとおじぎをして、茜は二階への階段がある奥のキッチンに迷いなく進む。勝手知ったるなんとやら――である。月に一、二回は遊びにきているので慣れたものだ。


「なんか……ごめんね」


 ちいさな背中が消えたところで、笑いたいのか謝りたいのか複雑な表情で口をひらいた奈子は、やはりがまんできなかったのだろう。最後にはふふっとちいさく息をこぼした。


「子どものころって、女の子のほうが精神年齢高いっていうしね、年齢差以上に子どもに見えるのかも」


 紗菜子は最初から笑いまじりだ。その声は微妙にぷるぷるゆれている。


「こればっかりはなぁ……」


 忍も笑うしかない。


 紗菜子と結婚してまる七年がすぎた。七年たっても紗菜子は紗菜子のまま、ちいさくてかわいい。いや、母親になって一本芯が通ったような、ある種の強さが加味されて、以前よりもきれいになったかもしれない。


 そして『ミモリ』は今も変わらず、糸枝町いとしまち通り商店街で営業をつづけている。紗菜子の実家である『おかずの千井ちい』もまた、夫婦で元気に店をあけていた。妊娠するまでは、夕方の配達などは紗菜子が手伝いに行っていたのだが、現在はアルバイトを雇っている。



 あの日の、商店街をそのまま式場として使用した忍たちの結婚式がにわかにこのシャッター通りを活気づけた。『人が集まる』たのしさを思いだしたのかもしれない。とはいえ、そう簡単に再生できるはずもない。だから、商店街を商店街としてではなく、空き店舗をある種の人々に格安で、場合によっては無償で貸しだすことにしたのだ。

 対象はおもに発表の場がない、かけだしのアーティスト。絵画や彫刻、工芸など美術品の展示販売ができるようにした。もちろん無名作家の作品をいくら飾ったところで人は呼べない。この企画で最大の功労者は、今や世界的にその名を知られた画家であり、忍の友人でもある薄井友うすいともだろう。


 きっかけは、結婚祝いとして描いてくれた忍と紗菜子の油絵だった。これを店に飾っておけばお客が増えるかもなーと、誰かが冗談半分にいっていたのを、トモが『宣伝すれば、たぶんお客呼べる』と、なぜか乗り気になり、後日商店街周辺の絵を数点描いてきたのである。


 非常に影が薄くて、レストランなどでも注文を忘れられる、そもそも注文をとってもらえないトモにとって、『ミモリ』は注文どおりに料理が出てくる唯一の店だというから、なくなったら困るのだろう。むかし、両親を亡くした忍が店をたたもうとしていたとき、そんなことをいっていたような気がする。


 とにかく、トモが寄贈してくれた絵画を空き店舗に展示したのがはじまりだった。彼の作品は、彼の言葉どおり人を集め、さびれた商店街をにぎわせた。以来、現在にいたるまで、年に一度か二度は新作を届けてくれている。


 食事は無料だとかえってきにくくなると本人に却下されてしまったが、せめてもの気持ちとして、トモには『ミモリ』のコーヒーをはじめ、ドリンク類はすべて無料で提供することにしている。ほかの店でも彼が行けばなにかしらサービスしているはずだ。この商店街で、トモの影はもうけっして薄くない。ちなみに、結婚式の絵だけは自宅である二階に飾っている。


 そして、そうこうしているあいだに譲が生まれ、人好親子とは家族ぐるみのつきあいになった。海やキャンプ、動物園や遊園地など、よく一緒に遊びに出かけている。


 それにしても、まさか譲が茜に恋をするとは。

 しかも親の目のまえで告白してフラれるとは。


 突拍子もない子どもの発言にもだいぶなれてきたと思っていたが、まだまだ意表をついてくる。最後には恋人ごっこときた。いったいなにをしているのだろう。忍にはまるで想像がつかない。なんとなく紗菜子を見ると、彼女もちょうどこちらを見たところだった。


「ちょっとようす見てくるね」


 どこかしかたなさそうにほほ笑んで、紗菜子は子どもたちを追って二階に向かった。


 こういうとき、ほんのりうれしくなる。心がつながっているような気がして、よりいとしく感じる。


 結婚してまる七年。

 もう八年目である。

 五歳の息子だっている。


 紗菜子の夫になって、譲の父親になった。


 たしかにもう、不安まじりの身を焦がすような気持ちはない。

 

 それでも――


 忍は今も、紗菜子に恋をしている。

 そんなこと、とても口にはだせないけれど。

 心がやすらぐような恋に、毎日のように落ちている。



     (つづく)



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