Side:紗菜子
最終話 何度でも恋をする
「わたしとシゴト、どっちがたいせつなのよ!」
「え、あか」
「いーっつもシゴトシゴト! きのうはわたしのたんじょう日だったのに! ひどいわっ!」
そして、なすすべもなくオロオロしている
「もうあなたとはやっていけない。さようなら」
「ええっ」
紗菜子はとっさに口を手のひらで押さえて顔をそむけた。危うく吹きだすところだ。まさか、ごっこ遊びでまでフラれてしまうなんて。
茜はたたっと三歩ほどすすんでくるりと振り返った。
「もう! なにしてるのよ! カレシならとめなきゃダメじゃない」
ビシッと譲を指さす。
「そ、そうなの?」
「そうよ。ひきとめて、あやまって、ゆびわをわたすの」
どうやら茜のなかではきまったシナリオがあるらしい。そういえば紗菜子が子どものころもそうだった。自分のなかでは展開がはっきりきまっているために、相手が思うように動いてくれないと癇癪を起こしていたような気がする。相手――は、いわずもがなである。眉をさげた
茜の要求も、五歳児にはだいぶハードルが高いのではないだろうか。といっても、親が口をだすようなことでもない。とりあえずおやつでも用意しようと、紗菜子はキッチンに移動した。
*‐*‐*‐*‐*
その日の夜。
譲を寝かしつけて一階におりると、ちょうど忍が最後のお客さんを送りだしたところだった。
「お疲れ。寝た?」
「うん。ノブちゃんもお疲れさま」
手わけして掃除や洗いものをしながら、昼間の話になった。譲の告白と失恋。そして恋人ごっこ。
――あかねちゃん、どぉしたら、ぼくのことスキになってくれるのかな。ねぇ、おかぁさんは、おとぉさんのどこをスキになったの?
つい先ほど、譲はそんなことを聞いてきた。ふとんのなかで、つやつやのほっぺたを真っ赤にしていた。きっと譲は、紗菜子が想像するよりもずっと真剣に恋をしている。
「なんてこたえたんだ?」
「お父さんがお父さんだったからって」
「ええ? ゆずはなんて?」
「よくわからないって」
「だろうな」
「しょうがないでしょ」
適当にこたえることもできた。やさしいところとか、まじめなところとか、いくらでもこたえようはある。それ自体ウソでもない。けれど、譲の恋心は本物なのだ。子どもなりに一生懸命恋をしている。それを、いい加減にあしらうようなことはしたくなかった。
だから、紗菜子は正直にこたえた。譲が求めているものではないだろうと思いながら、ほかにいいようがなかった。
忍が、忍だったから。
やさしいとか、かっこいいとか、そういう『部分』ではない。押しに弱かったり、優柔不断だったり、たりないところも欠点も、ぜんぶ含めて、忍という人間を好きになった。知らないうちに、好きになっていた。
「いや、うん、わかった、もういいです。おれが悪かった」
「なにが?」
「大丈夫、なんでもない。気にするな」
そそくさとキッチンの片づけに行ってしまった忍に首をかしげて、今自分が口にしたことを反すうする。
欠点もたりないところも、ぜんぶ含めて好きになった……?
知らないうちに――好きになっていた?
紗菜子の口から、声にならない悲鳴がもれた。テーブルをふいていたダスターを手にしたまま、その場でくるくると意味なくまわってしまう。
譲のことで頭がいっぱいで、まったくの無意識だった。
忍と夫婦になって八年目だ。子どもだってもう五歳。妻で、母親だ。なにを今さら――と自分でも思う。
思うのだけど――
今でも彼に恋をしている。
そういったら、笑われるだろうか。
ふとした瞬間――たとえば、コーヒーを淹れているときの澄んだ横顔とか。譲と游んでいるときの全開の笑顔とか。寝起きの無防備な顔とか。ときおり紗菜子に向けられるやわらかなまなざしとか。見るたび、見られるたび、すとんと恋に落ちているような気がするのだ。
「紗菜ぁー、そっちおわった?」
忍はもう平常モードにもどっている。なんだかくやしい。紗菜子は「まだ」と、ぞんざいにこたえて、途中だったテーブルふきを再開した。
「あれ、なんかすねてる……」
ひととおりふき掃除をおえて戸締まりを確認していると、忍がキッチンから出てきた。
「どうした?」
「どうもしないよー」
紗菜子が振り返るより一瞬はやくうしろから抱きつかれた。
「ちょっ……」
「おなかすいたとか?」
「……子どもじゃないんだから」
「んー、じゃあ眠いのか」
「だーかーらー」
がっちり抱えこまれて逃げるに逃げられない。もぞもぞ身をよじっていると、忍がくつくつ笑いだした。つられて紗菜子も笑ってしまう。
彼の胸に寄りかかるように、紗菜子はからだの力を抜いた。
「ゆずの恋、実ると思う?」
「どうかな。茜ちゃん『年下はイヤだ』っていってたからな」
「前途多難だね」
「だなー」
見守るしかないよな――とつぶやいて、ためらうような沈黙が数秒流れた。
「あのさ」
「うん?」
「今まで考えたことなかったけど……おれもきっと、おなじなんだ」
「おなじ……?」
「そう。おれも、紗菜が紗菜だから好きになったんだ、きっと」
ぎゅうっと抱きしめながら、耳もとでそんなことをいうのは反則だと思う。さっきの仕返しだろうか。特大のブーメランをくらった気分だ。顔が熱い。
「そ、そろそろ二階あがろ? ノブちゃんこそおなかすいてるでしょ」
紗菜子は譲と一緒に軽くたべているが、忍の夕飯はいつも閉店後だ。なによりこのままでは身がもたない。
「そうだな」と、忍が腕の力をゆるめたところで、紗菜子はすかさずからだをねじって、ぐいっと彼の腕を両手で下方向にひっぱった。同時にかかとをあげて、かすめるように唇をかさねる。
仕返しの仕返し――のつもりが心臓が全力疾走をはじめてしまった。今にも破裂しそうだ。いつも自分ばかり心臓を酷使しているような気がする紗菜子だが、これはもう、しかたないのかもしれない。なにをどうしたってドキドキしてしまう。
「電気、ちゃんと消してきてね」
突然のことに目をまるくしている忍に、強気をよそおってにこりと笑いかけてから、紗菜子はパタパタと二階へ移動した。
*‐*‐*‐*‐*
忍の夕飯を用意するまえに譲のようすを見ようと、紗菜子はそぉ……っと寝室のドアをあけた。すーすーと寝息を立てている譲はかすかに笑っているみたいだ。どんなたのしい夢を見ているのだろう。
乱れたふとんをかけ直して、ちいさな頭をやさしくなでる。
「紗菜」
ささやくような声に振り返る。音を立てないように部屋にはいってきた忍のやわらかなまなざしが、たしかな温度をもって紗菜子と譲を包みこんだ。トクリとひとつ心臓が音を立てる。やっぱり、観念するしかない。
これからもきっと、紗菜子は何度でも恋をする。
未来がどうなるかなんて誰にもわからないけれど、それでも、おじいちゃんおばあちゃんになっても忍と手をつないでいたいと思う。その願いがきっと、未来をつくっていく。
だから、紗菜子は願う。
譲がすこやかに育ちますように。
忍がいつまでも元気でいますように。
ずっとずっと、夫婦仲よくいられますように。
「……ぁかねちゃ……」
譲の寝顔が、ふんにゃりとほころんだ。
(おしまい)
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